2023年01月01日

931 河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼

931 河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼

20220310

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


“ヤマト(タケル)オグナの熊襲 猛退治として皆さん良くご存じの説話があります。

その現場はどうせ熊襲だから鹿児島か宮崎辺りの話だろうと思われているようですが、それは何と佐賀県の現佐賀市(旧大和町)佐賀大和インター辺りをその舞台としていたのです。

ただ、今回、この川上峡一帯の話には踏み込んでいません。これ自体びっくりする話なのですが、敢えてその後の話を先行させて頂きました。それはこの話の重要さから、何としても急いで伝え残しておきたいからでした(これについては、「川上」という130シートのパワー・ポイントを作っています)。

そうすると「古事記」「日本書紀」と、その尻尾に成り下がった人々の通説の実態が如何に信頼に値しないものと暴き出す事ができるからです。ではこの取り組みに入った切っ掛けに再度触れます。

我々、百嶋神社考古学により古代史の真実への道を開かされた者にとって、気掛りなことが一つだけありました。それは、生前の百嶋由一郎が講演中に話していた事です。

そこで、先行ブログではその後の河上 猛に関して「ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる」 として公開してきました。

その理由は、本文で触れられていますのでこれ以上は書きませんが、故)百嶋由一郎氏は、“河上 猛は誅殺されたのではなく、現神埼市=旧脊振村の広滝で許され、脊振山を北に越え福岡市早良区の某所に移り住み、彼らの名も分かっているが、可哀そう過ぎて話せない…”と言われていたのでした。

 この衝撃的な話は当会の主要メンバーは皆良く知っているのですが、そろそろ決着をつけなければいけないと、年末年始から手描きデータなどを洗い直し今回の報告となったのでした。

 一部個人名(姓のみ)も出ることにはなりますが、神代史、古代史の真実を残したいとの思いから失礼は覚悟の上今般敢えて公開することにしたものです。

 所詮は二千年も前の話であり、言わば神話の話としてお許し頂きたいと思うものです。

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百嶋神社考古学研究会グループのメンバーの「事代主のブログ」氏は以前以下の報告をしています。

 「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)も後で独自にアプローチしこの部分に別個に合流した事になります。

 以下は、数年前に書かれた「事代主のブログ」の一部です。

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兼大明神の由来

この大明神には 日本武尊と吉備武彦神が祭られています。

第十二代景行天皇の皇子 日本武尊がこの地に登られてみると賊の川上梟師の一党が大変な威勢を振るっていた 尊は天賦の智勇をもってこの賊を征伐された のち十六代仁徳天皇の御代に一社を創建し氏神とされた 氏子の崇敬が極めて厚く社殿は現地を中心に周囲に広がり大樹が生い繁っていたが 水害 道路要地等に削られ現状となった (脊振村誌より)

日本武尊は判りますが、吉備武彦神が何故祭神なのか理解できません。

吉備武彦

『新撰姓氏録』では、左京皇別 下道朝臣条・右京皇別 廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫とし、右京皇別 真髪部条では稚武彦命の子とする。

子については、『日本書紀』景行天皇5184日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える。

『日本書紀』景行天皇40716日条によると、日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたという。また同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流した。そののち日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされたという。 wikiより

 これだけ見ると吉備武彦は川上梟師の討伐以降に従者になったはずですが…

それとも川上梟師の配下にいて、討伐後従者になったのでしょうか?

神埼郡村誌(明治14年)によると、広瀧神社は天之忍穂耳命、兼(かね)大明神は日本武尊を祀っていた別の神社で、当時まではそれぞれの場所に鎮座していました。今は現在地に合祀されています。

地元では広滝神社とも兼大明神とも呼ばれているようです。すると吉備武彦は広瀧神社の天之忍穂耳命と関係があるのかもしれません。                   以上「事代主のブログ」より

このように、「事代主のブログ」氏、「宮原誠一の神社見聞諜」…と当会のメンバーは現場に入るのです。自分で調べもしない論者ばかりになれば真の古代史は開けないないと思うものです。川上峡一帯の話についての詳細は、以下のこの辺りからお読みください。


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淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

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淀 姫 B

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淀 姫 A

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淀 姫 @


また、パワー・ポイントも作成していますので希望される方には実費程度でお送りしてもおります。

この話は「旧大和町町史」にも採録されているもので、40年近く前にこの話を知って以来、「古事記」の河上 猛の説話の舞台はこの地で起きたことであり、その話を回収された故)百嶋由一郎氏はさらにタケルは許され、その一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できないと語っておられたのですが、当時も抜け駆けして聴きだすことまではできず、他のメンバーもそれっきりにしていたのでした。

