943 佃 収 和水町講演 ❷ と、天武王権と長屋親王木簡問題
20220708
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
当研究会+丁巳歴史塾は、熊本県和水町の菊水史談会と提携し、埼玉県在住(熊本県玉名市出身)の佃収先生をお呼びして延べ10時間に及ぶ和水町講演〜北九州市戸畑講演を行いました。
菊水史談会は、元々、先生が玉名市のご出身であったことから十数年前から佃先生の講演会に取り組んでこられました。菊水史談会は10数年前から佃研究に取り組んでこられ最盛時は180人規模で講演会も行われていました。正に、熊本県でも民間研究団体の最大業績と言えるでしょう。
当方も、福岡県久留米市や久留米大学などで佃 講演に取り組みましたが、菊水史談会のご努力には敬意を表しています。
巷の史談会、郷土史会が、どこかで聞いた風な通説派のインチキ話を、教育委員会関係者とか学芸員から拝聴し、ただただ平伏し、翌日には忘れてしまっているという有様である事を考えれば、古田武彦九州王朝論を遥かに抜き去っている佃 収 九州王朝論 を支えて頂いた事には、十分な賛意を表したいと思うものです。
しかし、同会も高齢化と、若手の新規参入が堪え、何れは消失への道へと進むものと思われ、今後の佃収九州王朝論を継承は無理としても、保持し、拡散する責務を担わされた事になります。
幸いなことに、我々のグループにはまだまだ若い熱心な研究者が集まっており、生涯を掛け、一生を費やして研究を続けてこられた佃先生や百嶋先生の業績を後世に残し引き継ぐ作業を行う事が出来ればと、新たな決意をしているところです。
多くの、史談会、郷土史会、地名研究会…が、自らの研究を放棄し、ただの親睦会に堕落しつつ、村興し、町興し、邪馬台国シンポジウム…といった、文化庁の天下りの腐臭が漂ようような(全国に邪馬台国の候補地は百か所もあります…お前ら馬鹿か!)インチキ文化運動、果ては、世界遺産登録へと進むと、日本文化の崩壊へと突き進むとしか思えず、ただのフィクションに過ぎない、韓国、中国の歴史ファンタジーと同列以下に堕落して行くことでしょう。
我々だけはそうした底なし沼には近づかないつもりですが、何時の時代にもさもしい人間はいるもので、更に戒めるべきと思うばかりです。
ともあれ、今回、熊本県和水町40人(5月29日の6時間)〜北九州市戸畑区60人(6月5日の4時間)での連続講演を行うことが出来、何とか述べ100人の講演会を行うことが出来ました。
先生のご年齢を考えると、今後も年に一度と言わずお話をお聴きしたいと思っているのですが、何としても、武漢肺炎ウイルスによる3年間のブランクは悲しいばかりです。
我々は、むしろ、これまで以上に、福岡(北九州、久留米)、熊本、大分、佐賀での小規模集会、分散集会、トレッキングを継続していたことから、勢力を維持し、むしろ拡大をさえ見ていますが、熱心な若手参集者を得ており、今後もこの傾向は継続するものと考えています。
しかし、国家的規模での思考停止状態に追い込んだ行政の無策には怒りを禁じえないばかりで、そればかりか、数十兆(60〜70)もの金を外国資本に毟り取られているそうですから(ワクチン6億回分)子供にまで無理やり摂取させようとするのでしょう。ウクライナ支援+復興支援で10兆円…これも一部の官僚どもだけにキックバックが送られているはずなのです。日本は事実上、全世界の破産国家のATMの役割をさせられている事になっているのです。話が逸れましたが、実験的に 佃 収 講演の音声ドキュメントをオンエアしたいと考え、本ブログとYouTube音声とを結合させたメディアを実行したいと思います。
しいですね。
新「日本の古代史」(佃説)
はじめに
これまで書いてきた論文を年代順に並べて『新「日本の古代史」(上)(中)(下)』として出版した。
しかし、各論文は独立して書いている。そのため「歴史の流れ」を読み取るのは難しいという声があった。
今年(2020年4月)、二日間(夜まで延長有り)の講演をすることになった。講演資料はほぼ完成した。ところが新型コロナ・ウィルスのために中止(延期)になった。そこで講演資料を基に「日本通史」を書くことにした。講演にも使えるように考慮しながら「歴史の流れ」を理解してもらうことに重点を置き「通史」を書いた。
私の「古代史」は従来の「日本史」とはまったく異なる。それを明確にするために「(佃説)」を挿入した。
新しい「日本の古代史」を「通史」として理解していただければ幸いである。
(概要篇)ではあるが、次の二点については詳細に記述した。
一つは、「倭人(天氏)」の渡来(天孫降臨)である。
「倭人」(天氏)」の渡来により、「日本人」が誕生する。「現代日本人」のDNAの8割は「倭人」(天氏)」のDNAである(本文)。
「倭人」(天氏)」は「日本語」をもたらした。「日本」の始まりである。
そのため「倭人(天氏)」の「誕生」から「渡来ルート」、「渡来地」について詳述した。
もう一つは、「邪馬壹国」問題である。「邪馬壹国」関連の本は毎年出版されている。「邪馬壹国」問題は未解決になっている。国民の関心も高い。
そのため「邪馬壹国」について、その争点、問題点等をほぼ網羅するように「邪馬壹国の誕生」、「邪馬壹国への行程」、「邪馬壹国と伊都国の争い」、「邪馬壹国と狗奴国の争い」、「邪馬壹国の終焉」等について詳述した。未解決問題は無いと考えている。
○図表は各章の最後に掲載している。
