2022年10月24日

919 ザ・ドリフターズの志村けん の同級生だったという恵面(エズラ)さんの恵面姓とは何か? @

919 ザ・ドリフターズの志村けん の同級生だったという恵面(エズラ)さんの恵面姓とは何か? @

20200331

太宰府地名研究会 古川 清久


まだあまり馴染んでいない人から“あなたはどんな音楽が好きですか”などと問われると、“カルロス・ディサルリやオスワルド・プグリエーセ…など1930年代のアルゼンチン・タンゴが好きだ…などと始めから本性を現さず、「ドリフターズですかね…」などと皮肉を込めて答えてびっ無題.pngくりされる事が過去何度かありましたが、当然にも私の言うドリフターズとは、R&Bのザ・ドリフターズだった事は言うまでもありません。

ザ・ドリフターズ(The Drifters)はアメリカ合衆国の米国のドゥーワップやリズム・アンド・ブルースを歌ったコーラス・グループ。1953年に結成された当時は、ビリー・ワード&ザ・ドミノスの元リードテナー[注釈 1]であるクライド・マクファターのバックコーラスだった。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第81位。『ローリング・ストーン』誌によると、マクファターが去った後のザ・ドリフターズは、1955年からその名称(権)を所有するジョージ・トレッドウェルにより雇われた低賃金のミュージシャンだったため、偉大なコーラスグループの中で最も安定感に欠けていた。トレッドウェル・ドリフターズの歴史には、ドリフターズの元メンバー(トレッドウェルの管理下ではない)による幾つかの分派グループを含め60人の歌手がいる。通常、これらのグループは「ビル・ピンクニーのオリジナル・ドリフターズ」「チャーリー・トーマスのドリフターズ」などのクレジット表記で識別されている。ウィキペディア20200401 0829 による

There Goes My Baby(1959)、「ラストダンスは私に」(1960)、「渚のボードウォーク」(1964)


これは、ある意味で他人への防衛反応でもあったのですが、元に戻せば、クレイジー・キャッツに続くコミック・バンドであり、今や1966年のザ・ビートルズ日本公演で前座を務めた事さえも忘れ去られた感のあるザ・ドリフターズの事でこれも五十年以上前の話になります。さて、当会の女性メンバーから“「恵面」(エズラ)姓とは何か“と言う問い合わせが飛び込んできました。熊本で子供食堂やら一人親家庭の支援などを行う全国区の団体Aの指導者でもあり、熊本地震で自宅も被害が出ている中、直ちに周辺で犠牲になった人々への炊き出しなど支援活動を行う立派な人(私は始めて出合った時からウイグル(トルコ系)の舞姫と呼んだ美形だけに、書き掛けのブログを中断し、とりあえず分かる範囲で簡単に調べてお答えする事にしました。多分、会議の合間に志村けんがコロナ・ウイルス禍によって亡くなったという報道を見て志村の同級生の東村山市の「恵面」さんという姓が気になり連絡してこられたのだと思います。

熊本地震で阿蘇大橋が崩れると半年も前から何度も大騒ぎをしていた霊能力(予知能力)のある女性だけに、何らかの直観がひらめいたからだと思うのですが、非常に面白い事に気付きましたので、当の恵面様にはご迷惑が掛かるかも知れませんが、歴史探究の可能性の確保の気持ちはあるものの、只の戯言として見過ごして頂きたいと思うものです。

志村けんと言えば、ザ・ドリフターズから抜けた荒井注の替わりに後で加わった知らぬ者はないほどの方ではあるのですが、東京都東村山市に住む幼馴染に「恵面」さんがおられた…と言う事で当方も直ぐにある種のイメージが湧いてきました。

 しかし、恵面(エズラ)姓とは驚くべきものです。どう考えても日本語の語感を持たず、明らかに渡来系の民族であろうと考えました。特に「恵」が含まれている事からして713年の「好字令」以降に文字を替えたとしてもその思いは変わらないほどのインパクトを伴うものでした。まず、全国でも100件以下のレアな姓であろう事は想像が着きます。例によって、「姓名分布&ランキング」を見る事にしましょう。

予想通り、10件あまりが北関東に集中している事が分かります。

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最大が東京都の6件で、東村山を中心とするものであろうことは一目です。

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狛江市には高句麗系の人々が組織的に入っている事は記録もあり、一般にもかなり良く知られていますが、まず、水を得にくいことから農村稲作に不適な北関東平野の荒野の一角に、大陸から半島経由で入って来た中近東方面の氏族(民族)ではないかと考えました。

 特に、分布のピーク(と言っても6件ですが)が東村山に有る事から、もう一つのイメージが膨らみます。

 何故なら、牟礼、群、室、村(ムレ、ムロ、ムラ…)とはシルクロード一帯の集落、砦集落、城塞集落をひく地名の可能性があり、東村山とは「村山」さんが集団で東に移動した事を表しているはずなのです。

 そこで、村山姓がどこに集中しているかを調べて見ました。粗方見当は付いていましたがこれほど鮮明に表れるとは思っても見ませんでした。

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田中角栄の出身地の西山町(現柏崎市)辺り、柏崎刈羽から十日町市、南魚沼一帯は、九州を追われた物部氏本隊が海路日本海を北上し時間を置いて東に山を越え北関東に入った震源地と考えてきました。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥から以下をお読み下さい。


295 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した     20160105


新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。

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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。

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参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)

立ち葵から三つ葉葵、さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

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敬愛するHP「倭国九州王朝」より

 ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」… 無題.pngに助っ人を頼みたいと思います。以下。


 無題.png無題.png徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。

徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
無題.png このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、 これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。写真:上賀茂神社の紋-二葉葵  葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。
………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。

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百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。新田義貞の家紋も○に一文字(一引き)。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?

「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254


追記)私達はこれまで筑後(筑後が起点ではなかった事は既に気付いていますが)から筑豊に展開した物部二十五部族を追い求めて来ました。

 ただ、物部氏でも「先代旧事本紀」の筆頭に書かれる最強の二田物部(ニギハヤヒ)を祀るとしか思えない新潟県の柏崎刈羽の二田物部神社を見出だした時、新潟県の「ニイ」、木枯紋次郎の上州新田郡三日月村の新田「ニッタ」(三日月村はフィクションですが新田郡は存在していました)も、新田義貞の「ニッタ」も、「新」を新しいと言う意味で「ニュウ」と表現する中近東系の民族が列島に入っている事を確信するのです。その延長に「恵面」姓も存在するはずなのです。

 ただ、どうもこの「恵面」の一族は、ニギハヤヒ系の物部氏ではないという思いが募っていました。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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