2022年07月18日

898 伊藤まさ子万葉集勉強会(西原村)@ “西原村への途上にある白川沿いの日吉神社と甑神社”

898 伊藤まさ子万葉集勉強会(西原村)@ “西原村への途上にある白川沿いの日吉神社と甑神社”

20210611

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


太宰府地名研究会は、現在、月例の神社トレッキングを継続する中、北九州市の小倉で行われている丁巳歴史塾への講師を派遣し、月例講演を継続しています。

 また、九州○代史の会の主筆であった内倉武久氏は昨年3月で正式に離脱し、当方の考古学関係顧問として、また年に二回程度の講演を行われています。

 そうした中、当会のエースである伊藤まさ子女史が4年ほど前から阿蘇の西原村で行われてきた万葉集〜古代史を読み解く勉強会が軌道に乗って来ました。

 今のところ5月から9月までの実施に留まっていますが、この勉強会の内容はユーチューブ上に公開されています。

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額田王の万葉秀歌から読める 古代史 2021 歴史カフェ阿蘇 20210513 万葉集を読む会・伊藤まさ子


 対して、百嶋由一郎神社考古学の勉強会を伊藤女史の歴史カフェのオフ・シーズンに始められないかと思ってきましたが、どうやら阿蘇神社が鎮座する阿蘇市の宮地で自然発生的な勉強会が始まってしまいました。

 こちらは不定期ながらなんとか月例会化ができるのではないかと思っており、そのうちメンバーも増えてくるのではないかと考えています。こちらは、現在、56人で始まっていますが、そのうち2桁に増やす事は十分に可能と考えており、この会ももう一つの軸にできるのではないでしょうか。

 どちらにしてもコロナ下でほとんどの史談会、地名研究会、郷土史会といったものが一年から二年目へと活動を中断する中、当会だけは、北九州のでの講演会と北部九州でのトレッキングを継続しているのです。

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6月は、梅雨を嫌ってトレッキングを休止しましたが、意外と天候に恵まれ、小規模トレッキングを連発し反って増加してしまう事になっています。と、近況をお知らせする中、西原村への道すがら参拝した2社について書き留めておこうと思い立ちました。

 これは、勉強会への行き掛けの駄賃程度の感覚で気楽に読んで頂ければと思っています。

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無題.png白川沿いの西原村、大津町にはご覧のような神社が数多く分布しており、現在半分ぐらいを少しづつ訪問しています。

このため今回取り上げた2社に特別な関係とか意味があると言う訳ではありません。

特徴があろうがなかろうが可能な限りファクトを増やし、フィールド・ワークの量から質を上げる事を目的に作業を行っているという事をご紹介したまでです。

出来るだけルートを替え、今回の場合は西原村万葉集勉強会へのルートでたまたま未踏の神社を見ただけの事だったのです。

 例のごとく、「熊本県神社誌」は記述が薄く、祭神を調べるには不向きです。

 このためこの神社を建てた氏族、背景、情念…といったものを探れず困っています。

 ネット情報から解析を試みますが、辺鄙な所に在る神社だけに今回は希望が持てません。

 ただ、日吉神社については教育委員会による由緒書きの中に系統が全く異なるヤゴローを見出し、無視はできないと考えたのでした。

 一方の、甑 神社という名称の神社は類例がほぼなく、地名としては阿蘇高森町が豊後の竹田市の祖母山西麓に甑岳がある事からこれかとも思うのですが、日吉の主神大山咋神の父神が高森の草部吉見=ヒコヤイミミだけに対応している様にも思うのです。鹿児島県の甑島にも鹿島神社が在り、草部吉見=武甕槌=ヒコヤイミミは市杵島姫を妃として、短期間、甑島、加世田周辺にもいた事を故)百嶋由一郎から聴いており、それなりの関心を持つのです。

 ともあれ、日吉神社の「中島の守り」をお読み頂きましょう。

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無題.pngこの集落の成立については良く分かりましたが、現地で拾える情報としては、神殿上部の左右に雷神が置かれている事がかなり重用でしょう。

 この雷さんは肥後では良く見かけるものです。菊池市七城町の岡田別雷神社が代表的ですが、祭神の大山咋神の子が神武僭称贈る崇神であり、俵屋宗達の風神雷神屏風絵の風神(上賀茂)が草部吉見であり雷神が贈る崇神を意味しているのです。

この事が、阿蘇国造神社の手前に風の宮が置かれている理由でもあるのです。当然、阿蘇系本流の氏族の様にも思えるのですが、するとヤゴロー=「矢五郎さん」との整合性が全く取れないのです。

 現在は白川左岸にあるものの、本来、菊池、合志の人々だったとすると、「矢五郎」は相応しいのです。以前以下を書きました。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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熊本県人吉市矢黒町の矢黒神社は ヤゴローどん が祀られているのではないか?


