935 櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について
20220326
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
佐賀県の伊万里〜有田と言えば焼物=磁器生産で知らぬ人のない近世の工業都市ですが、その有田から伊万里へと流れる有田川の右岸に唐船山(城)があります。
海人族、倭人、倭寇、後の松浦党…と、各々、重なり、別れ、再度、結びつくといった目まぐるしい動きを示し、中世にまで遡れば、倭国であれ日本国であれ、彼らの働きや関与ががなければ民族の移動はあり得なかったのです。
その意味では、鎌倉末期から室町末期(戦国時代)に掛けてこの地域にも松浦党の影響が強く反映されているのですが、その松浦党とここに鎮座する山田神社が直接重なっているのかと言えば、単純にそうとも言えないように思うのです。ただ、予断は止め自らの目で確認することにしましょう。

ご覧の通り三ツ星(実はカシオペアの三ツ星)の紋章が打たれています これが旧倭寇の後裔松浦党のシンボルなのです そして私の一族(古川家)も〇に三ツ星に三本の唐草が付されています
私は佐賀県内の某自治体職員を生業としていたのである時期にはこの辺りも頻繁に通過していました。
また、海釣りでも最短ルートではありませんでしたが、この道を良く帰路として通っていました。
そのつど、見た目にも印象的な砦状の地があり、最低でも伊万里と有田方面、若しくは佐世保方面への交通路を遮断できる地点であると思いながら走っていました( )。下図では、上(北)が有田川の下流伊万里焼の伊万里市になります。
八天宮ですが、豊前の求菩提山の八天狗系統人々(イスラエル系)が住んでおられるのです。

今回何故、この唐船城直下の山田神社を調べる事になったかと言えば、ご高齢ながら当会のトレッキングにも参加いただいているO氏からこの神社が何かを解いて欲しいとの要請があったからでした。
まずは、非常に使い勝手が悪い、「佐賀県神社誌要」からご覧に入れます。


佐賀県神社誌要」240p
ただ、最後尾の祭神「松浪森」は見当が付きません。基本はお手上げですが、大山祇系の後裔氏族かも知れません。そもそもしばらく前までは大山村ですので。
かなり怪しいと思っていると、以下のサイトに遭遇しました。
です。
山田神社
松浦党の党祖、源太夫判官久公の第三子、有田三郎源栄公が建保6年(1218)に唐船城を築城し、ここに松浦市今福の「年の宮」を勧請した。(「年の宮」は現松浦市今福の「歳の宮」で草部吉見 古川注)
「年の宮」は嘉穂元年(1094)近江国一の宮諾冉二尊を祀る多賀明神を勧請したもので、松浦党が篤い崇敬を寄せた古社である。永禄四年(1561)六月二十六日に飯盛城主 松浦 親(まつうら ちかし)と その養子で後の唐船城主 有田 盛(さこう)の支援により、当時の圓満寺住職 阿泉(あせん)を勧請責任者とし、 本宮(年の宮)に熊野本宮から八坂社、加賀白山から白山社の二社を加え、 山田野三所大権現の鎮祭を行い、両城主および山谷地区の鎮守神としました。
神仏習合により圓満寺住職が歴代の宮司を兼任。明治になり神社は国家管理となり、 山田神社と改称し、大正8年11月27日村社に昇格した。『佐賀県神社誌要』(大正十五年)には、
御祭神
伊奘諾尊・大山祗命・武甕槌命・大己貴命・瀬織津比当ス
少彦名命・宇賀魂命・菅原道真・天照皇大神・松浪森
● 唐船城跡
平安末期からこの地を領有していた松浦党有田氏の城址です。正確な築造の年代はわかっていませんが 建保6年(1218年)が有力とされています。
松浦党の始祖とされる源久の曾孫栄が 有田郷を与えられたことに始まっており、元和元年の徳川幕府による一国一城令により 唐船城は廃城となりました。鎮座地 佐賀県西松浦郡有田町山谷牧甲2322-5
大正時代まで『瀬織津姫』を祀っていた【山田神社】佐賀県西松浦郡有田町
じゃあ、それで良いじゃないかと思われる方が多いでしょうが、神社の世界はそう単純なものではなく、祭神の入れ替え、隠蔽など政治情勢の変化によって一変します。特に、祭神が何度も変化する、若しくは増え交代する神社はそこまで掘り下げなければ本質は掴めてこないのです。
その意味でも周辺の神社の調査が必要で、元々この地に住んでいた人々がどのような人達であるか、この土地の背景を調べる神社がありますので、まずは三社ほどご紹介しておきます。編集上図面が前後しますが、有田川を挟んだ西側丘陵地帯に、八天四方萬神社(金山彦)、秋葉大権現(愛宕と併せ秋葉も金山彦系です)。そして特に、この地には稲荷社が数多く祀られているのです。
ただ、山田神社にこれほど祭神が弄られるのは一目異常な感じがします。まず明治以降でも、…
仮に「九州神社巡り」様に従えば、大正時代まで『瀬織津姫』を祀っていた【山田神社】佐賀県西松浦郡有田町なのですから。その理由は簡単に推測できそうです。
それは、『瀬織津姫』では村社昇格がおぼつか無かったからに外なりません。
何故かと言えば、瀬織津姫とは櫛稲田姫(クシナダヒメ)の別名であり、スサノウとの間に本物の(神武僭称贈る崇神=ハツクニシラスではない)カムヤマトイワレヒコ=神武天皇に盾を突き弓を引いたとされるナガスネヒコを生んでいます。このためクシナダヒメを祭神にしていては村社昇格などはできなかったはずなのです。こうして、村社昇格のためには祭神を変えるしかないとのレールが敷かれたのだと考えられます。一般的に、瀬織津姫様を探るグループもあるほどの人気の女神さまですが、所詮は藤原が造った祓戸神であり、百嶋由一郎最終神代系譜をご覧になれば、右端にそれを表示しています。
私にはこの地区に多くの金山彦系の人々が住んでいた形跡があるのですが、結果として、関東武士団の松浦 久が多賀を持ち込んだ結果、最初の変更が生じているのです。

