2022年10月09日

914 出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に掛けての旧田川郡、行橋市一帯で起こった

914 出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に掛けての旧田川郡、行橋市一帯で起こった

20211011

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今年の春先から、もしかしたら出雲神話の舞台とは福岡県の朝倉郡一帯ではなかったかというテーマでブログを書き、三度に亘る朝倉、春日、添田〜小石原に掛けての現地トレッキングを重ねてきました。

 中でも甘木、朝倉については一回ではこれ無い人達に対する追加トレッキングとして56回も案内する羽目になってしまうほどでした。

 この結果、予想もしていなかった新たな発見もあり、主要に「古事記」に描かれる国譲り神話とは権力を握るに至った後の藤原がそのご先祖様の時代、つまり九州王朝の時代に本拠地としていた彦山の周辺の安定化のために強要した葦原中津国の割譲と、それに連動する建御名方が開拓した地の強奪を意味したものだった事が見えてきたのでした。

 まだ本気で考えて頂く事はできないでしょうが、単に葦原中津国と想定した旧朝倉郡ばかりではなく添田町どころか筑豊の田川郡から行橋市辺りまで、九州では普通に見掛ける諏訪神社がほぼほぼ存在しないという不思議な現象に気づいたことから、どうも彦山の南北から東部一帯までもが国土を奪われ、彦山の勢力に制圧された時代があったのではないかという想定に行きついたのでした(彦山安定化戦略)。

 位置関係が分かられない方のために地図を出しておきますが、彦山の南北の+東の意味がおわかりいただけるのではないかと思います。

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彦山の東には救菩提山、西には馬見山などの高峰がそそり連なり、南の朝倉郡一帯から北の筑豊、行橋市などへは容易に移動できない壁のような存在だったのです。

この間、南の旧朝倉郡一帯こそが、天照が日嗣皇子に治めさせるべき葦原中津国であり、その国譲りならぬ強奪こそが出雲の国譲り神話の本質であり、その痕跡こそが60社ほどの無各社に落とされた多くの田神社群だったと考えてきました。

ところが、10年も前に訪れ驚いたなりにしていた添田町の諏訪神社の由緒書きを併せ考えると、田川郡の物部地帯などに諏訪神社が極めて少ないと言うより存在しないという事実に思い至り、この大国主命の次男などと脚色されている建御名方を祀る諏訪神社が異常に少ないというより存在しない事実を知り、この北の物部地帯のかなりの部分も同じく強奪された国譲りの一部であったという事に気づいたのでした。

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一社だけ福智町上野今殿に諏訪神社(「福岡県神社誌」下巻185p)があるのですが、未踏査の上に50戸ほどの小集落の神社であり、何も拾えないのではないかと考えています。いずれ探訪させて頂きます。

 この神社は、祭神の武御名方命は良いとして、事代主も仕方がないとは言え、八坂入姫(景行の妃ともされ、崇神の孫に八坂入彦がありその娘のように見えますが…)八坂である以上、スサノウ系引いてはナガスネヒコ系、しかも「上野」という地名が金山彦系であることは経験的に分かることから興味は尽きません。

 この福智町自体が上野焼、高取焼の地でもあり、どちらかというとナガスネヒコの匂いが強いのです。

 焼物転業以前は製鉄者集団だったことは容易に想像が着くのですが、まあこの話はここまでとしましょう。

 この問題は今後の課題として継続させますが、一旦はここで中断し、何故、彦山南北の広大な領域が彦山の高木大神を中心とする集団に割譲されたように見えるのか、そしてそれらの役者が出雲の国譲りと称せられる奇妙な話の登場人物と良く重なるのかを考え、出雲の国譲りとは彦山南北一帯を奪った事実を国を譲るという、“言わば美談として描き、後の民族融和を図ったものだったのではないか“と考えてたいと思うものです。

 まずは、現在の彦山の祭神を再確認しましょう。


主祭神

正勝吾勝勝速日天之忍穂命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)

配 神

伊耶那岐命(イザナギノミコト)

伊耶那美命(イザナミノミコト)


 念のために「福岡県神社誌」(上巻)36pを確認すると、こちらは「日本書紀」の一書に準えて、正哉吾勝勝速日天忍骨尊 と書いています。

 これだけでも少しの情報が得られるのです。この人物は端的に言えば阿蘇高森の草部吉見神社の主祭神であるヒコヤイミミなのです。

 多くの阿蘇系の人物(神々)には「耳」が付されます。恐らく尊称なのでしょうが、カミヌナカワミミ、 カムヤイミミ、タギシミミ(手研耳命=健磐龍…タケシミミ)…というぐわいです。

従って、彦山の主神に登り詰めたマサカツアカツなる人物が阿蘇系だったことは間違いありません。

この人物こそ、国譲りを強要した実行部隊の中心人物であり、その功績が認められたからだったかは不明ですが、彦山の本当のスポンサーでありオーナーである高木大神(高御産巣日神、高皇産霊尊と書かれる)の次女栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)をお妃としているのです。

「古事記」では萬幡豊秋津師比売命としますが、こちらは長女であり、豊玉彦=カミムスビの子=ヤタガラスのお妃となっておられるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


これで、「古事記」の国譲りで、高木大神が草部吉見=正勝吾勝=武甕槌…を送込み国譲りを強要させた上で、代わりの大きな社を立てさせてやると言った背景が見えてくるはずです。

それは、我が次女のためであり、その入婿のためであり、自らの最大拠点を安定化させるためのものであったことがお分かり頂けたのではないでしょうか?

