2022年10月15日

916 彦山の北谷とは何か?

916 彦山の北谷とは何か?

20211014

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


彦山北谷の神々の問題にこれほど早い段階で踏み込むなどとは思ってもいませんでした。

ところが、彦山、高木大神、カミムスビVSタカミムスビ戦争(出雲の国譲り)を取り上げる以上、どうしてもこの問題に踏み込まざるを得なくなってきたのです。まずは、同社HPを見てみましょう。

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高住神社 カーナビ検索 福岡県田川郡添田町英彦山27番地

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言うまでもなく高住神社は彦山の東数キロのところにあります


神社関係者の間では良く知られた神社ですが、標高1200mもある彦山直下の標高700mもの高地にある上に参詣人がひっきりなしに訪れるというほどのものでもないため、言わば玄人筋好みのマニアックな神社になるのかも知れません。ここで、祭神を比較しましょう。


彦山神宮 :正勝吾勝…(草部吉見)+イザナギ+イザナミ


高住神社 :天照大御神+豊日別命+天火明命+火須勢理命+少彦名命「福岡県神社誌」下巻166p

  少彦名命は文政年間に鷹巣岳から移した…との事ですから4神と見るべきかもしれませんが、元々高住神社自体が同山の直下に在る訳で、むしろこれこそが本体ではないかとまで考えてしまうのです。


ここで、当方から地理的にも近い上に、ネット上のお知り合いでもある「美風庵だより」様の簡潔な

リポートをご紹介します。以下  黄色のマーカーは当方によるものです。


高住神社という名前より「豊前坊」という通称のほうがはるかに有名な神社です。

最後に訪問したのが2019年4月ですので、約1年ぶりの再訪となります。

この神社に関する伝承といえば、なんといっても日本八大天狗「豊前坊天狗」の伝承でしょう。

豊前坊天狗は九州天狗の頭領とされ、天津日子忍骨命(天之忍穂耳)が天下った姿とされています。

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現地にある案内板に目をやると、御祭神は豊日別大神、天照大神、天火明命、火須勢理命、少彦名命とあります。

福岡県神社誌には少彦名命は他で祀られていたものを安政年間(1855年〜1860年)に合祀したとあるので、残る4柱がほんらいの御祭神ということでしょう。

豊日別大神とは、大幡主の子で高木大神(高皇産霊神)の娘婿となった 豊玉彦を指します。彼もまた別名の多い神様です。思兼命、秩父大神、豊国主といった名前で各地に祀られています。

天照大神については説明不要でしょう。

次の天火明命は饒速日(にぎはやひ)と同神という説があり、それに従えば山幸彦である猿田彦を指すことになります。

最後の火須勢理命(ほすせり)は、あくまでも記紀に従えばニニギと木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子 火照命(ほでり)、火須勢理命(ほすせり)、火折尊(ほおり)の真ん中です。火照命が天之忍穂耳(海幸彦)の別名で、火折尊が猿田彦(山幸彦)の別名であることを考えれば、火須勢理命も同じ時代に活躍した英雄の別名と思われます。ただし、まだこのひとがおそらく火須勢理命だろうと比定できてはいません。謎のままです。

豊前坊天狗が天之忍穂耳とともに天下ったという伝承と、目の前に並ぶ御祭神の顔ぶれはそのままでは結びつかないものです。高木大神(高皇産霊神)と天照大神からみて、二人の娘婿にそれぞれ現在の高住神社(豊前坊)と、英彦山神宮(彦山権現)を任せたという印象をうけます。

豊日別大神とされた豊玉彦が豊前豊後の守護神であるとするなら、天之忍穂耳率いるのちの彦山権現の立場もわかりにくくなります。

天狗の原型を天之忍穂耳が阿蘇から引き連れてきた私兵と考えるなら、なおのことです。 

あくまでも推測と仮定の話ですが、もともとは並び立つ存在だったのでしょう。彦山権現の影響力が大きくなり、豊前坊はその影響下におかれるようになったが、御祭神は過去の記憶を引き継いだとみることはできないでしょうか。まだまだ調べてみる必要がありそうです。

-------  過去の訪問記録 豊前坊 高住神社 - 美風庵だより

-------  福岡県神社誌:下巻169頁(僭越ながら編集が違うのか当方のものでは166167pです)

[社名(御祭神)]高住神社(天照大御神、豊日別命、天火明命、火須勢理命、少彦名命)

[社格]県社 [住所]嘉田川郡彦山村大字彦山字高住ヶ原 [境内社(御祭神)]記載なし。--------------

---------------------2020.06.07訪問)

