941 死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、その一族は大神一族となっている ⓬
20220706
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
この川上 猛に関する探究は、昨年の12月から始まり尚も継続していますが、そのあまりに大きな展開にたじろぎながら漂流を続けている状況にあります。

以下は4月に西原村で行った小規模勉強会に用に作成したものを元に小倉向けに編集した配布資料です。このように武漢肺炎ウイルス騒動下での生き残りのために若松や久留米でも続けてきた資料です。
熊本神代史研究会2022(西阿蘇分散勉強会)
4月15日(金)12:30〜 於:熊本県西原村萌えの里手前の伊藤研修所(仮称) テーマ:「ヤマトオグナの熊襲退治により許された河上 猛は福岡市早良区に落ち延びた〜」 @ 熊襲退治の現場は佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近 A 河上 猛は神埼市(旧脊振村広瀧)で誅殺を免れその中枢一族は福岡市早良区の某所に移動している B その場所と名前が判明した C 仮説)この一族が大分県豊後大野の緒方三郎惟栄、阿蘇大蛇伝説の大神惟基になるのではないのか D 祖母山の意味とはそして、ウガヤフキアエズ王朝説とは E 琵琶湖北岸の伊吹山と姉川と妹川…そして脊振村の川下にも姉川がある |
今年の2、3月から少し異常な事が起こっています。そもそも年末年始辺りから百嶋神社考古学の神代系譜などを希望する方が目立って増えており、3月半ばの一週間だけで40〜50代の男女4人からトレッキングに参加したい、百嶋神社考古学の資料を欲しいとの要望があったのです。加えて80代の僧籍の方からもと…、ここ3年妙なウイルスに邪魔されながらも活動を継続してきたからか、時代の閉塞感が反映されたものか、不安感が自らが何者であるかを知りたい…といった現れなのか、良くは分かりません。
今回の河上 猛と日本武尊の話は単に福岡、佐賀だけにとどまらず、新たな展開を見せてきました。先走った話になりますが、ここでは簡単な予測というか現状を仮説として提出しておきたいと思います。
@ ヤマトオグナ(後の日本武尊)の熊襲猛退治の話はつとに有名ですが、お伽噺のように扱われ何処の話か全く分からなくされています。しかし、これについても現場に踏み込めば、佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近であったとの伝承や痕跡があり、旧大和町史、熊本市在住の故)平野雅廣氏の数著による指摘や付近の寺の記録までがあるのです。
ただ、今回はこの話を飛ばし誅殺を免れ早良に落ち延びた河上 猛とその一族の話を行います。
A 河上 猛の一族とは久留米の高良山に盤踞したウガヤフキアエズと阿蘇初代宮司家の奈留多姫の間に生れた相当に重要な氏族でした(百嶋由一郎最終神代系譜)。惟人は阿蘇宮司家初代です。これを誅殺したとされるヤマトオグナも近畿大和朝廷から派遣された皇子?などというのは大嘘で、熊襲内の傍流の一派でした。(国立国会図書館所蔵「松野連系図」参照)百嶋由一郎の神代系譜と松野連系図とを併せ考えると、肥後の一帯に居た別派が九州王朝の一流を撃った内ゲバに等しいものでだからこそ誅殺(テロ)隊程度の存在で決着が着いたのでした。(黄色枠と緑枠の対立)