朝から乙千屋の天子宮の境内社に推定ヤゴローどん を確認し、次に向かったのは人吉盆地でした(これについては、前ブログ ひぼろぎ逍遥309 熊本県芦北町乙千屋の天子宮の境内社に鹿児島、宮崎のヤゴローどん が! を参照して下さい)。

小雨模様の調査行ですが、いつもながら人吉盆地は山上の別天地といった雰囲気を持っていて、それに格安温泉の宝庫というのですから、それだけでも心が沸き立ってきます。

この人吉盆地の入口に近い川向う(勿論球磨川ですが)の地区に矢黒町があります。

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この聞きなれない名の神社が鹿児島、宮崎の「ヤゴローどん祭」の主役のヤゴローどんを祀るものとする確たる根拠はありません。

 しかし、「ヤグ」、「ヤグロ」が「ヤゴローどん」の名を留めている可能姓は十分にあるでしょう。


野々矢具神社 熊本県合志市西合志町野々島4862  火火出見尊外二柱

矢具神社   熊本県田浦町3049         火火出見尊 豊玉姫命

矢具神社   熊本県田浦町波多浦24       火火出見尊 豊玉姫命

矢黒神社   熊本県人吉市矢黒町1765      伊瀬以下33(伊勢外宮の豊受大神の夫)

「熊本県神社誌」による

故)百嶋由一郎先生は、このヤゴローどんを南下したニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦(新潟県弥彦神社の祭神でもある)とされていました。

 通説では山幸彦が彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト)とされていることは異論のないところでしょうが、 “神武天皇の祖父で 瓊瓊杵尊と木花開耶姫命の三男…木花開耶姫命が疑いを晴らすために産屋に火をかけて、その火の中で生んだ子の一人”などというのは藤原が捏造した大嘘であることは何度となくお話して来た「古事記」のインチキ神話の一部です。

 今のところ、「矢具」、「矢黒」が「ヤゴロー」と音通し対応している事から、そう考えるのですが、祭神もヒコホホデミとあり(矢黒神社については伊瀬以下33社とあり、詳しくは宮司にお尋ねするしかないでしょう)、百嶋先生が言われていたニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦に対応するのです。

 これまでも何度か書いていますが、九州(大分県北部の瀬戸内海側沿いを除く)では、標準語のO音がU音と入れ替わる場合が数多く認められます。

 「今日は大事(オオゴト)をしでかした」→(ウーゴト)、栂(トガ)→栂(ツガ)、ホウヅキ→フウヅキ、遊び呆(ホウ)ける→呆(フウ)ける…

 当然にも、ヤゴローはヤグロ、ヤグロウに置き換わっている事が自然に理解できます。

 と言うよりも、それこそが原型であり、古代には九州の言葉が標準語だったのであり、「ヤゴローどん」と呼んでいるのは、隼人を制圧した近畿大和の方言を話していた田舎者が、「ヤゴロー」と呼んだだけなのです。

 今のところ作業としてはここまでですが、宮崎、鹿児島限定と思われている“ヤゴローどん”の奉斎(祭)圏がかなり広がっている事が見えて来たところです。

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菊池〜山鹿〜玉名の人々は阿蘇の人々とは民族も、氏族も異なるもので、当然、奉斎する神々も異なるのです。「熊本県神社誌」は大山咋外6神とやってしまうためそれ以前の世界が消えてしまうのです。

 しかし、阿蘇系が南北朝期に覆い被さっており、そのベールを剥がさない限り、本当の神々が現れないのです。結果どうなるかと言うとこの住民は先祖とは全く無関係の阿蘇の神を祀らされているのです。

その点、「矢五郎さん」はここにもあったかと再認識したのでした。

 この矢五郎は「火火出見尊」=山幸彦=ニギハヤヒ=鹿児島の矢五郎どんでも、肥後の方に分かり易く言えば、何万基あるかも分からない猿田彦でもあるのです(山鹿の大宮神社にはそれこそ1社で50基はあるのです)。ここも阿蘇12神など無関係なのです。これについては大宮神社と猿田彦を探ってください。

 では、甑神社に移りましょう。

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真新しい鳥居にここも熊本地震の被害を受けたのだなと分かりましたが、旧神額と鳥居の一部が残されていました。

 阿蘇12神は良いとして、これも南北朝期以来のオーバー・コートなのですから、重要なのはこの神社の主神の岩坂大神と言うのが分からなければ意味がありません。

 ただ、経験的に、岩が付されるのは金山彦系の製鉄神である場合が多く、恐らく別名のイワサクネサクの神=磐裂神、根裂神とは、金山彦とお妃の埴安姫ではないかと思われます。

『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記される。

『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。

『日本書紀』同段の第六の一書も同様である。第七の一書では磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。

ウィキペディア 20210612 14:19 による


そこで、参拝殿の解説文を読むと、豊後の大友氏の末裔と思われる江藤氏はこの神社を建立した一族のようなのです。

 つまり、磐裂とは岩の裂け目から何がしかの金属を取り出し、溶鉱炉で溶かし金属を採っていた人々であり岩坂とは磐裂の置換え文字だったのです。彼らは剣唐花紋を使うのですね。

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実際、大伴氏は金山彦系氏族と呼ばれており、菅原道真の母もこの一族の本家の流れを汲む「伴の女」とされているのです。

 ちなみに、父方は、博多の櫛田神社の大幡主の一族の後裔の豊玉彦=ヤタガラスの本家だったのです。

 つまり、本家同志の婚姻関係の結果生まれたのが菅公だったのです。

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付近にある西原村の鳥子阿蘇三宮神社も同じですが、製鉄集団がこの一帯に居たことは間違いがないようです。

それは冬場に白川に沿って西風が安定して入る事と、白川にも阿蘇山起源の大量の砂鉄が川底に堆積していたからなのです。

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002百嶋系図(極秘)003込 部分


この武夷鳥の一族こそ道真の母方の本家なのです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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