899 彦山西方の神々を考える個別編 D “小石原村で消された三つの無格社”
20210623
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
893 彦山西方の神々を考える個別編 B “福岡県旧小石原村の無格社3社”でこの事に触れています。
今回は、これらの現地リポートです。
「神社誌」によれば旧小石原村3社の無格社が搭載されています。
「福岡県神社誌」(下巻)無格社一覧405p塔載
搭の瀬の 山の神の 大山祗神社(大山祗神) 田の神と併せ鹿児島の「タノカンサー」犠身体へ
搭の瀬の 中山の 秋葉神社(軻遇突智) 火の神 金山彦 を意味し鬼塚、鬼丸と対応する
鼓 釜床の 神明宮(天照皇天神) 高木大神の叔母と呉太白後裔の間に産まれたのが天照
山の神(大山祗)様は高木大神の息子のニニギが求婚した美女コノハナノサクヤの親神として良く知られていますが、ニニギの義理の父神でもある事から彦山大行事社側としても排除はし難かったのではないかという印象を持っています。
この点、朝倉市北側の飯塚市、嘉麻市などにも多くの大山祗神社があるのが目立ちます。
秋葉神社と言ってもご存じない方が多いと思いますが、軻遇突智(カグツチ)とくれば製鉄神の金山彦だと理解できると思います。当然、製鉄が行われる場所は燃料が豊富で(木炭が重用ですが)谷地の風が得られる(できれば北西方向に谷が広がる方が冬場の製鉄にはベストでその点、東峰村は逆ですが)立地がベストなのです。
彼らの蹈鞴場が廃業を余儀なくされた場合、瓦生産、焼物(陶磁器)生産に向かうのは自然な成り行きで、こういった例には個人的にも何度も遭遇しています。
鞴に通じる福井、伊福、鬼塚など鬼○…も、敢て説明するべくもなく多々良姓、兼川、金山、芋川、妹川などと言う姓は製鉄神、カグツチの末裔である可能性が極めて高いのであり、製鉄炉、製鉄技術の再利用、延長上の民生品製造こそが瓦生産、陶磁器生産だったのです。
ただ、木炭生産は元々製鉄とは並行して存在していましたので同一には扱えないでしょう。
従って、小石原、小鹿田、高取焼の関係者にもこの古代蹈鞴製鉄関係者が多かったと考える価値はあるのです(実際には半数は移入でしょうが)。
最後の蹈鞴製鉄は戦後まで残るのですが、その後目まぐるしく推移したエネルギー転換によって、風呂は、薪(五右衛門)風呂から石炭風呂さらにガス風呂、プロパン風呂を経て現在の給湯スタイルへと変化します。
この流れの中、炭焼き生産が終了し、今尚、今後も続発し多くの被害を齎し続けている林野庁による人工林の乱発の時代と並行し、いまや命脈が断たれんとする民陶ブームが起こった事を思い出して頂きたいのです。
この蹈鞴製鉄従事者は北部九州から中国地方の山岳地帯に分布していますが、見た所二系統があるようです。
一つは半島新羅の金武官伽耶辺りから大邱(テグ)に展開し、列島に入って来た韓鍛冶(カラカヌチ)と、もう一つはイスラエル系とも言われ秦の始皇帝ともその同族性から姻戚関係を結んだ金山彦系(吉備の中山が有名)の製鉄神と二系統があったはずなのです。
これをこの地に発見し(まだ実踏していませんが)やはりと思ったのでした。
実は私の後輩に中山君がおり、現在もかなりの歴史を持つ中堅大手の鉄鋼所を経営しています。また、かつて、地名研究会のメンバーでもあった伊福さんがおられ、現在も平戸市で鉄鋼所をやっておられるのです。
これに加え芋川氏も伊福氏と同じく出身地から、蹈鞴製鉄が盛んに行われていた浮羽(ウキハ…これも吹羽かも知れない)だったのです。
その意味では、中山峠が搭の元近くに在り、小石原中心部の皿山にも中山地名がある事は、製鉄神に象徴される同地の人々がが陶磁器生産に乗り出したと推定する事も可能になるのです。
このうち神明宮 天照皇天神 は鼓地区の川沿いにある高取焼宗家を名乗る某窯元の敷地内に在るいわば屋敷神と言うべきものでした。
同窯元は、筑豊の福智町など幾つかの地を亘りこの地に入っておられるため、小石原村の古層の神を探るプロジェクトに関して言えば、一応、対象外となるもののようです。