B これを誅殺したとされるヤマトオグナも近畿大和朝廷から派遣された景行の皇子などというのは大嘘で、熊襲内の傍流の一派でした。(国立国会図書館所蔵「松野連系図」参照)百嶋由一郎の神代系譜と松野連系図とを併せ考えると、肥後の一帯に居た別派が九州王朝の一流を撃った内ゲバに等しいもので、だからこそ誅殺(テロ)武隊程度の存在で決着が着いたのでした。(黄色枠と緑枠の対立)
C 恐らく背景にあるのは海幸彦系と山幸彦系の対立構造であり、河上 猛の父はウガヤフキアエズ(山
幸彦と豊玉姫の間に生まれた)、母は奈留多姫(海幸彦=草部吉見とその弟健磐龍の両派の本流を汲
む雨宮姫の娘)を草部吉見と、神武に敵対し敗残したナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の孫に当たるのがヤマトオグナ(出身地は肥後の山門)後のヤマトタケルなのです。百嶋由一郎系譜参照
D 河上 猛はそれほどの一族であったが故に容易には誅殺できなかったのかも知れません。何故ならば、ヤマトオグナの一族とは逆族ナガスネヒコの血を汲む一族だったからです。松野連系図参照
E 八坂刀売を祀る福岡市早良区原の諏訪神社の周りには6つの●神姓の家が在り、そのうちの1軒はかつては宮司家でもあったのです。とすると、百嶋由一郎が言い残した河上 猛の一族とは●神姓の一族以外には考えようがありません。もしかしたら家伝さえも残っているのではないでしょうか?
●神姓は福岡県、佐賀県に分布が集中しており、大分県では緒方、尾方と変え、恐らく岡もバリエーションの一つなのでしょう。その意味では、遠賀地名の残る遠賀川河口の岡垣、水巻にイズノメを祀る伊豆神社が4社集中しており、そのイズノメが実は豊玉姫である事をお話(丁巳歴史塾と遭遇した3年前でしたか)しています。
当然、祖母山山頂に祀られる豊玉姫、ウガヤフキアエズの乳母=姥(後に夫婦となり別れさせられる「高良玉垂宮神秘書」)が姥岳神社として祀られていることは、ウガヤフキアエズの母と乳母(姥)と妃が祀られていることになり、河上 猛にとっては正しく母神、叔母、乳母、妃がセットで祀られていることになるのです。


F恐らく背景にあるのは海幸彦系と山幸彦系の対立構造であり、河上 猛の父はウガヤフキアエズ(山幸彦と豊玉姫の間に生まれた)、母は奈留多姫(海幸彦=草部吉見とその弟健磐龍の両派の本流を汲む雨宮姫の娘)を草部吉見と神武に敵対し敗残したナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の孫に当たるのがヤマトオグナ(出身地は肥後の山門)後のヤマトタケルなのです。
百嶋由一郎系譜参照
G 河上 猛はそれほどの一族であったが故に容易には誅殺できなかったのかもしれません。何故
ならば、ヤマトオグナの一族とは逆族ナガスネヒコの血を汲む一族だったからです。松野連系図 参
照八坂刀売を祀る福岡市早良区原の諏訪神社の周りには6つの●神姓の家が在り、そのうちの一軒はかては宮司家でもあったのです。とすると、百嶋由一郎が言い残した河上 猛の一族とは●神姓の一族以外には考えようがありません。もしかしたら家伝さえも残っているのではないでしょうか?

故)百嶋由一郎は、“河上 猛の一族は旧脊振村(現神埼市)の中心部広滝で許され福岡市早良区原に移り住んでおられます。名前も、場所も分かっているが、可哀そうで言えない…”と言い残して亡くなられました。1800年も前の話にも関わらず、今も纏まって住んでおられますとは聴きましたが、正直言って6軒もの方がおられたとは思いもよりませんでした。

H そうだとすると、次に頭を過ったのは阿蘇大蛇伝説の大神一族とは河上 猛の一族だったのではないかという驚くような想定でした。この現場、豊後竹田の穴森神社と豊後大野の宇田姫神社に纏わる祖母山の大蛇伝説から「平家物語」にもその名を遺す大神惟基(阿蘇の重要な家系は「惟」を通字とします)、義経を呼び込み頼朝とも決戦を準備したその後の大神(緒方)惟栄の一族で、宇佐神宮に八幡神を持ち込んだ大神比義の一族もこの河上 猛の一族だったと思うのです。

I話はこれだけに留まりません。通説では神功皇后の出身地は琵琶湖北岸の米原辺りなどされていますが、佐賀県佐賀市(旧三瀬村杠)には野波神社があり、神功皇后が主神として祀られており、その直ぐ近くには父の息長宿祢、母の葛城高顙媛をだけを祀る下の宮があるのです。詳しくは「ひぼろぎ逍遥」+□+野波神社で、ダブル検索を試みてください。当然、伝承もあり息長宿祢は現北山ダムの底に野波神社が存在し、そこから二度の移転が行われ現在の地に鎮座しているのです。神埼市(旧)脊振村には母の葛城氏の一族が、佐賀市(旧)三瀬村には父の息長氏の一族が居たのです。

