938 伊万里市山代町楠久の再建された七幸神社とは何か? ❷ “伊万里市山代町楠久”
202204011
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
前回は、頂いた資料を掲示しただけでしたので、少し詳しく考えて行きたいと思います。

冒頭の「天山山脈ヤマト」ですが、ヤタガラスの関係者とか紹介者とされる飛鳥昭雄氏が言っておられるもので、その筋に精通された方は大体ご存じではないかと思います。
そうでなくとも、「チクシ」地名が北極海に近いロシアにもあるとか言った話もあり、我が百嶋由一郎も、金毘羅山の「コンピラ」の語源は、“シルクロードのクンビーラ山の事ですよ…”(サンスクリット語のクンビーラ:ネパールのクンビーラ山)と話しておられました。
また、何故、熊本城の最下層に昭君(王昭君)の間があるのか?といったシルクロード起源の話など実際には数多くあるのです。
ましてや、百嶋由一郎は“曹洞宗(曹洞禅宗)の僧侶や天理教の人々は全てヘブライ系の人です”とさえ話しておられたのです。
@ 「ホシミ」という地名について触れます。例えば「トノミ」(遠見、遠海)と言った地名があり、物見、遠見をする地の意味であり、富海、鳥海…と言ったものも含めると相当の数拾えるのです。「シオミ」も同様で、船による河川の溯上限界点、干満の大きな海周辺の河川にはこうした地名が付され、このような事に関わる民族、氏族=海人族やヤタガラス=豊玉彦系が展開した地域には同系統の地名がつけられるのです。仮に、安曇族では、熱海、渥美、温見、安曇、安土、的山…そして何時しか、本来の意味を越え、海、美、見…といった単なる地名語尾(そう言わないと収まりが悪い)にまで高まっているのです。この他にもクモミ「雲見」も気象観測に絡むもので、貿易、交易、通詞(外交)など、天文観測、暦法、気象観測、潮見、干満、通詞などに留まらず、多くの船舶建造者、航海術士も抱え込んでいたはずなのです。
A その意味では、「ホシミ」地名は重要な天文観測点であり数は少ないのですが、岐阜県可児市星見台など数は少ないまでも、散見されます。鹿児島の天文館は外せませんね。
B 「その上陸の湊が…」についても多少のコメントを加えておきたいと思います。
「新撰姓氏録」には、大陸、半島からの渡来人の後裔がまとめられた「諸蕃」には、
秦始皇の三世孫、孝武王より出づ。男、功満王、仲哀天皇の8年に来朝。男、融通王(一に弓月君と云ふ)、応神天皇14年に来朝。127県の百姓を率いて帰化し、金、銀、玉、吊等の物を献りき。仁徳天皇の御世に、127県の秦氏を以て、諸郡に分かち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢らしめたまひき。:左京、太秦公宿禰条
と書かれています。
これらが一般的にいう秦氏の来訪であり、豊の国には人口の九割を占めるなどと言われたのでした。
しかし、これが何時かと言えば、どう早く見ても4世紀初頭にしかならず、秦の滅亡が紀元前206年とすれば遅過ぎるのであって、先行して列島に移動した広義の秦氏がいたはずなのです。
それが、前述の大幡主(博多の櫛田神社の主神=造化三神 天御中主命=北辰=妙見神、高皇産霊尊=高木大神…)の神皇産霊尊であり、外洋航海、外交にも長けた自らの白族が金山彦(カグツチ)=イスラエル系製鉄と強固な姻戚関係を結んで生まれた瀛(イン)氏こそが、湊地名を残した集団だったのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
C 秦の始皇帝の姓名は嬴、贏、蠃、臝(イン)政(エイセイ=インチョン)であり、周の流れもくむイスラエル系の民族でした。その治世下、モーゼの後裔氏族が来訪し、同族であることが分かり、相互に婿取り嫁取りを行い姻戚関係を結びました。ただ、彼ら(金山彦)は先行し半島から列島へと移動するのです。そして自らと区別ができるように渡海したことからサンズイ偏を付し瀛(イン)称したのでした。これが秦氏渡来以前の列島への瀛氏の渡来であり、金山彦系、白族、大山祗(トルコ系匈奴)による強固な支配集団が形成され、呉越同舟の呉の夫差の後裔氏族の列島渡来以降(紀元前4世紀)数十世代に渡り浪人と化していた古代天皇系集団を彼らが担ぎ倭国が誕生したのでした。
他にも書いていますが、取っ掛かりとしては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読みください。
106 | 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” |
D ただ、誤解されないように重要な点を指摘しておかなければならないでしょう。図らずも同社のリーフレットには「湊」の文字が使われていました。楠久、楠久津ならば、「港」でも良いはずなのに、敢えて「湊」が使われている底流には、ここは秦氏の港であり、それ以外ではありえないとの思い、自然な発露があったからに相違ないのです。
当然にも、この付近では唐津市湊(背後地には湊厄神社=忌部の神社)、宗像市でも神湊(宗像氏の湊)、遠賀川河口の岡湊、鹿児島県国分湊、大阪府堺市出島の湊、兵庫県は湊川合戦の湊川、紀ノ川が注ぐ和歌山市の湊、宮城県石巻市の湊、新潟県佐渡市両津湊…と切りがありません。
これらは、全て古来、博多の櫛田神社の大幡主に象徴される海人族(それも渡洋航海ができる)が支配する重要港湾だったのです。そして、小さな小字でも湊地名は方々にありますので、末端部にも海人族が如何に展開していたかが分かります。
E 鍋島藩、小城藩について触れてありますが、鍋島家と共に一時期は少弐氏と共に千葉氏も肥前全域を支配する勢いを持っているようです。私がその千葉氏の延長上にこの七宝神社の存在もあると考えるのは、当然にも千葉氏と言えば北辰一刀流の千葉周作の道場が、また、印旛沼(忌部の沼)があり、妙見信仰=北辰信仰、周王朝の後継としての呉、秦の列島への避退と見ることも可能だからです。鍋島は良く判りませんが、千葉氏には金山彦系をも含めた忌部、瀛氏を見るからです。
F そして、何故、小城藩の晴気を拠点とした千葉氏が自らの北の背後の高峰を天山と呼んだのかを考えれば、シルクロードの天山山脈を意識しての事であったろう事は疑いようがないからです。