確かにイザナギ+イザナミが祀られてはいるのですが、これは高木大神の本拠地であった新羅の大邱(テグ)を意識しての、スサノウ系への懐柔という政治的意味が表現されているのではないかと思うのです。

何故ならば、スサノウは新羅の王子様だったからなのです。

まだこの時点ではスサノウと金山彦の娘=櫛稲田姫の子であるナガスネヒコの乱は勃発してはいないはずなのです。

“「日本書紀」の一書に準えて、正哉吾勝勝速日天忍骨尊 と書いています”と前述しましたが、もう一つ新羅を意識した部分を感じます。


骨品制(こっぴんせい)は、朝鮮半島の古代国家新羅で導入されていた身分制度である。

この場合の「骨」は血統や家系を意味し、すなわち骨品とは出身氏族や血統の正当さを以って品位に代える、という考え方であり、制度はこれに基づいている。新羅の王都のみにおいて導入された氏族の序列をつけるための制度で、地方では適用されていなかった。

出身氏族により五段階に身分を区別し、特に王族に属する者を最上位に置いて真骨(ジンゴル)と呼び(中でも父母共に王族に属する者を特別に聖骨(ソンゴル)と呼んだ)、以下、六頭品、五頭品、四頭品、平民と下る序列を行った。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20211012 20:45


 多分ですが、正勝吾勝のお妃が新羅のと言うより新羅の支配者であった高木大神の次女である御姫様であり、そのことから天之忍穂耳命を天忍骨と書き、高木大神への配慮をしているのです。

 勿論、この「骨」という文字を尊敬を込めて使い現在は半ば引っ込めていますがこれは国内対策の結果でもあるのです。

 そもそも、草部吉見の「草部」とは、新羅の影響下にあった伽耶(カヤ=クサ)を表すものだったのです。

 高木大神の最大の本拠地は新羅の大邱でした。この事は古くは権威でしたが近現代では疎まれるべきもので控えめに残している程度のものであり、痕跡とも言えるのです。

 ここで、最終神代系譜の左上を見てみましょう。

 スサノウはイザナミ+イザナギの子です。

 イザナギは新羅の昔氏ですが、イザナミは当時九州にいた金山彦(イスラエル系)の妹にあたります。

 ここで、左端を見ていただきましょう。神武天皇と卑弥呼=天照大御神とは腹違いの兄弟です。

 父神は列島大率姫氏ですが、白川伯王の娘神玉依姫との間に生まれたのが本物の神武天皇であり、同じく高木大神の叔母との間に生まれたのが天照なのです。

 これについては、以下をお読み下さい。兵庫県佐用町の佐用都比売神社には天照御祖社があり、千葉県の玉前神社には神武天皇の母神が祀られています。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

273

兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か?

新ひぼろぎ逍遥

610

神武天皇の母神は千葉県一ノ宮町に祀られている 

“百嶋神社考古学概論入門編 B”

609

天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている 

“百嶋神社考古学概論入門編 A”


 このことから天照は高木大神系であることが分かります。

 そして、正勝吾勝…=草部吉見=武甕槌もお妃との関係から高木大神系と分かるのです。

 では、「古事記」の記述を思い出してください。葦原中国は天照の子である正勝吾勝(後の藤原氏に繋がる)…が治めるべき土地でありと言う話は、高木大神+天照御大神+草部吉見(天照の子でないことは系譜を)等三悪人による国土の強奪でしかない事を意味しており、それを譲られたと描いているのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ここまで見てくると、出雲の国譲り神話とはタカミムスビ系(高木大神+草部吉見=阿蘇氏+事代主系)がカミムスビ系(博多の櫛田神社の大幡主系)+大山祇+大国主(親子)が開発した国土を完成後に奪うという要求だったことが分かるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 国譲りを強要された大国主命は、「主」という称号(尊称)を使っていることからも分かるように、大山祇が大幡主の妹である埴安姫=草野姫を妃としているという姻戚関係により、息子の大国主を大幡主系の後継者として養子として送り込み、白族とトルコ系匈奴という両民族の融和を図っているのです。

 本来は、大幡主を祀る博多の櫛田神社(旧県社)には天照もスサノウも祀ってあります。

 これは均衡外交と言えば言えそうですが、その背後には金山彦系(イスラエル系)とも強烈な姻戚関係を結んでいた事もお分かり頂ただけると思います。

 このように大幡主の妹埴安姫は、始めは金山彦との間に櫛稲田姫をもうけ、後に大山祇との間に大国主をもうけるという様に、政略結婚を繰り返しているのです。

 この関係が崩れたのはナガスネヒコと神武との衝突によって金山彦系と大幡主(カミムスビ)系との連携が切れ高木大神に狙われたのではないかというのが想像に過ぎますが現段階での想定です。

 何のことはない久留米の高良山から追放され彦山に移動したタカミムスビ系が阿蘇系を抱き込み、新たな脅威となり始めた熊襲=大山祗と強力な大国主軍団を排除する必要を感じたのではないかと考えています。

 何のことはない、結局は高木大神系が開発を完了した土地を強奪し、抵抗した建御名方の一族を追放しただけのことで、国譲りでもなんでもなく、添田町に残された諏訪神社は残党対策で一社のみゆるされたものでしかないのです。

 これは、旧朝倉郡で一社だけ田神社が村社として残され60社近いものが全て無各社に落とされた事と同じ構造にあるのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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