926 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ
20220204
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
パワー・ポイントを使い講演するのは便利ではあるのですが、実際の作業となると実に大変で、その基となるブログを作った上で、次に講演用のパワー・ポイントを、パソコンが苦手と言う方のためにも手書き資料を別途用意し、さらにパソコンを使う方のためにCDやDVDでの資料を作る場合さえあるのです。
昔のように、単にお話をさせて頂くだけの方がどんなに楽か考えさせられるばかりです。
さらに参加できなかった方のためにICレコーダーで音声記録を残し、CDに焼いて配布してくれなどと言われれば、もういい加減にしてもらいたい…と言いたくなるのです。
しかし、少しでも古代、神代の真実を伝え、残したいと思えば、頚肩腕症候群で二週間寝込もうともやらざるを得ないのです。ともあれ、二つのパワポを準備しました。

左は一度現地某寺院で講演に使用していますが、今回発表したいのは、年末年始に掛けて取り組んだ続編にあることは言うまでもありません。
ところが、この「古事記」「日本書紀」に登場する「倭建命」「日本武尊」の説話の舞台が、佐賀県の旧大和町の川上峡であるなどと知る人などいるはずもないのですから、本来は左からお話しし、続編に入るべきなのですが、これについては実験的に、“ヤマトオグナに許された後の河上 猛のその後”の話を先行し、次に元々の佐賀県側(長崎自動車道佐賀大和インター)周辺の話に戻ろうと思うものです。
何故ならば、福岡市早良区の話は実に臨場感があり、とても神代の話には思えない鬼気迫る現実味があるからで、その延長上に本編に踏み入る方がよりリアルに思えるのではないかと思うからです。
とはいっても、事前資料は用意せざるを得ません。この現場が、古代の有明海の湾奥の現佐賀市であったという話から始めることにします。ただ、また同じようなブログを書いても二重になるだけですから概略だけを箇条書きにしたいと思います。
@ 40年ほど前、旧「大和町史」の拾い読みをしていると、淀姫神社の西の山の中腹に河上 猛の墓(墓碑、墓誌)があったとの伝承が存在したと言った記述があることを知りました。一方、以下。
A 戦時中に熊本市役所にお勤めだったのですが、熊本では稀有の九州王朝論者である平野雅廣(日偏が着く)氏が「倭国史談」外3著を残されています。この「倭国史談」37pには異説「ヤマトタケル」という小稿が収められており、「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」上巻に「蠣久府址」の説明文を掲げられ、「往古此地は九州一の都会、…戸数三千、富豪巨商軒を連ねし所、…日本武尊河上村に熊襲追討…」と。また 旧川上村は佐賀郡大和町と…昭和50年の同町「大和町史」の伝説民話にも ●大願寺の山中で、熊襲が里の娘たちを集めて、大酒宴の最中、日本武尊に殺された。…そこから一キロ北に行基が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという、川上梟師に関する伝承が記されている(大願寺、健福寺は共に大和町北部)。淀姫神社についても…
「脊振村(現神埼市)広滝 で許された河上猛とその一族はその後背振山を越え福岡市早良区に移り住んだ」とは我が師百嶋由一郎だった。この話をどこから回収されたかは今後の課題ですが、まずは、真実を探る事に一生を掛けた先生らしいとの想いが募ります。では、早良のどこなのか?誰なのか?は百嶋由一郎の強烈な影響を受けた十数名の人々(百嶋先生の面授の弟子)が等しく抱き続けた謎に踏み入りましょう。私は五年ほど前から早良の南から虱潰しに神社を廻ることから始めましたが埒が明かず結局徒労に帰しました。そこで、年末から百嶋由一郎が残した手書き資料を探し出しました。驚くことに、河上 猛の母奈留多姫は八坂刀女と名を改めアスハ(後の建御名方)と道行に走った。と書かれていたのです。では、早良区の諏訪神社はと言えば、原の諏訪神社しかないのです。しかも、M氏の情報によると八坂刀女が石碑の由緒書きに書いてあるという情報までもたらされました。そこで現地のフィールド・ヲーカーのN氏と1月11日、諏訪神社を踏むと、裏には大神氏以下、佐賀にもなじみのある多くの名前が付されていたのです。
後日、「福岡県神社誌」で確認すると、以前の宮司家の名も掲載されており、河上 猛の一族とはこの一族だったのではないかとの推測が一応は立ったのでした。後は現地伝承を両面から探る作業を行うことになりますが、恐らくこれも徒労に帰すでしょう。ともあれ、当面の課題はクリアしました。
そこで、栄えある河上 猛のその後の姓が大神だったとしましょう。直ぐに頭を過るのは豊後竹田から豊後大野に掛けて盤踞した阿蘇の大神一族の事でした。後には辛島氏などと並び称せられる宇佐神宮の宮司家=大神比義の一族となり「平家物語」にまで登場するのです。彼らは祖母山に豊玉姫を祀りました。それは河上 猛から見て祖母だったからであり、祖母山の名はここに端を発していたのです。さらに言えば、この一帯に異常にも広がる「ウガヤフキアエズ王朝説」も猛にとっての父とは久留米高良山にいたウガヤフキアエズだったからなのです。この説の底の浅い構造に改めて興ざめしたのでした。 トレッキング資料から