913 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(下)
20211004
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
去る21年9月19日 当会と北九州に本拠地を置く丁巳歴史塾は、筑豊は田川郡添田町の諏訪神社+東峰村(小石原)へのトレッキングを行いました。
これは、春先から福岡県朝倉市の甘木を中心とする旧朝倉郡+筑前町に於いてトレッキングを行っていますが、これは朝倉郡内60社の田神社(埴安彦or埴安彦+埴安姫…=博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神)が一社を除き無各社に落とされている事(「県神社市誌」下巻無各社一覧)、隣接する筑紫郡筑前町弥永の大己貴神社(その背景には同じ弥永の田神社に「日隅宮」(現地ではウヅノミヤと呼ぶ)が今も残されており、国土調査が行われるまで実際に同名の字まで残されていた事を知ったからでした。
日隅宮とは高木大神が葦原中つ国の国譲りに際し建て直してやるとしたものであり、本当の出雲とはこの旧朝倉郡一帯から、もしかしたら彦山北麓の田川郡〜行橋市の地だったのではないかとの感触を得たからでした。
その後、若き大国主命を幼名で祀る大己彦社(春日市商工会敷地の伯玄社)へのトレッキングを重ね、今回の添田町から旧小石原村へのトレッキングを行ったのはこの出雲の国譲りの発掘が命題だったのです。
これらについては先行ブログをお読み下さい。
ひぼろぎ逍遥
スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @
スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A
スポット 050 筑前町に「日隅宮」を発見した!
特に10年前からの懸案だった添田町中元寺の諏訪神社の旧仮名字体を残した由緒書には出雲などではなく筑豊の地にもかかわらず大国主命、少彦名命に従い国土開発を行ったと書かれているのです。
そしてこの一帯には九州では普通に見かける諏訪神社がこの一社を除き全く存在しないのです。
この事実はどう考えても彦山南北の一帯を、天照大御神(列島大率呉の大伯の後裔と高木大神の叔母の子)、正勝吾勝…草部吉見=ヒコヤイミミ(高木大神の次女タクハタチジヒメを妃とする)、勿論、高木大神はもとより、この三悪人等よって出雲の国譲り(他人が開発した土地を奪うのだから国ユスリであり犯罪行為に等しい)が発動され、彦山南北の48大行事社体制が成立したとしか言いようがないのです。

その一週間後のことでした。
大阪の内倉武久先生(元朝日新聞記者「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房他3著)から電話が掛かり、南島原まで行くのでそちらに行くとの事でした。
用件が済み、一日の余裕ができたことから、添田町の諏訪神社と小石原村の高木神社をご案内することになったのですが、偶然ながら夕方5時半でいたか6時でしたか高木神社にご案内し、参道階段を降り鳥居から西の境外地の写真を撮ろうとすると、正に参道線に沿って太陽が沈んで行く姿に遭遇したのでした。
実に感動的で、しかも二人揃ってこの事実を確認したのですから偶然とは恐ろしいもので、来年の今頃また同じ現象を見る事になるのです。

まさしく、上方落語風(この噺については桂春団治の「代書屋」)に表現すれば、秋の彼岸の中日の明けの日の夕暮れの話しですが、恐らくは西日を意識し、太陽の運行を知る人によってこの参道ラインが決定され、この現在の嘉麻峠へと向かう道路さえもが左右されているというのですから、千何百年という年月を経て継承されている時代の積み重ねを再認識したのでした。
来年と言わず春の彼岸の日にも同様の現象が認められるのであり、小石原村のご先祖様達の知恵と偉さと自然への畏怖の念を感じて頂きたいものです。
問題はご先祖様達のこの英知が今や忘れ去られているという今の日本の恥ずべき在り様なのです。
そこで、この手の話しに精通している伊藤まさ子女史に尋ねると、「依然調べた古代祭祀線の一本がそれに当たりそうですね」と早速の朗報を得たのでした。
これについての詳報は後に廻すとしても、概略は彦山の北谷を通り、宇佐神宮を見下ろす御許山を通り和歌山県の熊野本宮大社の本宮に届くと言うのです。