速佐須良姫もスサノウの後にヤタガラスと一緒になって生まれたのが鴨玉依姫なのですから、123は全て金山彦の直系のファミリーであり、ナガスネヒコに近接する人々であったからなのです。
実はそれを裏付ける神社がありそうなのです。
全国に山田神社と称するものがかなりあります。 は当方が訪問した神社です
山田神社 茨城県常陸太田市西三町2091 大山津見神(ここも6年前に参拝しています)
山田神社 大阪府枚方市山之上4丁目15番36号
(この山田神社は大阪府枚方市山之上にあり旧社格は村社。 素盞嗚尊と稲田姫命を祀る)
山田神社 広島県府中市荒谷町1145 月夜見尊、上筒男命、中筒男命、底筒男命を祀る。
山田神社 香川県観音寺市 柞田町乙1982 山田大娘神 大己貴神 素盞嗚神 月讀神(玄松子)
山田神社 佐賀県有田町 山谷牧甲2322−5
山田神社 熊本県山江村 大字山田1514
山田神社 宮崎県都城市山田町山田7506 瓊々杵尊、木花咲耶姫尊、彦火火出尊、豊玉姫尊、鸕鷀葺不合尊、玉依姫の六神であったがのち月夜見尊、上筒男命、中筒男命、底筒男命の四神を合祀した。
山田神社 宮崎県西都市大字山田1343
伊弉冉諾尊(イザナミ)金山彦の妹=後にイザナギと別れ大幡主(カミムスビ)の妃に
山田神社 大阪府枚方市田口1丁目66番18 菅原道真公素盞嗚尊と稲田姫命を祀る。
山田神社 鳥取県東伯郡三朝町大字山田380 祭神不詳
山田神社 鳥取県八頭郡八頭町山田352 祭神不詳
念のために「神社探訪狛犬見聞録・注連縄の豆知識」様も見ておきましょう
山田神社
御祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊・素盞鳴尊・白山比当ス
由緒
松浦市今福に坐す「年の宮」は近江国一の宮諾冊二尊を祀る多賀明神を勧請するもの松浦党から篤い崇敬を寄せた古社である。
党祖源久公嫡直公その弟三子を栄とす。公有田郷文知唐船城を築き年の宮を勧請す。当神社の創祀なり。(平安末期或は建保(1213〜1219)頃とも)。鎌倉中葉蒙古来寇す。松浦党はその采、地を侵され惨禍至大。敵風涛に敗走するも再寇必至に備えて、寧日なき建治2年(1276)城内に円満寺を建つ。戦没家臣鎮魂の意趣も含むか。4代有田給公第2子守をして専ら神仏に奉仕せしむ。爾来720年23代他姓を雑えず。
戦国乱世は名神大社も社領を失い、困窮す。修験御師を諸国に派し、霊験を説き大いに財を募る。特に熊野は山岳信仰に補陀落渡海浄土に向うの仏説を加えて、熊野分霊勧請を奨めて周到なれば、之に應ずるもの30社を超す。
松浦本宗相浦飯盛神社、次で当神社も亦之に倣う。八坂白山の2社を加え、山田野三所大権現の鎮祭を行う。時に永禄4年(1561)6月。大檀主は松浦本宗源親公、並唐船城主有田盛公。大導師は円満寺八世阿泉法印とす。八坂社は熊野本宮の、白山社は加賀白山の勧請神なり。
戦国争覇唐船城主有田氏も有田系又龍造寺系に承継。江戸初期、佐嘉に移館す。松浦系家臣は有田氏被官に名を列ぬのみ。帰農して神社を守り万治(1658〜1660)・享保(1716〜1735)・文化(1804〜1817)・嘉永(1848〜1853)と改修にも十全を尽くす。
江戸時代当地は鍋島藩の治政に入る。藩は東部原野に牧場を設く。軍馬生産の祈願祭事を当社にて行い、藩吏参向通例たり。
明治諸政一新、神社は国家管理となり、山田神社と改称し、郷社格の申請をするも、資料不備却下。大正期平戸、大村、佐賀に史実を探ねて再申。8年11月、村社列格、由緒正しきの証。神饌幣帛料供進の指定あり。同年明治に牧公の唐船山一帯のうち北面2町歩の譲渡を受け社殿をその中央に移し、荒地を拓き、神苑を造成し櫻を植え、その余は神社基本財産の神社林とす。
同14年より神社維持講を経営す。神社及氏子の縁故を探ね北松方面を開拓、1200口を募る。毎月講会落札者より多くの献金を得て、神社の整備更に充実す。特に丹後橋架設に出資して「飛び石」徒渉の苦患を改称す。尚、将来に期する処大なるも支那事変、兵馬倥偬の故を以て早期清算の要請にて、そのこと己む。
昭和20年(1945)8月、神社は公の営造物の地位を脱し、一般宗教法人に列するも「地域和合の原点」「民族文化の源泉」たる本質は不変、氏子又八百年来奉護の至誠に懈怠なし。
これで不十分ながらも概略は把握できたかと思います。