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「美風庵だより」様が示された疑問は私も共鳴するものであり、実は、高住神社の昔の祭神は大国主命だったという話は以前から聴いたことがあったのです。そこで 様の記事を読ませて頂くと高住神社においても、祭神が重層構造を成している可能性が見えてきたのです。


<> 英彦山神宮の由緒大略
(1)
英彦山の本来の祭神は高木神
 英彦山の本来の祭神は高木神で、山頂は高木神祭祀の旧地だとする伝承があり、神託により、312(崇神天皇の乙酉2)年、崇祠を創立したとも云います。

また、文武朝(697~707)に、高木神を祀る「産霊神社」を英彦山山頂の直下に鎮座したとも伝わります。
(2)
大国主命の聖婚の地
 大国主命は高木神の女むすめ・宗像二女神(田心姫命・瑞津姫命)を妃に迎えます。

注 これは、こブログ「女神物語ー弥生神代考」の冒頭「宗像三女神は高皇産霊命の女むすめである(宗像2) 」で解明して、ご案内しました次の二つの言説とも一致するものです。敢えてこの二言説を再掲しますが、興味深いのは、「先代旧事本紀」も「鎮西彦山縁起」も、この言説を既に述べていたのです。記紀(日本書紀・古事記)は、この事実を伏せて、それ以降の歴史記述は大きく変えられたのです。
   言説1:神屋楯比売は宗像三女神の一柱、多岐津姫命(別名:神屋多底姫命)=高津姫神である。
   言説2:大国主命は田心姫命(奥津宮女神)のみならず瑞津姫命(辺都宮女神)も娶った。
注 瑞津姫命(辺津宮女神)は、「旧事紀・地祇本紀」が高津姫神とするのは、「古事記」の神屋楯比売と一致し、「海部氏系図」の記述する多岐津姫命(多岐都比売命=神屋多底姫命)も同一神です。

(3) 天忍穂耳尊の彦山飛来伝承
 
古くから九州北部の神奈備とされた彦山に、高木神に次いで、大国主命が来住し、宗像二女神との聖婚後、更に、ここに天忍穂耳命が鷹となって飛来して、大国主命から英彦山を譲り受けます。
 その後、大己貴神(大国主命)は許斐山へと移り、大己貴神妃の二女神は随従して宗像宮へ向かいます。
 注 後に、この山は日子山と呼ばれ、後世、1717(享保14)年には、「英」を加えて「英彦山」と尊称す。
    (1)
(3)は次の中・近世の資料によりますが、中々興味深い伝承と云えます。

1鎮西彦山縁起:元亀三年(1572)、宗賢坊祗暁透

三女神は日の神の勅命で宇佐嶋に降臨後、英彦山に遷った。そこで、大己貴神は田心姫命・瑞津姫命を娶り北嶺に鎮座したので、北山地主と称するようになった。市杵島姫命は山の中腹に鎮座した。ある時、天忍穂耳尊の神霊が一羽の鷹となって東から飛来して、峯に止まった、(中略)大己貴命は北嶽を忍穂耳尊に献上し、田心姫命・瑞津姫命を連れて山腹に下り、その山を日子山と名付けた。その後、三女神は宗像宮へ、大己貴神は許斐山へと移った。

2彦山流記:彦山に関する最古の貴重な史料

建保元年癸酉(1213)七月八日、肥前国小城郡牛尾山神宮寺・法印権大僧都谷口坊慶舜甲寅の年、中国の天台山の王子・晋が旧無題.png跡を離れて東に向かい、その乗船は「豊前国田河郡大津邑」に繋ぎとめられた。今「御舟」と云う。着岸当初、香春明神に宿を請うたが、地主神は狭いのを理由に貸さなかった。権現は直ちに彦山に登ると、地主神・北山三御前が我が住まいを権現に譲り奉りましょう、と云った。暫く、当山中腹に降りた後、許斐山に移られた。金光7年(丙申の年、576)、敏達朝のことだった。

      ・「権現」は「王子晋」、「地主神・北山三御前」は「大己貴命と三女神」を指す。

       ・彦山七口:鳥居越・津野峠・伊良原・霊仙見の四門


してみると、当会の伊藤伊藤まさ子女史が言われた古代祭祀線が彦山中宮を通らずにこの高住神社を経由し宇佐の御許山(大元神社)から熊野本宮大社の洪水により消えた古宮跡地に繋がるという話が俄かに信憑性を帯びてくるのです。

百嶋神社考古学では宇佐神宮とは本来は九州王朝の神宮であったとしますし、それを見守る御許山を通り、熊野と繋がるとすると、この高住北谷との関係、つまり忌部(大国主命もカミムスビの一族ですので)との関係も移行すべきなのです。