J そこでお考え下さい、日本武尊は琵琶湖北岸の伊吹山に向かいますね、実は佐賀県神埼市の旧脊振村にも伊福(これが伊吹山になった?)という集落があります。旧脊振村の中心部の広滝には広滝神社があり、由緒には河上 猛と日本武尊についてのだけの伝承が書かれているのです。さらに川を下れば、ヤマトオグナが拠点としたとの話がある白角折(オシトリ)神社までがあるのです。どうも神埼市側から少人数の舞台が佐賀市(旧大和町)側に侵攻しているのです。さらに日本武尊の東国進出地の一つ琵琶湖の北岸に名高い伊吹山がありますが、その裾野に姉川があり織田、徳川が浅井、朝倉を攻めた戦国期の激戦の舞台があるのです(姉川の合戦)。面白い事にこの神埼市にも姉川という地名があります。JR長崎本線の神埼駅と佐賀駅の間に伊屋駅があります。その傍が姉川地区なのです。実は、滋賀県の姉川の上流には支流として妹川(草野川)もあります。恐らく神埼にも妹川があったと思いますが、ほ場整備や国土調査が行われると地名が消えてしまいます。現在、明治期の全国小字調べに当たっていますが、確実なのは、福岡県久留米市の東隣のうきは市には浮羽町妹川地区があります。この地では製鉄が行われていました。そうです。妹川とは鋳物師(イモジ)の川だったのです。

佐賀県神埼姉川 と 福岡県うきは市妹川
K そして、恐らく風を求めて神埼市の妹川は浮羽に移動したのです。それを思わせるものがあります。それは、佐賀市にも、うきは市、久留米市に巨勢川が流れているのです。そもそも、神埼市には的と書きイクワと呼ばれる大字があります。このイクワが、生葉となりうきは、浮羽に変っているのです。
L では、琵琶湖の北の伊吹山の麓に流れる姉川と妹川をご覧いただきましょう。この高野川が別名妹川ですが、長浜市の中心部、姉川の下流で北流し姉川と別れるのです。この高野川が別名妹川ですが、長浜市の中心部、姉川の下流で北流し姉川と別れるのです。

左は福岡県うきは市の大字妹川ですが、右手に見える合所ダムの底には東多々良、北多々良、西多々良、同じく東妹川、北妹川、西妹川という小字もあったと聞き及んでいます。製鉄は冬場の農閑期に行いますが、南から風が来ないため、南多々良と言った地名はなかったのです。恐らく佐賀県側から、風を得やすいこの地に移動したのではないかと考えています。そして伊福地名もあるのです。こうして神埼の妹川、一旦うきは市に移ったのです。

神埼市と言えば吉野ケ里遺跡に隣接する佐賀市の東隣の市ですがそこに姉川地区があるのです
ひぼろぎ逍遥スポット131 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!

伊吹山が歴史上での初見は古事記ですが、伊吹山の呼称には「膽吹山」、「伊服岐能山」、「夷服岳」、「伊布貴」、「伊福貴」、「五十葺」、「異吹」、「意布貴」、「伊夫岐」、「伊服岐山」など実に沢山あります。 「日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) の伝説」より
まさか、ヤマトタケルが退治に出かけた伊吹山の荒ぶる神とかも背振の下の伊福の話ではないでしょうね。まだまだびっくりする話が続きますが、ここで止めます。と、このような話に展開して行くのです。
➊ 滋賀県の伊福地名が本物の日本武尊が遠征し持ち出された地名なのか? ➋ 九州で活動した日本武尊=ヤマトタケル伝承を刷り込んだテーマ・パークとして偽造された地名なのか?この場合はヤマトタケルは九州島でしか活動していない…可能性もあるのです。
➌ 九州で活動したヤマトタケルが遠征し、その後裔氏族が本願地の地名を持ち出したものか? 直ぐには謎が解けません。村興し、町興し、果ては世界遺産登録へと奉仕するインチキ学者、インチキ学芸員、インチキ郷土史家…ならいざ知らず、古代史を本気で掘り起こし、真実の列島史を追求せんとする人々の出現を期待しつつ尚も活動を続けます。
最後に華ノ本(華御本、宇田姫)というのは宇田姫神社に祀られる大神惟基を生んだ女性の名前ですが、これと濃厚な関係を思わせるのが博多の櫛田神社の花本大神の石碑です。博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭です。その左裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるとの話で皆さん納得されています。ネット検索をして頂ければ2〜30本例外なくそのように解釈されているのです。少しは自分で考えて書け!その上ご丁寧にも「大神」と書かれていますね。百嶋由一郎先生だけは、「そこにはごまかしがありますね…」といったコメントを残されているのです。恐らく、全てをご理解だったのだと思います。