そこでさらに話を進めるのですが、ではこの祭祀線は一体どういう人々が創ったのだろう?という問題に突き当たるのです。
まず、高木神社だからといって彦山山岳修験の人々がこの参道を造ったとは思えません。
何故ならば彦山自体に背を向けているからであり、彦山が日子山であると主張するのであれば、朝日の方向なりに置きそうなものだからです。
従って、熊野本宮大社へと向かい、九州王朝の神宮であったはずの宇佐を通過する同社は、どう見ても彦山以前の旧朝倉郡(出雲の国譲り以前の)祭祀だったのではないかとの推定が浮かびあがってくるのでした。
この点は内倉武久先生も同意見であり、実に衝撃的な瞬間に遭遇したとの思いを深めているこの頃です。
そこまで行くと、やはり彦山修験が覆いかぶさってきた結果彦山南北を取り囲む48大行事社に支配される体制が出来上がったのではないかと考えるのです。
国土地理院の地図を見ると分かるのですが、この道路は何故か南北に交差しています。
勿論、道路には重層的にバイパスが加わってきます。従って、旧道そのものが春分、秋分の太陽の運行を意識した人々によって街並みさえも造られたのでしょうか?元々は自然地形に沿った自然の道があり、ある時代に古代のバイパスが造られ、それに沿って現在の道ができたのでしょうか?
無論、民陶の街並みは皿山という地区があり、それは現在の道の駅付近より山沿いに存在しています。
しかし、たまたまの偶然なのか郵便局前の道が東西線そのものであり、直行する道に沿って宿場もできているのですから、その頃まではこれが秋分、春分のラインにあるという意識があったはずで、これが現在、人々の意識からすっぽり消え失せている事そのものに、明治以降の山岳修験の人々の知恵が顧みられなかった、若しくは、その基層にある彦山以前の支配層の保持していた文化そのものの喪失が存在するのかは今となっては辿ることは不可能でしょう。
少なくとも、この小石原の地は筑紫郡、朝倉郡、豊後の日田から嘉麻、田川、行橋への越えねばならぬ交通の要衝であり、ここを制圧する事は権力者にとっては最重要事だったはずで、現在こそ高木神社=大行事社が制圧しているとはいえ、その基層にはその前の勢力が見え隠れしています。
それは、田神社+山神社に象徴される朝倉郡のカミムスビ系→大国主系勢力、それ以前には愛宕神社、秋葉権現に象徴される金山彦系の勢力までもが見えてくるのです。
私が小石原村に入り最初に意識したのは、鬼丸という窯元が複数存在する事でした。
神社、地名、人名の追求を続けていると多くの姓がどの民族、氏族と関係するかが見えてきます。
この鬼丸、鬼崎、鬼木、鬼山…といった地名、姓氏名は経験的に金山彦系であろうという事だけは分かりました。鬼丸瓦に象徴される瓦製造者にもこの姓を持つ方が多いのは不思議ではありません。この
この人々こそは、今は無各社に落とされている(「福岡県神社誌」下巻無各社一覧)秋葉権現、愛宕神社を奉斎していた人々のはずで、この小石原の地に住み着いた最も古い製鉄集団の末裔であり、その民需、民生転用としての陶器製造で生き延びてこられた人々であろうと最初のイメージが沸いたのでした。
恐らく、梶原窯も目につきますが、誤解を恐れずに言えばこの梶原の梶も鍛冶屋の梶なのです。
鬼丸窯、梶原窯だけでも小石原の相当の勢力であることは明らかで、それらのご先祖様達は、きっと鉄生産、刀剣生産に関わる人々だったはずなのです。
では、何故、この地が焼物の里になったのでしょうか?
それは半農半陶、半農半鍛冶の民は農事の閑忙期である冬場に仕事をします。
その時、北西からの風を強く得られる嘉麻峠から彦山脊梁の最頂上部に掛けて風を得られる様に窯口を北西に向けていたはずなのです。
では、そうする必要性を最も強く意識したのは如何なる勢力だったのでしょうか?
彦山山岳修験の人々はいつでも風を凝縮して得られる谷を持っていたはずです。
対して朝倉郡の人々は、馬見山から彦山へと東西に延びる脊梁によって風を遮られるため、どうしても風を求めて小石原に進出せざるを得なかったはずなのです。
これにはパルチザン戦に長けた彦山勢力との衝突を覚悟せざるを得なかったはずですが、それでも強い北西の風なくしては生きる糧を得られなかったはずなのです。
こうして鬼丸、梶原といった元々は製鉄、冶金の民が勇気をもってこの地で風を利用する業を技を磨いてきていたはずなのです。
これこそが民陶以前の小石原の姿であり、決して単なる小石原焼だけの里ではなかったと考えるのですが、ここまで考えだすと根拠の薄い思考の暴走に過ぎるかもしれません。
かくして小石原とは古代から中近世を通じて、生きてきたハイテク産業としての製鉄、冶金、瓦生産、陶器生産の村ならぬ町であり街であった事が見えてきたのです。
しかし、以前にも触れたような、小石原の推定山上湖のイメージだけは古代を現代に投影する水鏡に思えてくるのです。
この想定小石原湖から見える北方の下界を含めた風景は何とも優雅で美しく心を古代へと誘うのでした。
ここで、百嶋神社考古学の立場から登場してきた神々の概略をご紹介し本ブログを閉じることにします。

簡単に言えば彦山南北を制圧する出雲の国譲りとはカミムスビ+大国主命VSタカミムスビ+草部吉見+天照大御神三悪人との国土争奪戦であり、敗残した建御名方は泣く泣く諏訪、肥前、日向に逃亡したのでした。
ここまで高木大神がここまでの強硬手段をとった背景にはかつて高良山を奪われ逃げざるを得なかったという苦い経験があったからだと思うのですが、土地を奪われる人々は悔しくも、さらにみじめで残念だったと思うのです。
これを国譲りなどと平和裏に行われたかのような大嘘を書き連ねているのが偽書「古事記」なのです。