G 解像度が低くて申し訳ありませんが、右の岬は祇園崎、沖の小島が古敷島と書かれ、左には北辰妙見尊星王 西海道一番札所 肥前国 七幸神社 と書かれています。これ一つでも、祇園崎と名付けているのであり、イスラエルのシオン山を思ひ付された地名と分かりますので、千葉氏であれ、曹洞禅の和尚であれ、イスラエル系の人々が付した地名であることは一目なのです。
H ここまで見てくると、秦氏が全面的に流入してくる以前から、千葉氏であれ、海人族の中枢部であれ、イスラエル系の氏族が入っていることは疑いようが無いのです。
ここに至るまで、秦の臣民でも万里の長城の建設に送られる事を恐れた逃亡者、秦の国内で敗残した人々、そして、秦それ自体が短期間で滅んだ後は、その王族、将校団、学者、宗教者、技術者の一切が半島に流れ込み、注射針から注がれる様に、優秀な人々が列島に雪崩れ込んできたのです。
そして、半島には忠誠心も正義感も誇りも持たない人々が旗を持ち替え、次の支配者に靡き、賛美する者に鞍替えして行くのです。それが半島国家(韓も元々は周王朝系だったのですが)の宿命であり、漢、魏呉蜀三国鼎立、唐、元、明、清…と繰り返される度に、そのような曖昧かつ主体性を持たない国家が強固に確立し現在の韓国に繋がったのでした。

国土地理院より 1961〜69航空写真炭鉱住宅、炭鉱のボタ捨てによる埋め立てが見えますね(下)

