912 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(上)
20211004
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
去る21年9月19日 当会と北九州に本拠地を置く丁巳歴史塾は、筑豊は田川郡添田町の諏訪神社+東峰村(小石原)へのトレッキングを行いました。
これは、春先から福岡県朝倉市の甘木を中心とする旧朝倉郡+筑前町に於いて行ったトレッキングに追加するトレッキングだったのです。
先行のトレッキングは朝倉郡内60社の田神社(埴安彦or埴安彦+埴安姫…=博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神)が一社を除き無各社に落とされている事(「県神社市誌」下巻無各社一覧)、隣接する筑紫郡筑前町弥永の大己貴神社(その背景には同じ弥永の田神社に「日隅宮」(現地ではウヅノミヤと呼ぶ)が今も残されており、国土調査が行われるまで実際に同名の字まで残されていた事を知ったからでした。
日隅宮とは高木大神が葦原中つ国の国譲りに際し建て直してやるとしたものであり、本当の出雲とはこの旧朝倉郡一帯から、もしかしたら彦山北麓の田川郡〜行橋市の地だったのではないかとの感触を得たからでした。
その後、若き大国主命を幼名で祭る大己彦社(春日市商工会敷地の伯玄社)へのトレッキングを重ね、今回の添田町から旧小石原村へのトレッキングを行ったのはこの出雲の国譲りの真相(深層)の発掘が命題だったのです。
これらについては先行ブログをお読み下さい。
ひぼろぎ逍遥
スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @
スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A
スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した!
特に10年前からの懸案だった添田町中元寺の諏訪神社の旧仮名字体を残した由緒書には出雲などではなく筑豊の地にもかかわらず大国主命、少彦名命に従い国土開発を行ったと書かれているのです。
そしてこの一帯には九州では普通に見かける諏訪神社がこの一社を除き全く存在しないのです。
この事実はどう考えても彦山南北の一帯を、天照大御神(列島大率呉の大伯の後裔と高木大神の叔母の子)、正勝吾勝…草部吉見=ヒコヤイミミ(高木大神の次女タクハタチジヒメを妃とする)、勿論、高木大神はもとより、この三悪人等よって出雲の国譲り(他人が開発した土地を奪うのだから国ユスリであり犯罪行為に等しい)が発動され、彦山南北の48大行事社体制が成立したとしか言いようがないのです。

高木神社 カーナビ検索 福岡県東峰村小石原宮山
ともあれ、この延長上に今回のトレッキングが行われたのでした。
2021年9月19日(日) 建御名方を祀る諏訪神社から小石原の神々を探るトレッキング (案)
20210626
太宰府地名研究会 古川 清久
オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…
午前10:30に 道の駅 歓遊舎ひこさん に集合し、筑豊唯一の添田町の諏訪神社に向かいます。
2021年9月19日(日)10:30〜16:00
当日雨天の場合は数ケ月後に延期します(参加は要連絡)御杖代 古川 清久(太宰府地名研究会事務局)

集合:道の駅 歓遊舎ひこさんP( 福岡県添田町野田1113-1) お賽銭は各自ご用意下さい!
@ 諏訪神社 福岡県添田町中元寺1461 筑豊唯一の諏訪神社 最重要の一社! 昼食休憩 仮 案 道の駅となり バイキング・レストランが可能かも! A 高木神社(小石原)福岡県東峰村小石原 高木神社の基層に田神社があった B 秋葉社 (小石原)福岡県東峰村 ゞ 古層の神(金山彦+大山祗)を発見した! C TAO 福岡県東峰村 ゞ 日本と遠賀川源流が中国に奪われる! D 彦山中宮(希望で)福岡県添田町英彦山1240 モノレール稼働中かは不明! (予備) |
@ 諏訪神社 福岡県添田町中元寺1461 駐車場問題なし

