2023年01月18日

937 伊万里市山代町楠久の再建された七幸神社とは何か? ➊ “伊万里市山代町楠久”

937 伊万里市山代町楠久の再建された七幸神社とは何か? ➊ “伊万里市山代町楠久”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


最近当会のメンバーになって頂いた神社ウォーッチャーであり松浦史談会会員でもあるアラフィフの女性(佐賀県唐津市在住)が、仕事の関係なのか南隣の伊万里市の山代町楠久で七幸神社なる初見の神社に参拝し興奮しメールを送ってこられた事によって、このブログを書く羽目になってしまいました。

まず、七幸神社という普通はあまりありえない社名だけにそれだけで十分な興味が湧いたのでした。

しかも、明治の廃仏毀釈の結果なのか、まだ、詳しくは聴いていないのですが、一旦は旧村社(郷社の下)にまでなった神社が何故消え、今時、また再興されたという話に触手が動いてしまったのでした。

さらに言えば、かつては延喜式内社でさえあったらしいとの話もありにわかに色めきだったのでした。

私は、二十代の前半、某自治体の職員としてこの一帯を担当地区として仕事を始めていました。

日本経済が高度成長期を終え順風満帆の時代でしたから、今に比べれば仕事も楽で、何一つの不安を感じる事もなく出張し、時間調整など時間的余裕がある場合には史跡とか古墳とか文化財といったものを巡り文物を楽しみながら興味深く見て回っていました。

そこで、この神社を再興されたのが付近にある曹洞宗(曹洞禅)の僧侶であり(出家僧に住職で良いかは不明ですが)の小島 様であるという話を聴き込むとさらに興味が増幅し、現地を踏むという鉄則を破りブログの事前稿を書き始めたのでした。

以下は本文とは無関係ですが、現在関連を考えている壱岐は芦辺町の小島神社でこのシルエットだけで心が滾ってくるのです。

私も三つ星(オリオン=オライオンの三ツ星)の家紋を背負う松浦党と思える海人族の流れを汲む者でもあり、以後もばかり考えて見たいと思います。

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こちらは本文とは無関係ながら現在関連を考えている壱岐は芦辺町の小島神社


冒頭に壱岐の小島神社を掲示した理由は、この小島と名乗るご老僧(長崎には小島姓が多く:特に対馬市に集中することから渡海に関わる人々との印象を持ちます)と付近の小島地名が無関係ではないと思ったからでした。

若かりし頃、この伊万里湾から付近の島々(飛島、青島、黒島、高島、的山大島、生月島:この「生月」も西彼杵半島の雪ノ浦同様、壱岐の人々が展開しているはずなのです…)や、さらに平戸島一帯の地磯や防波堤を探り回り、年間560回も出漁し魚を追いかけていたのですから、佐賀縣伊万里市山代町の小島公園の小島古墳、長崎県松浦市の御厨港付近の小嶋古墳群が直ぐに蘇ってきたのでした。

この何処にでもありそうな名の老僧は、間違いなくある時代の、もう少し正確に言えば松浦党の党祖、二代といった初期松浦党の本拠地に生まれた方だったと先走りながらも考えたからでした。

 今回、普段はあまり扱わない佐賀県(西部域)〜長崎県の神社を取り上げたのは近畿大和朝廷に先行する王権の中枢領域であったであろう福岡、熊本、大分を優先させていたからに外なりません。

 と、言いつつ、今や愛媛県でも神社トレッキングの月例化を進めているのですから、チグハグに思われそうですが、ここも山口県と併せ先行王権の重要な領域だろうと思うからなのです。

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伊万里市の小島古墳と松浦市の小嶋古墳


前置きが長くなり、順序も逆になりましたが、まずは、再建された七幸神社をご覧いただきましょう。

元々は、延喜式内社だったとも言われており、それが、何故、村社となったものの続く消失へと向かったのかは依然謎です。

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明治4(1871)年まで伊万里市山代町楠久(くすく)にあった古刹(こさつ)「七幸(しちこう)神社」を復興させようと、地元の復興委員会が10日、境内に建てたほこらにご神体を迎える祭事を行った。(佐賀新聞LIVE

新パワースポットに 七幸神社145年ぶり復興へ明治に廃止 星の神様 より  410日(日)

恐らく5年ほど前の記事なのでしょう 以下は同社の宣伝リーフレットなどの一部です。

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この神社を再建の中心的な役割を果たされた小島 様は地元伊万里の郷土史会の会報なのでしょうが「からすんまくら」(伊万里市腰岳に産する良質の黒曜石の意味)に妙見信仰のルーツをバビロニアというか、チグリス、ユーフラテス流域に求められ一文をお書きになっています。

