942(後) 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題
20220708
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
第19章 貴国の樹立(佃説)(111)
熊襲征伐(111)
第20章 「倭の五王」の倭国(佃説)(116)
倭国の樹立(116)
「倭の五王」による全国支配(116)
「倭の五王」による全国支配の検証(117)
「倭の五王」と年号(119)
第21章 「第1部」のおわりに(122)
「大彦」の子孫(122)
「天氏」と「卑弥氏」の渡来ルートとDNA(122)
「現代日本人」の形成(123)
第2部 「磐井の乱」から「高市天皇」まで(127)
第1章 物部麁鹿火王権(佃説)(129)
「磐井の乱」(129)
「磐井の乱」の年代(130)
稲荷山古墳(131)
「辛亥年=471年」説(定説)の根拠(134)
「定説」の検討(135)
「辛亥年」=「531年」(佃説)(136)
「礫槨」の年代(137)
物部氏と物部麁鹿火(139)
物部麁鹿火王権とは(佃説)(140)
物部麁鹿火王権の本拠地(佃説)(141)
仏教伝来(佃説)(142)
第2章 阿毎王権(俀国)(佃説)(146)
新王権(146)
新王権の本拠地(147)
新王権=「俀国」(佃説)(148)
阿毎王権と百済救援(151)
阿毎王権と元興寺(152)
阿毎王権と蘇我氏(佃説)(153)
阿毎王権と日羅事件(佃説)(154)
第3章 豊王権(佃説)(158)
用明天皇(158)
「欽明天皇」への疑問(159)
用明天皇の本拠地(160)
用明天皇の殺害(163)
用明天皇の系譜(164)
推古天皇(165)
豊王権と磯長(167)
第4章 上宮王権(佃説)(170)
上宮法皇(170)
上宮王権(171)
上宮王家(174)
上宮王権の本拠地(176)
舒明天皇(177)
第5章 天武王権(佃説)(181)
「天武王権」の樹立(181)
天武天皇と「天武天皇の父」(183)
天武王権の本拠地(184)
『日本書紀』の記す百済救援(185)
天武天皇と「百済救援」(187)
朝倉宮(189)
天武天皇と「白村江の戦い」(192)
天武天皇による西日本の支配(193)
「壬申の乱」(193)
第6章 高市天皇(佃説)(199)
高市天皇とは(199)
「高市天皇紀」(200)
藤原京の造営(200)
第3部 「王権乱立」の時代(佃説)(203)
第1章 豊王権の樹立(佃説)(205)
豊王権の独立(205)
阿毎王権と豊王権の独立問題(1)(206)
阿毎王権と豊王権の独立問題(2)(206)
第2章 上宮王権と豊王権(佃説)(208)
上宮王権と蘇我氏(208)
上宮王権の独立(209)
上宮王権と阿毎王権(210)
豊王権の再興(211)
第3章 阿毎王権から天武王権へ(佃説)(212)
「天武王権」の樹立(212)
第4章 上宮王権内の争乱(佃説)(214)
上宮王権と蘇我氏(214)
「豊王権」の逃亡(215)
「豊王権」の滅亡(216)
第5章 天武王権と上宮王権(佃説)(218)
天武王権は上宮王権を滅ぼす(218)
上宮王権の逃亡(218)
「上宮王権」の滅亡時期(219)
「壬申の乱」の深層(221)
第4部 「古代史」の改竄(223)
第1章 天武天皇による「古代史の捏造」(佃説)(225)
「万世一系」の系譜(225)
第2章 『日本紀』『日本書紀』『続日本紀』の成立(佃説)(227)
『日本紀』の成立(227)
『日本書紀』の成立(228)
『日本書紀』と『続日本紀』の成立時期(228)
第3章 『日本紀』を『日本書紀』に改竄(佃説)(230)
『日本紀』改竄の理由(230)
『日本紀』改竄の方法(1)(230)
『日本紀』改竄の方法(2)(231)
『日本紀』改竄の方法(3)(232)
講演では冒頭で長屋親王木簡について話しています。名指しはされていませんがネット上にはこの問題に対して多くの情報がアップされており、東野氏の事であろうと推定できます。恥ずかしいですね。
勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。
「長屋親王宮木簡」への雑感 2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理
【東野治之“『続日本紀』と木簡”】
新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の“『続日本紀』と木簡”と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。
「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く“悲運の人”であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」
東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く“悲運の人”であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。
長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が“親王”と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。
「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。
【一次史料>二次史料が前提】
このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。
東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。
これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)
第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。