良く知られた出雲の国譲りの舞台とは島根県の話ではなく朝倉郡から田川郡で起こったものであり、彦山の高木大神系が朝倉、田川郡一帯を奪い、彦山の南北の沃土に高木神社=48大行事社制を敷く為の争いだったのではと考えたのでした。
今回、三回シリーズで甘木〜春日の神社調査を経てその延長上に小石原村の神代を考えるのですが、前の二回のトレッキングをご存じない方には全く何のことだかお分かり頂けないであろう事は当然です.
詳しくは、二本のパワー・ポイント(計300シート)を見て頂けれ理解は進むと思うのですが、最も重要なポイントをお話しておこうと思います。きっかけはこうでした。
「福岡県神社誌」下巻の無格社一覧に依れば、旧朝倉郡には夥しい数の「田神社」なるものがある事に気付きました(実際にカウントすると60社に登り、草水地区の村社が一社だけあるものの残りが全て無格社となっている)。これは異常な事で、何らかの政変=支配構造の変化に依る物であろう事は明らかでした。
田神社の代表的なものは旧甘木市の甘木公園の中に置かれる金毘羅神社の参拝道階下の田神社が象徴的でしょう。

以下省略しますが、この夥しい数の田神社は国譲りの結果生じたのではないかと考えたのでした。
この田神社の祭神は埴安彦、埴安姫、埴安命…であり、博多の櫛田神社の大幡主とその妹などなのです。
この神こそ彦山のタカミムスビと並ぶカミムスビ神であり、天御中主命の甥、姪でもある神代のスターなのです。そして、西の筑前町には天の安川を思わせる夜須町があり夜須高原もあり、三輪山を思わせる三輪町まであるのです。天照が岩戸隠れをした時、八百万の神々が集い談合したのが天の安河あたりです。
その筑前町の東の端に大巳貴神社があり、大字弥永には今も田神社(天神社)があり、日隈(ヒスミノミヤ=現地ではウヅノミヤ)なる祠が残されているのです。
大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国でした。大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。
と申されました。こうして大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました。そして大国主大神様は永久にお鎮まりになって人々の幸福のために慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています。 出雲大社HP
@ 今年の春先から甘木一帯で延べ6〜7回(最近は皆が一度に集まれる日時を選定できないため)、当日参加できない方を対象に追加で30数名を案内いたしました。
これらは、大国主命を祀る筑前町弥永の大己貴神社が神功皇后が兵員を集めただけの神社ではなく、大国主の国譲りに関わる代替えの神社ではないかを考えるトレッキングだったのです。
A 次に春日市周辺に大国主命をその幼名オオナビコで祀る伯玄社と大国主命の協力者であったスクナヒコナノミコトが居たと考えられる須久岡本遺跡一帯を探索しました。これから彼らが元々は幼馴染みであったことが分かるのです。
B そして、今回の添田から小石原に掛けての神社トレッキングは、大国主命の国譲りとは、小石原も朝倉郡であり、甘木、朝倉、把木と同様に、本来は彦山系とは異なる旧朝倉郡の祭祀が在り、彼らとは異なる人々が住む地だったのではないか、そして、異なる神々を祀る人々が住んでいたのではないかというテーマで行うものであり、添田に関しては、田川郡〜行橋市に掛けて諏訪神社が極端に少ない事から、建御名方が国譲りに抵抗した地とは田川郡一帯だったのではないかと言うトンデモない仮説を検証するものなのです。
実は、この日隅宮が大巳貴神社の数百メートル下手にある田神社に小さな祠が残され、実際に国土調査が完了するまで(50年前まで)、ウヅノミヤという小字が存在していた事が法務局や県立図書館の資料で確認できたのでした。

筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)
@ 筑豊唯一の諏訪神社(添田町) カーナビ検索福岡県添田町中元寺1461
建御名方 (大国主御二男) とするが、百嶋神社考古学ではそれを認めない
多力雄命 実はスサノウ
片闇邊命 実は事代主命で重複ではないか?
蛭子命 事代主命であるも大国主御長男とされるが、これも百嶋神社考古学では認めない)。
由緒では「古事記」にも全く記述のない「彦山一帯の大国主による開拓という」事実を伝えています。
朝倉のトレッキングで日隅宮と60社もの無格社に落された田神社の解析から大国主命の国譲りの現場は旧朝倉郡だったのではないかとしましたが、これに連動し、筑豊でも大国主命の代理者として活動していたと思われる建御名方が追放されたのではないかと考えるところまで辿り着きました。それを裏付けるかのように筑豊一帯ではこの神社以外、諏訪神社が消えているのです。同社の御由緒書きは非常に立派で、それだけでも感銘します。
と、「古事記」にも全く記述のない「彦山一帯の大国主による開拓という」事実を記録しています。 |
A 小石原村大行事社(高木神社)

高木神社(小石原)福岡県東峰村小石原 高木神社の基層に田神社があった
※ 朝倉のトレッキングで確認した田ノ神外をご確認下さい

その他の境内社稲荷神社、志賀神社、須佐神社は書き留められているにも拘らず、田ノ神は消されているのです。そこで、無格社3社を確認する必要に迫られ確認してきました。愛宕神社です。

神社誌では秋葉神社と書かれていますが同一です。
「福岡県神社誌」でも小石原村で3社が無格社に落されていました。
神明宮は某高取焼宗家の屋敷神である上に、移入されている事から古層の神とは言えませんが、山上平野の搭ノ瀬地区には山の神と秋葉神社=金山彦が祀られていました。この事は、彦山大行事社が旧郡の朝倉郡まで進出した際に、地域の祭祀権を奪い取ったものと考えられます。
つまり、朝倉郡で田神社60社が無格社に落されている構造が、この小石原でも最も中心的な大行事社(高木神社)に於いて上記5柱が境内社扱いもされずにただ置かれていたのでした。
しかも、地名が中山であり、金山彦系集落に頻繁に見かける地名であることから(岡山の吉備の中山が最も著名です)、この地に定着し製鉄を行なっていた可能性を強く意識させます。
大山祗は朝倉郡でも山手の土地に数多く祀られていますが、ここ小石原も朝倉郡であり、その傾向の一例とは言えそうです。

特に興味を魅かれたのは金山彦祭祀です。
製鉄集団、鍛冶屋といった人々が、燃料と風を求めて山上の地を住処としていた事が読み取れます。
こうして、現場で失われた神々を蘇らせることができたことに感動をさえ呼び起こされます。
そこで、少し変わったアイデアが浮かびました。

この小丘から北を望むと意外と大きな平地が在る事に気付きました。元は浅い湖があったのでは?つまり、水中での水平堆積と池の決壊、若しくは切り込みによる平地の造成こそこの地の国造だったのです。
どおでも良い話ではあるのですが、小石原村の道の駅辺りから中国による国土買収(遠賀川源流の土地買収)の可能性のあるTAOから嘉麻峠の方面に走ると、意外と平地が広がりあたかも山上平地(高天原)から水田が広がっている事に気付きます。
十和田湖が奥入瀬渓谷に水が落ちている事は皆さん良くご存じでしょうが、この小石原の推定山上湖からも小石原川(搭ノ瀬渓谷)が落ちており、元々オーバー・フロー(若しくは伏流水路)する小河川が存在していた可能性もあるのですが(それが小石原の語源かも)、何時しか水田稲作が重要になると(例えば彦山の穀倉)湖を切落し、多くの平地が造りだされたのではないかとも思うのです。
このイメージは、元々、地形と搭ノ瀬地名だけで書いただけですのでその範囲で理解して下さい。
地名を見ると水田稲作地帯に見える場所に奥畑があり、稗畑(ここも水田に替わっていますね)がある一方、奥畑の東には原(ハル)という開墾地地名=ハル、ハリ、パル、パリが拾えるため、元々、蹴破りが起こる前は畑作地帯でしかなかったはずなのです。アイヌ語でトウは湖を意味します(「遠野物語」)。
これらは地名と地形からだけのアイデアでしかないのですが、ロマンチックなイメージだけは膨らみます。蹴破りの主要な地点は、赤丸の地でしょうが、何か所か切られているかも知れません。
913 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(下)に