ここで、対照は大山祗神と火の神 金山彦の2社に絞られました。
小さな村とは言え、土地勘のないものがむやみに走り回っても成果が得られないのは明らかで、そのうち一つづつ時間を掛けて調べようとしていたら、サポーターの女性メンバーから朗報が入って来ました。
全て見当が着いたのです。
搭の瀬の 山の神の 大山祗神社(大山祗神)
早速、搭ノ瀬の大山祗神社から始めました。名は伏せさせていただきますが、こちらも名の通った窯元で、その実家の近くにある渓谷沿いの一角に、付近の十戸足らずの小集落のお堂が建てられており、その中に仏様、観音様など(観音様も菩薩様ですからこの表現は少しおかしいかも知れませんが…)と一緒に祀られていたのでした。
とても自分では見つけられない場所でしたがご親切にも某窯元のご主人が4キロほどの道をご案内して頂きました。洪水の水が入っているし、一年に一度のお祭りもままならないですがとのお話でした。
その御堂が在る渓谷には目を疑う様な巨大な砂防ダムが造られていました。
当然にも満杯で(周りが杉の人工林ですから、土壌どころか山体崩壊状態で数年と持たずたちどころ埋まってしまうのです)、その巨大な石山の傍に小さな祠が残されていたのでした。


現在、この祠を祀っているのは4軒ほどで、実質的には3戸しか人が住んでいない…とたまたま梅干しを作る準備をされていたご婦人から30分ほどお話をお聞かせいただきました。
さまざまなお話を拾いましたが、特に興味深い話は「高木神社のお祭りがある時はこの搭ノ瀬の集落が最前列に座る事になっていた」という話でした。
ここで、大山祗が高木大神=タカミムスビに対してどのような関係にあるかを再度考えておきましょう。
そもそも小石原村は彦山大行事社=高木神社が卓越する土地であると信じて疑わないのですが、もともとこの地は朝倉郡であり、本来は、これまでにも何度となく書いてきたように田神社+山神社=田神+山神(大幡主+大山祗)の総じて博多の櫛田神社の大幡主のエリアなのです。
そこで、百嶋由一郎最終神代系譜で神齢を比べると、二年ほど大山祗が年嵩だったのです。
まあ、こういった話は想像の域をでないためこれまでとします。
搭の瀬の 中山の 秋葉神社(軻遇突智)
次に向かったのは秋葉神社でした。
これは村営住宅4棟8戸があるだけでしたが、古くはありますが、綺麗に清掃、草刈りが行われた広い敷地に十分な間隔で建てられていたのでした。 大字小石原1007番地3
カーナビで行くにも地番が必要で、大体の見当だけで何とか辿り着きましたが、その裏山にその祠があると言うのです。これまた見当を付けて、数百メートル走ると、確かに小丘陵が在りそれらしき祠を確認したのです。
ただ、その車道も草を分けて入らざるを得ず、高齢化によって草祓いもままならなくなっているのでしょう。今度、訪れる時には、せめて箒持参で行こうかとも思った次第でした。



この小丘から北を望むと意外と大きな平地が在る事に気付きました。元は浅い湖があったのでは?つまり、水中での水平堆積と池の決壊、若しくは切り込みによる平地の造成こそこの地の国造だったのです。
どおでも良い話ではあるのですが、小石原村の道の駅辺りから中国による国土買収(遠賀川源流の土地買収)の可能性のあるTAOから嘉麻峠の方面に走ると、意外と平地が広がりあたかも山上平地(高天原)から水田が広がっている事に気付きます。

都合、五本のブログを書きましたが、薄い話を拡げるだけ広げ、深堀りするだけ掘り込みましたが、これらのブログで探った結論を纏めて終わりとさせて頂きます。
@ 朝倉郡は、元々、大山祗(大国主命はその子となる)+大幡主=カミムスビの支配領域であり、その地を奪われた事が出雲の国譲りであった。旧小石原村も旧朝倉郡としての高木神社(大行事社)の古層にそれを探していました。
A その痕跡を最初に確認できたのが小石原の高木神社だった。以下を参照のこと。
892 彦山西方の神々を考える個別編 A “福岡県旧小石原村中心部の高木神社(大行事社)”
