2023年02月15日

946 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❷ 千曲市 佐良志奈神社

946 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❷ 千曲市 佐良志奈神社

  20220815

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 次は佐良志奈神社です。その社名からも藤原=阿蘇氏の影響(支那ツ彦の後裔)が見て取れます。

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今回取り上げる佐良志奈神社は前ブログで取り上げた武水別神社を千曲川沿いに上流5キロほど遡る辺りに在る延喜式内社です。

そこでお考え頂きたいのですが、武水分八幡神社の住所は長野県千曲市大字八幡3012であり、この佐良志奈神社 は長千曲市若宮2となっています。

これだけでも、私にはこの両社が共に高良玉垂命=開化天皇と仁徳天皇(藤原が第9代とした開化と仲哀死後の神功皇后との間の長子=シレカシノミコト)を祀る祭祀だっただろうと考えていますが、はっきり高良玉命と仁徳を祀る武水分八幡神社に対して、大字自体が若宮とされる佐良志奈神社こそより一層若宮(高良の若宮=仁徳)を祀る神社でなければならないと考えるのです。

 勿論、仁徳は祀られてはいるのですが、これが高良玉垂命と神功皇后の長子であることをご存じない方が大半だと思います。

 これは、九州本土でも久留米の高良大社周辺に於ける濃厚な伝承と切断され、一般には何やら聖帝伝説“民の竈賑わいけれ”と言った話しだけが強調れてしまっています。詳しくは調べていませんが、祭神4体の話は、高良玉垂命=開化を排除し、ただの別王でしかない誉田別命を藤原が持ち込んだ際に、事情を理解していた主要な地元の氏子の方々が、処分できずに忍びなく残し粗末にしなかったもののように思えるのです。

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詳しくは前ブログで掲載した百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)をご覧頂きたく思います。ここでは別のものをご覧ください。

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百嶋由一郎039img004穴森手置帆負神系譜(部分)


仁徳が応神の子などとんでもない大嘘ですが話が逸れますのでここでは触れません。

 遠方からであり、二階からの目薬となりますので、敬愛する「玄松子」様を引用させていただきます。


式内社 信濃國更級郡 佐良志奈神社 旧郷社


御祭神 誉田別尊 息長足姫尊 大鷦鷯尊

長野県千曲市(旧戸倉町)にある。しなの鉄道戸倉駅から西へ。

大正橋を渡って千曲川を越えたところすぐにある。境内の入口は西にあるので、路地を入って少し回りこむ。当社の南には、戸倉温泉がある。創立年代は不詳。式内社・佐良志奈神社に比定されている古社。

社伝によると、允恭天皇の皇子・黒彦皇子の勧請。また、神社明細帳によれば、当初、誉田別尊は更級山に鎮座していたが、仁和3年(878)震災のため、麓の若桜社(当社)に合祀。

正平年中、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)の御所であった。



社伝によれば、当初は坂合黒彦皇子が勧請し、更級山地の支嶺に鎮座していたが、仁和3年(887年)の震災により社地が崩落し、山麓に遷座したとされる。『源平盛衰記』には「若宮」とあり[1]、中世まで若宮八幡宮と称したが、宝暦7年(1757年)に現在の社名となった。同9年(1759年)の松代藩書上では社領3石であった[2]。また別当寺として真言宗の神宮寺があった。


ウィキペディア 20220830 13:48 による


境内社には、猿田彦社(山幸彦、ニギハヤヒ)、秋葉社(金山彦)、諏訪社(建御名方)、天神社(菅公)、大国社(大国主命)、住吉社(高良orウガヤフキアエズ)、粟島社(少彦名命)、八坂社(スサノウ)、金刀比良社(オオヤマクイ)が並んでいますが、最も重要かつ本来の主祭神はこの高良神(開化天皇)なのです。なお、福島県耶麻郡磐梯町に同じ社名の神社が3社ありますが、こちらからでしょう。

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山梨、長野でも、過去、高良社、若宮社の複合に過去何度か遭遇していますが、どうやら、正確なカウントではありませんが、信濃の20社、山梨の16社、新潟の15社…と集中する若宮八幡神社に相当の高良社が残っているようですね。

 やはり、この3県の若宮八幡宮は全数調査すべきですね。

 元気なうちにやらないとできなくなります。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、講演録音声CD、手書き文書スキャニング・データを必要な方は、09062983254までご連絡ください。起きている限り全時間帯で対応します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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