このような事を書くと往々にしてアカデミックなことに固執、追従される学者もどきの方々(通説派の学者のエピゴーネン、尻尾)からの批判に晒さらされるのが常ですが、臆さず堂々とお書きになっている事に共感し当方も一文を加えようとしたものです。

結果的には傷付けることになるやも知れませんが、何物も恐れていては進まないのです。

取り敢えず入手したリーフレットをお見せしますが、この七幸神社については「佐賀県神社誌要」にも記載がなく、ネット上にも県神社庁の神社データも出てきません。

仮に出てきたとしても、そのデータそれだけで判読は行うべくもなく、現地踏査、現地での聴き取り、社伝などと併せ解読しなければ、神社の真実にも基層には一歩も近づけないのです。

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上は冒頭に掲示した「しちこうさん小史」を拡大したものですが、祭神を北辰妙見尊星王、国之常立神、伊舎那后尊(合計二神か三神かは曖昧ですが)としています。

神社に多少詳しい方でもこの神仏混交の名残のある神名にはたじろがれると思いますが、まず、主神しかも男神にさえ思える筆頭の北辰妙見尊星王は、天御中主=北辰妙見神=白山姫で、「古事記」には僅かに登場するウマシアシカビヒコジのお妃となられた白山姫で良いでしょう。

ただ、普通は消されるウマシアシカビヒコジ(代表的には出雲大社の客人間=マロウドノマに祀られる)で富士山浅間神社や周辺の関連神社ほか、この神に遭遇することは中々ありません。

九州でも小さな神社で何社か見かけたことがある程度で、なかなか出会う事ができません。

恐らく、夫婦神として男神も表に出し同体の神として星王としている様に見えるのです。

また、伊舎那后としているものは、確かに国常立神…秦氏一族と簡略化されていますが、この表現には多少の補足が必要となります。

伊弉諾=伊邪那岐(イザナギ)、伊弉冉=伊邪那美(イザナミ)の子がスサノウで、金山彦とカミムスビ神の妹に当たる埴安姫(実は博多の櫛田神社の大幡主の妹)の娘として生まれた櫛稲田姫を妃として生まれたのがナガスネヒコで、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と衝突した逆族となるのです。

この伊弉冉=伊邪那美(イザナミ)こそが伊舎那后尊であろうと思われ、その底流にはナガスネヒコの祖父にあたる金山彦の影が見え隠れするのです。

何故ならば、イザナミとは金山彦(カグツチ)の妹に当たる女神様だからなのです。

仮説ながらも断定的に言えば、表面に現れている祭神としては、星王と表現された天御中主命+(ウマシアシカビヒコヂ)、既に別れた金山彦の妹イザナミ+新たな夫となったカミムスビ神=博多の櫛田神社の主神の大幡主こそがこの神社の社伝から垣間見える二神なのです。

この構造が七幸神社の主神であり、白族:大幡主系(カミムスビ)と瀛氏:金山彦(カグツチ)それらと強固な姻戚関係を結んだ大山祗系(列島ではウマシアシカビヒコヂに端を発するトルコ系匈奴)がこの神社の基底部に存在する神であろうと考えられそうです。

この時点では、博多の櫛田神社(白族)と佐賀県神埼市の櫛田神社(金山彦)の構造と考えても良いはずです。

この中国の雲南省から海南島を経由して渡来した白族も、半島経由済州島から渡来したと思われる金山彦の一族(この秦氏に先行し渡来したイスラエル系氏族は秦氏と区別するためにサンズイ偏「シ」を付すのです。それは秦の始皇帝の姓は羸臝嬴蠃…(文字は幾つかあります)(イン)であり、彼の姓名は贏政(エイセイorインチョン)だったわけです。従って唐津市のも宗像正面の神湊もサンズイ偏を付してあるのであり、この楠久の港楠久津も湊の様に表現し、秦氏の同族の忌部と表現していたはずなのです。

天御中主命+贏(瀛)氏=イスラエル系と想定されている秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系氏族で(秦氏の列島への避退以前に済州島から列島に進出していた宗像三女神に象徴される)金山彦+大幡主系の一族は大山祗系とも連携し強固な支配氏族になっていたと思われます。

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その意味で伊万里市の北部南波多(これも秦ですね)にも白山神社があることをご確認下さい

また、楠久の荒熊稲荷神社の正面にある白龍大神神社も龍神=龍王=大幡主の子ヤタガラスを祀る同系統の神社なのでしょう。白山姫にとっては甥にあたるのです。当然にも白山姫は福井、石川、富山から東北にも展開する対馬海流状上の白山信仰に繋がっているのです。

まずは、解析などとは烏滸がましく、同社のリーフレットを読んで頂くことに重点を置きました。

引き続き、この消された七幸神社を知って頂く事に重点を置きました。なお、この再興された神社は、県神社庁管理ではなく壹之寺の敷内に独立した七幸神社を再建されておられると聴いております。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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