ここでは、湊地名から、秦帝国人=秦氏以前にこの地を闊歩し秦氏以前に活動した広義の秦氏の存在を想像するままに描いてみました。
そして、本格的な秦氏は4〜5世紀辺りから大挙流入し、最終的には京都に鴨川の河道を変えてまで新たな首都を築き、政権を呼び寄せ、今なお続く繊維産業(養蚕から絹糸生産、絹織物生産)を背景に蓄えた膨大な財力を持って新たな国家を列島に打ち立てたのでした。
皆さんが見ておられるのは、それ以前のつまり日本国以前の倭国=我々が考える九州王朝の時代の一端を「湊地名」から掘り起こして見た事になるのです。
学会通説に準え、自らの思考もその流れと言うより停頓に浸し、その権威に依拠し自らを打ち立てられようとされる方はそれはそれで良いでしょうが、何某かの真実が見出せるならば、それを追求するのが研究者の本来であり、総じて研究会の任務のはずなのです。
少なくとも伊万里湾は、古来、西に開いた国際貿易港でした。
特に、急潮流れる対馬海峡横断による渡海が必要性を持つ以前、揚子江流域から熊本、天草、平戸、伊万里は列島への最新技術、最新文化の入る国際貿易港であり貿易都市だったのです。
その一つとして楠久津以前の楠久湊の存在を浮き上がらせてくれたのが七幸神社であり、壹之寺だったのです。
次回は、周辺の神社から例えば楠久神社を解析し七幸神社を炙りだし、また、七幸神社ならぬ七山村が何故七山と呼ばれるかを考えて見たいと思うものです。
何れにせよ、何もなければ全く気づきもしなかった七幸神社をお教え頂き、伊万里の外港とも言うべき古代港湾を浮かび上がらせられた皆様のご努力と情念には感嘆の言葉と畏敬の念しかありません。
多くの神社が後継者を失い氏子の組織から一切が潰え去ろうとする中、有難いことと思うばかりです。
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先に、ましてや、百嶋由一郎は“曹洞宗(曹洞禅宗)の僧侶や天理教の人々は全てヘブライ系の人です”とさえ話しておられたのです。― G 解像度が低くて申し訳ありませんが、右の岬は祇園崎、沖の小島がほ古敷島と書かれ、左には北辰妙見尊星王 西海道一番札所 肥前国 七幸神社 と書かれています。これ一つでも、祇園崎と名付けているのであり、イスラエルのシオン山を思ひ付された地名と分かりますので、千葉氏であれ、曹洞禅の和尚であれ、イスラエル系の人々が付した地名であることは一目なのです。…
と書きましたが、往々にして批判されますので予防線を張って少し興味深い例をご紹介しておきましょう。話は宮崎県高千穂町下野、上野の例のひのみこ社周辺の話に飛びます。
ここにも、曹洞宗の古刹龍泉寺があり、正面に四恩山があるのです。以下 新ひぼろぎ逍遥
841 | 高千穂町上野の下野八幡神社への下調べ @ |
烏岳と愛宕岳との線上に上野神社が置かれている事が分かります。
また、上野(カミノ)集落の正面に四恩山があるのです。
愛宕岳は二つ(金山彦)、烏岳も二つあり(ヤタガラス)、この一帯がイスラエル系、瀛(イン)氏の集落である事が分かるのです。それにしても四恩岳とは凄いですね…。仏教の外皮を剥げば祇園はシオンの置換えでありシオニストのシオンなのです。

故)百嶋由一郎氏からは“高千穂と言うか三田井は、元々、高木大神の支配下にありました。長崎県の諫早、島原一帯から高千穂まで高木大神が支配しておられたのです。…”といった話をされていました。
この事からも、隣の熊本県高森町の草部吉見神社の本当の支配者が実は高木大神=ニニギの親父(祖神)であり、草部(クサカベ)の意味も朝鮮半島の伽耶の支配者でもあった高木大神の影響が及んでおり、伽耶部→茅部→草部との表記の変化(鈍化)が起こっているのです。
…中略…
次に、伊弉冉命(イザナミ)が祀られるものの、伊邪那岐命(イザナギ)が書かれていない縁起が相当にある事は神社研究者の方はどなたもご存じかと思います。

曹洞禅宗 龍泉寺 カーナビ検索 宮崎県高千穂町上野3384

百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)
この金越智と白山姫=天御中主命との間に生まれた大山祗の姉オチノ姫こそ金山彦のお妃であり本物の神武天皇の后となるアイラツ姫の母となるのです。従って、曹洞禅宗がヘブライ系であり、その底流に敗残した金山彦の流れを汲むのです。