945 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)➊ 千曲市 武水分八幡神社
20220815
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
今回のリポートを書くとして、主要な目的地としての長野の4市を先行して書き上げ、それ以外の地域の神社については、余裕があれば、後で書き加えることにしたいと思います。
千曲市、上田市、小諸市、佐久市の順で事前に抽出した神社を中心に踏査しましたが、最初に訪れたのはかなり立派な八幡神社で、普通なら調査対象にさえしないのですが、やはり若宮神社が絡んでいるのです。
既に事前調べで取り上げましたが、ここで長野県の若宮八幡神社をご覧になって下さい。

再掲載)信濃の若宮神社20社 周辺の県と比較しても非常に多くの数の若宮八幡神社があるのです
我々がこの事実に拘るは、この若宮が誰であるかが多少は見当が付いているからです。
一般的に、若宮神社の祭神は“応神天皇、神功皇后、仲哀天皇(応神天皇の父)の3柱”とする場合もあるのですが、普通は“応神天皇の皇子”などとされるオオササギの命=仁徳天皇と言われます。また、これとは別に、カミムスビ(博多の櫛田神社の大幡主)の御子であるヤタガラスを若宮として扱う神社もあり、これまたとんでもないことですが、所謂、奈良の春日若宮の問題も具体的には存在します。
まあ、応神の子などというのはとんでもない話で、真実は、仲哀死後の神功皇后を妃(皇宮皇后)とした第9代(藤原がそう扱っただけですが)開化天皇の5人の皇子の長子シレカシノミコト=藤原によりオオササギとされる仁徳天皇そのひとであり、事実上最後の九州王朝の天皇だからなのです。
これは「高良玉垂宮神秘書」を基盤とする百嶋神社考古学からの真実へのアプローチなのです。

この中都市には約20社弱の神社があります。勿論、只のストレンジャー、viajero旅人でしかない人間に全てを見る余裕和ありませんし、実際に参拝したとしても、神名、由緒もなく、境内社、摂社もないような神社もかなりありますので、事前に、ネット検索である程度の下調べを行うことになります。
中には、見るべき神社で見損なった(当方の都合でパスしてしまった)神社もあります。
その一つが、波閇科(ハベシナ)神社でした。ハベシナとは奇妙な社名で、祭神は天照大神アマテラスオオカミ、豊受大神トヨウケノオオカミ、日本武尊と作ったような配神ですが、科(シナ)の名が入っているだけでもかなり古い神社のように思えます。当然にも「科」は、品、志那…であり、本来は、「支那」戦後忌避語とされてしまった「支那」であり、背後にはこの問題が絡んでいるはずなのです。
支那ツ彦は記紀にも登場する由緒正しき神様ですが、「古事記」では志那都比古神「日本書紀」では級長津彦命とされる草部吉見=鹿島大神=ヒコヤイミミに象徴される黎族に絡みそうなのですが、祭神は全く異なるのです。本殿は茅葺屋根で百社大神宮と記されているとのこと、機会があれば見てみたいと思うものです。外にも幾つか巡りましたが、リポートとして二社に留めます。
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仁徳が応神の子などとは後の藤原となる多氏=宇治氏=阿蘇氏が造ったとんでもない話ですが、通説派の御用学者共にとっては真実の皇統などどうでも良いのであって、単に崇め奉った大嘘の聖典なのです。
一方、若宮がこれほど存在する信濃が如何なる土地だったかを探る使命が我々に託されているのです。


同社由緒
その信濃の一社として今回最初に見せて頂いたのが、千曲市の武水分(若宮八幡)神社でした。
特に重視しているのは、高良社と若宮社であり、この複合体は、全国に痕跡を残す九州王朝の高良玉垂命=開化天皇と神功皇后(仲哀死後=皇宮皇后)の神社であり、その長子こそが、大雀命とされるも、開化天皇と神功皇后(仲哀死後の)直系の5人の皇子の筆頭シレカシノミコト=仁徳天皇なのです。
これについては、久留米市山川町の高良皇子神社=九躰皇子神社などを検索して下さい。
事実、若宮では応神を抑え筆頭神となっており、高良玉垂命も祀られているのです。
これこそが、九州王朝系の氏族が甲斐、信州一帯に展開していた痕跡ではないかと考えているのです。
今回、勇んで書き始めたのですが、浮かれ過ぎていたからか現地調査の写真の撮影状態が不味く、一部、敬愛する「玄松子」様の画像と記事などを借用させていただきます。以下。
式内社 信濃國更級郡 武水別神社 名神大 旧県社
御祭神 武水別大神
配 祀 誉田別命 息長帶比賣命 比淘蜷_
長野県千曲市(旧更埴市)八幡にある。JR姨捨駅の北東2Kmほど、千曲川の西岸に鎮座している。
南から道路を北上すると、正面に大鳥居がある。道路は、大鳥居から西へ少し湾曲して北上する。境内は、内境内と外境内に別れており、大鳥居をくぐると、外境内。参道を進み、参道の鳥居をくぐると、内境内となる。孝元天皇の御代の鎮座と伝えられている。別名を更級八幡宮といい、鎮座地も八幡。
石清水八幡から勧請された八幡三神が、相殿に祀られている。主祭神は、武水別大神。「たけみずわけ」と読むが、本によっては「たけみくまり」ともある。千曲川の水神を祀ったものだろう。
木曾義仲が、横田河原の合戦の戦勝祈願をし、勝利のお礼に水田を奉納。収穫された米で餅を作り、参拝客へ授けられる。休日の境内は参拝客が多く、特に車の祓いに来る人が多いようだ。社殿の前に、ずらっと車が並び、順番待ちをしていた。外境内にある茶屋で、うづら餅を食べながらお茶を飲む。普通の餅だが、こういう場所で食べると、なんとなく美味。境内は広々としていて、明るい雰囲気。
以下が今回の参拝の最も重要な目的だった武水別神社の高良社です。