 一応、高住神社の祭神について再確認しておきましょう。

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「福岡県神社誌」下巻 166p


この北谷(嶽)問題は取っ掛かり程度の段階で軽々には判断できないのですが、前述の「女神物語」の部分で出てくる、以下。


(2)大国主命の聖婚の地
 大国主命は高木神の女むすめ・宗像二女神(田心姫命・瑞津姫命)を妃に迎えます。

注 これは、こブログ「女神物語ー弥生神代考」の冒頭「宗像三女神は高皇産霊命の女むすめである(宗像2) 」で解明して、ご案内しました次の二つの言説とも一致するものです。

 の「宗像三女神は高皇産霊命の女むすめである」という記述の意味については、多少のコメントを加えておく必要を感じます。

 古代において、高木大神の様なイスラエル系にそのまま当てはめて良いかは多少の躊躇いがあるのですが、高木大神の女むすめ(ママ)という表現は、百嶋神社考古学の立場から言えば、少しばかり訂正の必要があるでしょう。

 百嶋由一郎最終神代系譜によればですが、高木大神の長女である豊秋津姫と豊玉彦=ヤタガラスとの間に生まれた豊玉姫はある程度許されるとして、義理の子と義理の孫の違いを認識すべきでしょう。

 ただ、市杵島姫に至っては、豊玉彦ではなく彼の姉であるアカル姫の子であり(恐らくスサノウとの子)、世代も系統も個人も異なっているのです。

さらに鴨玉依姫に至っては豊玉彦と金山彦の娘(有名なスサノウのヤマタノオロチ退治で妃とした櫛稲田姫)なのですから、ここでも世代も系統も個人も異なっているのです。

何でも高木大神の子などとするのは高木大神の悪い癖、やたら派手な演出をしたがるのがこの方の習性ですと百嶋先生もおっしゃっておられたのを今更ながら思い出します。

このような乱暴な議論は真に受けない様に自ら防衛ネットを張っておくべきでしょう。

しかし、義理の子は自分の子という認識は、全てではないと考えますが、古代の同胞=輩=皆兄弟となる文化が存在したことは間違いないとの理解は持っておくべきでしょう。

ついでに高住神社の五祭神の正体です。天照は本物の神武天皇の腹違いの姉、豊日分は豊玉彦=ヤタガラスで良いでしょう。

天火明命がかなり問題で、ここではコトバンク様に取り合えず合わせておきます。


天火明命の別名は以下に挙げるものがあるとされるが、膽杵磯丹杵穂命や邇芸速日命は全くの別神であるため、後世の混同か。 『 古事記 』及び『 日本書紀 』の一書によれば、天火明命は 天忍穂耳命 と 高木神 の娘 万幡豊秋津師比売命 との間に生まれた子としている。 これらの伝承において 邇邇芸命 は弟だが、『日本書紀』の別の一書では父としている。 また『先代旧事本紀』では、 穂積臣 、 物部連 の祖である 饒速日命 と同一神としているが、世代関係や活動地域から疑問が大きい 。 一方、『 播磨国風土記 』では 大汝命 と 弩都比売 との子とする。 『 新撰姓氏録 』では、 天津彦根命 、 天穂日命 、 天道根命 などの子孫と合わせて、 天火明命 の子孫を「 天孫族 」と称している。


火須勢理命もかなり面倒で、「古事記」で、“瓊々杵尊と木花開耶姫の子は第一子が火照命(ホデリ=海幸彦)、第二子が火須勢理命(ホスセリ)、第三子が火遠理命(ホオリ=山幸彦)であり、火遠理命の孫即ち火須勢理命の大甥にあたるのが神武天皇である”とするのは、実際、聴いちゃいられないといったところです。ここでは無視させていただきます。少彦名命は後から鷹巣山から降ろされたとされ祭神として追加されたとしていますが、少彦名命単独というのはおかしいので、大国主命が消されているのではないかという印象を持ちます。今のところここまでしか言えません。熊野本宮大社元宮と繋がる祭神であるべきかと考えてます。

最後になりますが、少彦名命が出てきて大国主命が祀られていないこと。

彦山の北部丘陵の一角の田川郡添田町の諏訪神社の由緒書きに出雲でもないにもかかわらず大国主命指揮下での国土開発の話が登場するのですから、元々高住神社の真上に君臨していたであろう大国主命を思わざるを得ないのです。

ここまで見てくると、彦山ではなく、鷹巣山の高住神社に大国主命+少彦名命(熊野の別派)が宇佐御許山〜熊野本宮大社に通じる古代祭祀線を考えれば、高住が高木大神系ではなかったのではないか、それ以上に九州王朝系だったのではないかとまで考えるべきではないかと思うものです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎の講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書きデータを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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