百嶋由一郎最終神代系譜(分布)

今回改めて再再度参拝し桜満開の境内で同社の由緒を収めてきました(読み辛らければ表示で拡大を)
次は普段あまり公開しない002百嶋系図(極秘)003込ですが、大幡主=カミムスビがイザナミと一緒になっていますね その子が正当継承者豊玉彦=ヤタガラスなのです
百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください |

「日本書紀」の一書に曰く 一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」 それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず 「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。「古代史の復元」様より |
最後に、松浦党の祖と言われる松浦 久についてふれます。この人物は元々平安時代後期の武士渡辺綱の曾孫と言われ単純に倭寇、海賊上がりなどではありません。久は松浦郡宇野御厨(現松浦市)の荘官となり、松浦、彼杵郡及び壱岐国の田およそ2230町を領有して梶谷(松浦市今福に近い梶谷城)を拠点とし松浦を名乗ったのです。検非違使にも補され、従五位に叙されるのです。この辺りについて、昔の研究会仲間で佐世保市に在住する神尾正武氏(最近ユーチューブ動画を月産4本アップされています)彼は九州王朝論者ではない通説派の研究者ですが、そのこともあり私は彼の書いた「松浦党戦旗」「続松浦党戦旗」を友人にかなり薦めておりもうかれこれ20組ぐらいは手渡していると思います。今般、この山田神社に絡んで、改めて松浦 久に関する部分を読んでみました。
残念にも唐船城から山田神社については彼も触れていないと言いましたが、冒頭の17p辺りからこの久の事について触れてあります。続編と併せ、正に全編血沸き肉躍る面白い本で、是非お読みいただきたいと思います。要は倭寇の海人族の連中が久を神輿に担いだのです。
そしてそれが松浦党だったのです。