ただ、極めてロマンチックな話であり、私を含めどの氏族だろうと思い続けていたのです。

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兼大明神の由来


この大明神には 日本武尊と吉備武彦神が祭られています。

第十二代景行天皇の皇子 日本武尊がこの地に登られてみると賊の川上梟師の一党が大変な威勢を振るっていた 尊は天賦の智勇をもってこの賊を征伐された のち十六代仁徳天皇の御代に一社を創建し氏神とされた 氏子の崇敬が極めて厚く社殿は現地を中心に周囲に広がり大樹が生い繁っていたが 水害 道路要地等に削られ現状となった (脊振村誌より)

 まず、この川上峡の河上 猛の話は、佐賀市に編入された結果、実質的に閉じられた旧「大和町史」と付近の健福寺の伝承に僅かな記録があるのみで、教育委員会関係者、学芸員から郷土史会に至るまでこのような郷土の古代史、神代史にすら目を向けていないのです。

 この辺りが、在野の研究者によってしか真実への扉は開かれないと言っている意味で、結局、通説派に牙を剥く我々のようなものによってしか発掘できない事が再確認できるのです。

 しかし、不思議な事に旧脊振村の兼大明神には朧(オボロ)気乍らもヤマトタケルの登場と河上 猛の没落という話が奇跡的にも伝えられていました。百嶋神代系譜によれば、1800年近く前の話であるのにです。

 不思議ですが、河上 猛と日本武尊の話が、何故、旧脊振村の広滝に残っているのでしょうか?

 それは、百嶋由一郎氏が言われたように誅罰されたものの誅殺まではされていなかったという史実をこの神社は一身に伝えてくれていたのです。

 そして、凡そ百嶋由一郎氏がこの神社を知らなかったとは考えられず、恐らく数十年前だったのでしょうが、まだ、僅かながらもこの細い伝承を伝える人が当時はおられ、そこからの貴重な伝承を拾われたのでしょう。

 そして、そこから先の落ち延び先の福岡市早良区原の諏訪神社の話までも回収されていたのだと思います。

 その意味では、一旦は消えた神代の秘話を、我々のグループが発掘できたことは素晴らしいことであり、改めて、当会のメンバー各位の努力に感謝するものです。

私も、数か月で解決の糸口を掴めたことには望外の喜びを感じています。

やはり、百嶋神社考古学の力は偉大だと感心する事しきりなのです。では、ここから検証しましょう。

ここで周辺の氏族を理解するために百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきます。

蛇足ですが、建御名方は高木大神が本拠地としていた彦山北麓の筑豊は田川郡から行橋市一帯の国土開発を行っていた(添田の諏訪神社の由緒)ようですが、この一帯では添田町の一社を除き、ほぼ諏訪神社が一掃されています。大国主の国譲りの話もそうですが、その臣下(子ではない)建御名方も九州の人なのです。

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さて、ここから本題に入ります。兼大明神の由来には、「第十二代景行天皇の皇子 日本武尊」と書かれています。通説もその通りですが、百嶋神代系譜を見ると日本武尊は景行の子ではないのです。

草部吉見=ヒコヤイミミとナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の間に生まれた天足彦の子がヤマトタケルなのですが、それでは英雄扱できないため、辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ=伏見稲荷=伊勢の外宮=豊受大神との間に生まれた子=御歳神の子の景行の子としている様に見えます。

 これもヤマトタケル=日本武尊として持ち上げる以上ナガスネヒコの一派の後裔とは書かなかった(自ら持ち上げた景行の子として描いている)という配慮があるように見えるのです。

もう一つの問題は、近畿大和朝廷にとっての熊襲とは何かという奇妙な話になります。

 以前も申し上げましたが、河上 猛、淀姫の母奈留多姫とは、阿蘇惟人(阿蘇初代大宮司家の祖)の姉か妹かの子であり、阿蘇家本流の一族になるのです。

 久留米の高良山にいた上筒男命ウガヤフキアエズ(ハツクニシラス崇神をカムヤマトイワレ神武に偽装するために神武の父などとしている通説派はこれも熊襲扱いするのでしょうか)を熊襲としないとすれば奈留多姫とその子らの一族が熊襲だったと言ってることになってしまうのです。

