2023年02月21日

948 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社

948 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社

  20220902

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 方々の神社を見て回り、夕暮れが近づく頃に向かったのが前山鹽田神社でした。

 「鹽」の文字が入っているだけで、鹽土翁=神皇産霊神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)若しくは、最低でもその近縁の神が祀られているとの思いが走りました。

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前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681


 既に日が陰り、暗くなっていた事から、当方の写真はかなり手振れが酷く使えませんでした。

 このため、市のホーム・ページから素晴らしい写真がありましたので、勝手ながら使わせていただきました。

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前山鹽野地区は雨が少ない地区との事で、古代には米が得られない豊かとは言えない土地に何故か県社が

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画像は敬愛する「玄松子」様

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拝殿は写真のように、間口、奥行共に同じ長さで、楼門造りといって二階建てになっています。屋根は切妻〔きりづま〕で銅板葺です。軒の組物などに朱色の色付けがされています。なお二階建ての拝殿は県内では珍らしく、建築の形式上貴重な建物です。また拝殿の正面に「勅使殿〔ちょくしでん〕」の額が掲げてあります。これは本来の御門屋〔みかどや〕のことを御帝屋〔みかどや〕と呼びますので、後に勅使殿と書いたものでしょう。                       「上田市の文化財」より

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敬愛する「玄松子」様の記事より


 全ては見る訳にはいかないため、インターネットで上田市の神社を全て拾い出し、始めは呉橋(屋根付きの渡河橋)があったからこれは見なければいけないと思い選んだだけだったのですが、どうやらどえらい神社を発見したと今は思っています。

 それは、まず、呉橋の存在に理解を持たないと先に進めないのです。

 宇佐神宮とその西10キロほどの所にある薦神社(宇佐神宮でも勅使道と説明はしていますが宇佐から何故西に向かう勅使道があるかを説明できないのです)にも呉橋がありその先の豊前市の大富神社には勅使井戸が置かれており平安以降勅使道は使われていないと書かれているのです。

 これは、近畿大和朝廷の古代官道ではないからで、その以前、宇佐に呉の太伯の後裔(周王朝の流れを汲む正当皇統)の神々が祀られる神社だったから呉橋が置かれていたのです。

 間違っても応神などが渡ることなど許されない橋だったのです。

 実は、これと同じ現象に遭遇したことがありました。それは7年ほど前、兵庫県但馬地方でも天空の城で知られる朝来市の神社調査を行っていた時の事でした。

ここで粟鹿神社、赤淵神社という二つの神社に遭遇したのです。

ここにもどう考えても近畿大和朝廷のものとは考える事の出来ない勅使門が残されていたのです。

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粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152  0796-76-2465  創建507or和銅元年以前

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赤淵神社 兵庫県朝来市和田山町枚田2014 0796-72-3610  常色年間or大化元年645


 勅使門には天武天皇白鳳元年(673)建立と書かれる(白鳳)(常色)も九州年号ですね。

これについて詳しくは「ひぼろぎ逍遥(跡宮)480482」をお読みください。

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 

朝来市の足鹿神社再訪

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 

朝来市の赤淵神社の驚愕 下

480

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 

朝来市の赤淵神社の驚愕 上

ただ、何故、但馬〜播磨 国界に近い朝来市と上田市に勅使門、勅使殿が置かれているかは益々分からなくなりました。

今のところ、近畿大和朝廷に先行する九州の政権(筑豊の物部氏)が瀬戸内海ではなく対馬海流に乗り日本海側に北上し、但馬、丹後、上越、越中、越後に避退した人々がいたのではないか。

そして、白江戦で敗北する前の九州の政権の残滓がこの勅使門、勅使殿なのではないかと考えているのです。

勿論、応神天皇、和気清麻呂以降の宇佐神宮にも呉橋があり、現在でも天皇と天皇の勅使以外は呉橋を渡ることは許されないのですが、それは、宇佐に応神が祀られ九州の宗廟が宇佐に移行する8世紀半ばまでは、そこには呉の太伯の血を継承する姫(紀)氏の一族が支配する王統の権威が存在してからなのです。

 それが、出雲、播磨、甲信越だったのか?は今後とも継続する課題です。

 また、追放された筑豊の物部氏、建御名方の一族、近畿大和に歯向かった安曇族らが逃亡の末落ち着いた場所の一つが安曇野であり、和田峠の向こう側、つまり北関東だったのではないかと考えるのです。

 どちらにせよ、日本海から逃げ込む安住の地=山上楽園とは、諏訪であり松本であり、甲斐であり、信州、甲斐の最深部であり、武蔵野であり、北関東、東関東、一帯だったはずで、物部は武士として藤原氏を叩き潰す事になりそれは明治維新まで続くのです。

 上越市(直江津)、柏崎刈羽辺りから入った物部が関東武士団に成長したのです。武田も真田も…。

 では、最後に祭神を確認しておきましょう。


本殿前には二階建楼閣造の拝殿(勅使殿)がある。境内案内図や式内社調査報告では、境内左手流造の社殿が勅使殿となっている。とはこれも「玄松子」様。


御祭神

素盞嗚尊 大己貴尊 少彦名尊


創祀年代は不詳。式内社・鹽野神社の論社の一つだが根拠は薄いらしい。社伝によると、白鳳元年四月出雲大社より、塩野入の鷲岩に勧請されていたが、後に現在地・塩野へ遷座。塩野大明神と称されて、西塩田の産土神であった。永禄十一年(1568)四月、武田信玄が社領十貫文を寄進。天正十五年(1587)真田昌幸がさらに七貫文を寄進。この頃から、単に大宮とも称するようになったという。

明治六年四月村社に列し、その後、郷社、県社へと昇格した。


再び敬愛する「玄松子」様の記事より

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なお、上田市内には同名の塩野神社(保野字塩野429)があり、延喜式内社は自分の方だとの争いがあったとも言います。してみれば相当の権威ある神社だったとまでは言えそうです。

 辺りも暗くなり、カメラの手振れで酷い目になりますが、長旅の疲れも手伝って憧れの別所温泉を浴びようと共同浴場に向かいました。

百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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