−境内案内−
長野県宝 武水別神社摂社高良社本殿一棟
一、指定年月日 昭和五十年七月二十一日
二、指定理由
この建造物は室町時代後期の特色を示す 神社建築として貴重なものである。
三、説明
高良社本殿は一間社流造の系統に属する もので建築様式から見て室町時代後期 十六世紀ごろ建てられた建築と考えられ る。ふつうの流造に見られる周囲の廻縁や 階段は省略され 正面に小さな縁をつける のみで いはゆる見世棚造に類する形式で ある。主屋の桂上の組物に舟肘木に用い 軒の垂木を省略して板のみで屋根を支えて いるなどは略式な手法であるが側面の妻 飾に太瓶束と扠首組を併用しているのは珍 らしい手法である 頭貫の先端の絵様や虹 梁に彫りこまれた文様に室町時代後期の特 色が見られ その上建築当初の主要部分が よく保存されている点 貴重な建築物である。
武水別神社御由緒 御祭神 主祭神武水別大神 たけみずわけのおおかみ 相殿 誉田別命 ほんだわけのみこと 息長足比売命おきながたらしひめのみこと 比淘蜷_ ひめおおかみ 三大祭 祈年祭三月十五日 例大祭 九月十五日 新嘗祭 十二月十二日 御由緒 社伝によると、武水別大神は第八代孝元天皇 の御代に御鎮斎と伝えられており、善光寺平の 五穀豊饒と千曲川の氾濫防止とを祈念して祀ら れました。十二月の大頭祭(新嘗祭)は、御神徳 に対し氏子民が感謝の誠を捧げる、この地方 最大の祭典であります。 八幡三神は、安和年間に京都石清水八幡宮 より勧請され、相殿に奉斎されました。誉田別 命は応神天皇、息長足比売命は応神天皇の御母 君の神功皇后のことであり、比淘蜷_とは 田心姫・湍津姫・市杵嶋姫の三女神の総称で 国家鎮護、航海・交通安全の守護神と仰がれて おります。 |
では、主祭神の武水別大神とは一体誰なのでしょうか。全国的に隠されてはいますが、高良玉垂命とは言うまでもなく第9代(藤原によってそう扱われた)開化天皇であり、そもそも神殿から出され脇殿に移されたのだろうと思います。
その開化天皇が仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后命)を妃としてもうけられた直系の5人の皇子の筆頭こそがシレカシノミコト=一般にはオオササギ命とされる仁徳天皇でありこの武水分神社の主神に相応しいのです。元々は、本殿に開化天皇=高良玉垂命も神殿内に祀られていたはずですが、宇佐八幡宮が高良大社を九州の宗廟から追い落とし、応神を宇佐神宮に置き換えた749年(「高良玉垂宮神秘書」)以降、石清水八幡の橘一族の指揮下でこの形式を採ったのではないかと考えています。
武水別大神とはしていますが、若宮八幡宮とも呼ばれていることから考えれば、九州王朝の最後の天皇である仁徳天皇の別名であろうと思うものです。
勿論、仁徳が応神の子などと言うのは藤原による偽装であり、百嶋神社考古学では認めません。
ただ、引用した“孝元天皇の御代の鎮座と伝えられている。別名を更級八幡宮といい、鎮座地も八幡”をそのまま正しいとすれば、孝霊、孝元、開化の孝元期の鎮座に若宮=仁徳が祀られるはずはないのであって、どう考えるかを迷っています。別名更科八幡宮と呼ばれていたとすると、これは恐らく前身の神社で、元はカミムスビの神として良く知られるヤタガラスの父=大幡主を祀る正八幡神社だった可能性もあります。とすると、その時代に疱瘡の神として正八幡神社の社外に出され、高良と仁徳が祀られたのでしょう。このようにこの武水別八幡神社にも何派もの政情の変化による変化が見て取れるのです。
それもこれも、古い神々を粗末にせず、きちんと守っておられるから後付けの勝手な解析もできるのです。感謝します。ありがとうございます。素晴らしいものを見せて頂きました。

御神輿休御屋 高良社
こちらはまあまあ良く撮れていた自前の写真で、住吉の神紋が打たれた高良玉垂命の社です
本当は、境内にある十数柱の分社の神々についても大体の見当が付きますので触れたいのですが、今回の調査旅行の記憶が薄れないうちに書き上げたいため、今回は省略させていただきます。
一点だけ、分社の一つに疱瘡の神で不明と記述されているものがありますが、これは恐らくカミムスビの神として良く知られるヤタガラスの父=具体的には博多の櫛田神社の主神大幡主そのものだと思います。この神様は高皇産霊神と並ぶ超大物であり(造化神)、疱瘡の神とは海外から持ち込まれる流行り病(天然痘)の神に関係する神なのです。大型船を駆使して半島から大陸、インドシナ方面までも外洋航海、渡洋航海を行っていたカミムスビ神にこそ疱瘡の神は相応しいのです。
手足の神、目の神、疱瘡の神…といった表現は、九州でも熊本に目立つもので、思い込みと言われそうですが、ここには九州の人達が入っているとの印象を強く持ったのでした。
多分、大幡主か住吉の神(底筒男の神)のいずれかではないかと思っています。
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