 ここで、九州王朝論者にとっては常識の「松野連系図」をご覧頂きましょう。

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松野連系譜(姫姓)日本の古代豪族。『中興系図』によると呉王夫差の後裔。夫差の子・忌が日本に渡って帰化人となり、筑紫国に至って、肥後国菊池郡に住んだという。さらにその子孫・松野連(まつの むらじ)が、筑紫国夜須郡松野に住して、姫姓から松野姓に変えたのが始まりという伝承がある。…

下野松野氏(藤原姓)下野松野氏は、藤原姓宇都宮氏族横田氏支流。鎌倉時代中期、宇都宮頼綱の子、頼業が横田氏を名乗り、横田氏の嫡流を時業が継いで弟の義業が下野国那須郡松野郷を所領し、松野を「家号」とした。所有した城は松野北城、南城(1602年の松野氏出羽国移住により廃城)。…

「松野氏」ウィキペディア20220313 10:23による


この系譜はある幕末の研究者が回収したものとされ、現在は国立国会図書館に保管されています。

また、その一族とは、恐らく、熊本県山鹿市(旧菊花町)に本拠を置いていた 松野鶴平、雷蔵、頼久…の一族ではないかと考えられているのです(九州王朝論者の一部ですが…)。この系譜には三国誌の孫呉ではなく、呉越同舟の呉つまり狗呉の列島避退以降の系譜を書いているのです。

そして、この系譜に登場する二人の取石鹿文のうち第二系図の方が猛の名を貰った日本武尊であり、第一系図の方が誅罰された河上 猛であることが推定できるのです。

要するに、記紀の編集者は、阿蘇氏でもない呉の正当後裔氏族の可能性がある姫(紀)氏さえも熊襲扱いしているのです。

それは、藤原が応神を天皇に仕立て上げただけの紀氏とは縁もゆかりもない氏族だったからなのです。

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無題.png蛇足ながら、松野連系図には例の倭の五王がその後輩出しているとも書いているのです。

 関心を持たれたら、松野連系図については多くの論者がおられるので、古代の真実に繋がるエピソードだけにご自分でお調べいただきたいと思います。

 結論から言えば、近畿大和朝廷は、ヤマトタケルの熊襲退治なる宣伝を行いたかっただけであり、ヤマトタケルも畿内の人物などでは更々なく、この説話の実態は九州王朝の姫(紀)氏内部の内ゲバだっただけの事になるのです。


呉太伯はBC1000年頃の伝説上の人物と言われている。司馬遷の『史記』に記録されている。

 呉太伯の父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子があった。長男が太伯(泰伯)、次男が虞仲(ろちゅう)、三男が季歴(きれき)といった。末子・季歴は英明と評判が高く、この子の昌(しょう)は、聖なる人相をしており後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されており、古公もそれを望んでいた。太伯、虞仲は季歴に後継を譲り南蛮の地、呉にながれて行った。呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」>

 太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章→熊遂→柯相→彊鳩夷→余橋疑吾→柯盧→周?→屈羽→夷吾→禽処→転→頗高→句卑→去斉→寿夢(BC585年国名を句呉から呉に改名)→諸樊→余祭→余昧→僚→闔閭→夫差(BC495 - BC473年)

 BC480年頃より、呉は越による激しい攻撃を受けていた。BC473年、ついに呉の首都姑蘇が陥落した。呉王夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は夫差の命乞いをし、夫差を甬東の辺境に流すという決断が下された。公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えたが、夫差は「私は年老いたから、もう君主に仕えることはできない」とこれを断り、顔に布をかけて自害した。夫差は丁重に厚葬され、呉は滅亡した。

古代史の復元「呉太伯子孫渡来」より

 この系譜を正しいものとするならばですが、呉王扶差の後裔氏族が肥後に入り、そこから倭は呉の太白の裔と呼ばれたのであり、それを後の藤原は一時期熊襲とする必要性があったのです。

最後に、エピソード(挿話)を一つ。数年前、当会の事務局長のN氏が広滝から背振山頂に向かって伊福の辺りの探索を行い、現地でおばあさんと話をしていると、私は福岡の早良から嫁いで来とります…と言われたそうです。それを河上 猛が川上から早良に追放された事に短絡させることは早計かもしれませんが、古来、背振山を越え、嫁取り、婿取りの風習が成立していた名残ではないかと思うものです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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