○本文に「××号」とあるのは巻末の【参考文献】を参照されたし。2020年 7月
2022年6月5日(日)13:00〜17:00 60人規模で佃 収 講演を北九州市(戸畑区)でも行います
会場 福岡県北九州市戸畑区汐井町1−6 ウェルとばた 8F JR鹿児島本線 戸畑駅 隣
講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収 (著書多数) 参加費1000円
テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」でした北九州では、「日本人の起源」〜「倭の五王」まで
テキストとして「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)1200円当日:40部限定販売
太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)
事務局 中島 茂 090−5289−2994 (通信不能時連絡 古川 清久 090-6298−3294)
今回、延10時間に及ぶ佃先生の講演を聴き非常に感銘を受けましたので、CD二枚組で配布を進めています。もう二十回は聴いたと思いますが、特にカー・ステレオで聴いていると雑念がなく頭に吸い込まれて行きます。
MP3方式で作成しておりお送りすることもできますが、パソコン、ここ10年ぐらいのカー・ステレオ、ソニーなど数社のCDプレイヤーをお持ちの場合はお聴き頂くことができます。
今般、九州王朝論の心臓部ともいえる貴国、倭の五王政権、大彦の渡来と言った時期から物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)辺りまでを最初の70分ほどで一気にお話になりました。
これについては、随時、ユーチューブにアップしたいと考えています。
次に、豊王権、上宮王権、天武王権、高市天皇…と進みますが、これについては、ネット上の日本古代史の復元というサイトから早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)によりPDF画像で論文をお読み頂くことをお勧めします。
九州年号には幾つかの系統があり、九州王朝という単独の政権が、仮に卑弥呼以降、単独の王権が8世紀初頭まで存続していたといった理解をされている方が大半ではないかと思いますが、佃収説では、そのような単純な理解はされておらず、前述した王権が入れ替わりながら、年号に変更が加わり推移しているという仮説を提出されているのです。
南北朝争乱期に於いても、分裂期には、北朝年号、南朝年号(吉野)が各々異なった年号を使用していることと対応するのです。
このような最先端の議論に結びつくのであり、是非ともお聴きいただきたいと思います。
尚、冒頭で、天武天皇の子である高市王子の子(天武の孫)の長屋親王の木簡問題に触れておられますので、佃講演と併せ「のんびりと古代史」お読み頂きたいと思います(以下)。
「長屋親王宮木簡」への雑感 2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理 20
【東野治之“『続日本紀』と木簡”】を検索してください(他にもありますが一例として紹介します)。

勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。
「長屋親王宮木簡」への雑感 2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理
【東野治之“『続日本紀』と木簡”】
新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の“『続日本紀』と木簡”と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。
「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く“悲運の人”であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」
東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く“悲運の人”であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。
長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が“親王”と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。
「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。
【一次史料>二次史料が前提】
このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。
東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。
これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)
第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。