2022年10月18日

917 彦山、高住とくれば求菩提山山岳修験にも触れざるを得ないでしょう

917 彦山、高住とくれば求菩提山山岳修験にも触れざるを得ないでしょう

20211020

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


北部九州の山岳修験と言えば、肥前の九千部山、多良岳はともかくも、彦山、高住、求菩提山、国東半島の拠点があることに気づきます。

勿論、南に目を送れば、鹿児島の薩摩半島の旧金峰町などもあるのですが、何といっても北部九州が最大であったであろうことは言うまでもありません。

 そこで、高住からは目と鼻の先と言った位置関係にある東の求菩提山を考えることにしましょう。

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この話に入るとき、いつもある種の危うさを感じてしまいます。

 それは、九州の山岳修験の実態が国東半島を最後にほぼ消失しつつある中、明治に修験道が禁止されるまで存続していたものの、この求菩提山に於いては有力な勢力が西の肥前に移動している形跡があり、この理由には国東と彦山との挟撃を受けていたからではないかと考えているところです。これらについては当方の手におえない事は確実だからです。

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国玉神社 カーナビ検索 福岡県豊前市求菩提202

(画像は九州神社紀行−ブログ様から無断借用しました)


国玉神社 福岡県豊前市にある元郷社。祭神はアキツクニタマノカミ,イザナギノミコト,イザナミノミコト。神仏分離以前は求菩提 (くぼて) 山の修験道の中心として護国寺と称し,天台宗系の本山派に属していた。分離以後は寺を廃して国玉神社となり,1878年からしばらくは神道黒住教に属した。大永年間 (15211528) に求菩提山南面の普賢窟から出土した,銅板法華経 33枚とそれを入れる康治1 (1142) 年銘の銅筥があり,いずれも国宝。銅筥とその内容物である銅板経が完存する例はほかになく,学術上貴重である。


祭 神


伊弉諾命 伊弉冉命 顯國玉神 宇都志国玉(ウツシクニタマ)神は大国主の別名の一つ

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伊弉諾命 伊弉冉命の子がスサノウですので、彦山の天照と衝突するのは必然的かもしれません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 新羅の昔氏のイザナギと金山彦の姉のイザナミに生まれたスサノウと金山彦の娘櫛稲田姫の間に生まれたのがナガスネヒコですので、秦氏が集中する豊前、築上郡の山の頂に実質金山彦系の修験が存在したことは必然とまでは言えるでしょう。

この地に相当数(180坊、明治期でも50坊)の勢力を保っていたことは明らかですが、彦山、国東などに比べれば規模は大きくはなかったと思われます。

 この一帯の豊前は秦氏が高率、大量に入った場所であり、そもそもヘブライ系の人々が大量に住んでいた場所に現地調達的に修験勢力が成立しているのかも知れません。

 ただ、この八天狗は実際に西に移動しています。

 実は、余り知られていませんが、現在も佐賀県〜長崎県〜福岡県の県境に掛けて山頂などに多くの八天神社の祠が置かれています。

 さらに、佐賀県の神埼市、小城市にかなり大きな境内地を持つ八天神社があり、嬉野市(旧塩田町)にも佐賀県下最大級の八天神社が存在します。

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求菩提資料館の八天狗+大天狗像


  地元では「八天さん」と呼ばれ、現在でもかなり大きな教線を張っておられるようです。

また、長崎県諫早市にも山一つ境内地と言った大きな神域を持つ八天神社が存在しています。

 ここで、旧塩田町の八天神社を中心にご紹介します。

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八天神社 カーナビ検索佐賀県嬉野市塩田町大字五町田谷所乙766


三つ鳥居は九州でも10ケ所ほど確認していますが、百嶋先生は殷(イン)の鳥居と呼ばれていました

祭神 菅原 道真 表に出されたものはこれだけですが本来の主神は火の神の金山彦に決まっています

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この塩田町から鹿島市に掛けては多良岳山岳修験と繋がっているようで、鹿島市の西部域から金山彦系の修験が目立ってきます。ついで佐賀県の八天神社は神埼市と小城市にあると前述しました。

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佐賀県神埼市神埼町城原3672 城原八天宮(上)佐賀県小城市小城町松尾2710 焼山八天神社(下)

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最後に諫早市の八天神社をご紹介します。

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市営永昌団地の右側から入って、行き止まりの手前が、この八天狗さん。(02/11/2002

八天狗信仰の流布は不明であるが、諫早領内は諸方に八天狗石碑の建立があり、これら修験者山伏によって、火難消除の守り神として、信仰を広めた。

 ここ永昌の地は、長崎街道、諫早浜街道(多良街道)、島原街道と、三街道が合流するところ。佐賀本藩の代官所もあり、諫早の宿場であると共に、諫早を抑えの拠点としての重要地であった。八天籠、八天下、八天平の小字の接点が、この境内であり、眼下に栄田本明川に沿う町並みを望見する景勝清浄の地に、火災鎮除農作工業開運安産の守護神として八天狗を祭祀し士庶万民の振興の祭場として今日にいたる。

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諫早市内から県道41号を南下し、土師野尾地区に入ると右に大鳥居が見えてくる。八天狗の額を確認して分岐を右折、しばらく進むと今度は左に八天狗の鳥居が建っている。なお、手前には「申」天狗と大蔵の里の案内が置かれている。

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佐世保市周辺にも八天神社の痕跡がありますが、これくらいでも九州西域の肥前(佐賀長崎)に金山彦系の修験の勢力が逃亡したことが見えてきます。

 彼らは優秀な製鉄技術を持つも絶対数が少ないため圧迫を受け移動をせざるを得なかったと考えています。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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