図らずも、同社参拝殿への参道脇に田の神(カミムスビ)の神、山の神(大山)、水の神(大山祗の長女ミズハノメか)…以下 これらは朝倉郡に於ける大国主の命の国譲りの結果 高木大神=タカミムスビが小石原にも進出し、これらの神々が隠され、小石原の人々は本来の神々を失ってしまった事が見えてくるのです。
B そこに搭ノ瀬の 秋葉社(金山彦)、山の神(大山祗)が生きていた事を確認出来たことは、宮山の大行事に続き基層の神々を確認した事になったのであり、複数の事例でこの事実の回収ができたことになるのです。
C 一方、彦山北部丘陵一帯に諏訪神社が添田の一社を除き存在しない事も大国主命追放と連動しているのです。
この出雲の国譲りの現場が旧朝倉郡であったのではないかという誰も気づいていない(百嶋先生はご存じだったかも)については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した!など数本のブログを参照して下さい。
大国主命は決して現出雲の人などではないのです。
簡単に言えば、古代日向を起源とする大山祗から博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビへと送り込まれた入婿であり、彼こそが九州王朝を金山彦に引き継ぎ支えたのでした。
ただ、カミムスビとタカミムスビとの確執が始まったのです。
それは、彦山を拠点にした高木大神+草部吉見=マサカツアカツ+天照大御神=卑弥呼の三悪人どもが南の朝倉郡と北の筑豊一帯を安定化させる(事実上支配する)目的で48大行事社=高木神社が配置され制圧されたのでした。恐らくこれこそが建御名方が諏訪に逃れ、大半が南九州(南方神社)主要には肥前に逃げた理由なのです。つまり、カミムスビVSタカミムスビ代理戦争が起こった結果、大国主命が移動せざるを得なかったのが現出雲だったのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
大国主の国譲りとは彦山の高木大神+天照大御神+草部吉見=ヒコヤイミミ=正勝吾勝ら三悪人が彦山を安定化するために彦山の南北を平定する話だったのです、赤組VS青組の代理戦争が国譲りなのです
追記
小石原村は把木から山上平野に通じる鼓の渓谷沿いの谷あいの集落と同じく朝倉から山上へと繋がる急峻な谷あい集落からなる狭隘な地域です。
一帯の神社群を見ると、旧郡の朝倉郡と彦山との境界領域であり、カミムスビ系とタカミムスビ系との緊張感の張りつめた領域だったはずです。
ところが、現在の朝倉郡を見ると、カミムスビ系の領域にも彦山系の山岳修験がかなり侵入している事に気付くのです。
つまり、彦山山岳修験の勢力と大山祗+大幡主=カミムスビ系との鬩ぎ合いが色濃く映し出される緊迫した土地であった事が分かるのです。
大山祗+大幡主=カミムスビ系連合は大山祗から大幡主への入婿として大国主命が送り込まれ、宗像の市杵島姫と豊玉姫を妃とする事で強固な姻戚関係が完成します。
結局、熊襲系と彦山山岳修験の勢力との衝突が約束されていた訳で、突然、山伝いに出現するパルチザン部隊=山岳先頭集団は、極めて機敏に動き、馬を駆使し平野を支配した熊襲+海人族(カミムスビ)勢力も絶えざる山からの圧力には容易には防御できなかったのではないかと思うのです。
ともあれ、小石原村は人が住むには狭い領域であることには間違いがなく、神社の数は数えるばかりでした。
ただ、稲荷社、役(疫)小角の神仏混交社もあり(添田)、まだ見るべきところはあるのですが、隣の宝珠山村と小石原村が合併し成立した東峰村と言う村名自体からして彦山勢力に著しく占領されており、末端まで高木神社=大行事社のネットワークが及んでいる事に戦慄を禁じ得ないのです。
これらの延長上に旧宝珠山村の領域まで神社調査を拡げなければ、古代の扉は開けないと思うのですが、とりあえずは、他のテーマもある事から一旦はここで作業を終わりたいと思います。
朝倉郡の問題については 「出雲の国譲り」は旧朝倉郡で起こった! として講演もしており、希望される方にはパワー・ポイントを提供することもできます。これらと併せ考えなければ、小石原の古代は理解できないと考えています。