2022年07月15日

897 百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地) B “彼女らは何故宗像の刺來(サシタリ)神社に行くのか”

897 百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地) B “彼女らは何故宗像の刺來(サシタリ)神社に行くのか”

20210608

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前ブログ 895 百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地) @ “肥後の宮地嶽神社から福津の宮地岳の古宮へ”でご紹介していますが、自然発生的に始まった百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地)の翌日、早朝から出立した神社トレッキングも10社以上を巡り、それでもパワフルな女性2人は福岡県福津市の宮地嶽神社の古宮が置かれた宮地岳山頂に登ったのです。

 私はここ二週間足を挫いて完治していないためと言うのは口実で、そんな体力もないためこれ幸いと日陰で百嶋由一郎氏の神代系譜を見て休んでいたのでした。

 どうせ2時間は掛かるだろうと高を括っていたら、1時間ほどで降りてくるのですから若さとは有難くも羨ましいものです。

 ともあれ、彼女達も暫くは一休みし、当然帰るのかと思ったら、次に宗像大社の川向うのほとんど誰も知らない指來(サシタリ)神社に行くと言いだしたのです。

 実に活動的この上ない訳ではあるのですが、どうやら熊本に縁のあるお二人だけに、どうしても宗像大社の正面に何故武磐龍を祀る神社を確認したいと言う思いが消せなかったのでしょう。

正しく情念ですね。私は相当疲れていましたが、丘の上の社殿までは登る事にしました。

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指來神社 カーナビ検索福岡県宗像市多禮589


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

865

宗像の神々 A 福岡県宗像市多禮の指來神社とは何か

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指來神社の祭神を見た時、神功皇后と阿蘇津彦、大巳貴命、タカオカミ、少彦名命(スクナヒコナミコト)、ミズハノメ、豊日別…と系統だって見るとバラバラで親子関係もなく時代も考えられていない…といった印象を受けました。

神功皇后の副官として健磐龍が随行したなどありえない話で、もし、あったとしても同時代の神武僭称贈る崇神=ツヌガノアラシト(タケイワタツの孫)でなら理解できるのです。

また、タカオカミは後の藤原が自らの格上げのために第2代綏靖天皇とした本当の初代神武(カムヤマトイワレ…)の子でも何でもない阿蘇の12神の12番目金凝彦(カナコリヒコ)=蘇民将来巨旦将来伝承の巨旦=高龗=神沼河耳命(​カンヌナカワミミノミコト)であり、これは多禮地区の伝承也願望が反映されたものと考えるべきでしょう。

このため、名の通った健磐龍などを神功皇后に随行したなどと言った話に仕立てている様に見えます。

そもそも、「多禮」地区の「多禮」という地名は多氏=阿蘇氏=宇治氏を意味し藤原が造った宇治平等院の宇治も含めて阿蘇氏の別名なのです。

さらに切り込めば、禮(礼)の「禮」は黎族(雲南省麗江にいた阿蘇氏の祖先)の「黎」の置換えであることが分かるのです。

対して、博多の櫛田神社の大幡主〜八代の妙見宮の天御中主など白族系の人々も雲南省、昆明、雲南省の大里から入ってきているのです。

この2族は最後まで漢族、鮮卑族などと闘い続け列島に入り日本人を形成する主要民族となっているのです。

これについても過去何度も書いてきた事ですので改めては申し上げませんが、関心をお持ちの方は以下

 初期ひぼろぎ逍遥の10本からその後の10本ほどをお読み下さい。

42

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

41

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? H “阿蘇から筑後に移動した阿蘇氏”

40

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  G “阿蘇ご一家神代系図”

39

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? F  “八井さんを探して下さい”

38

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? E  国造神社と風宮神社

37

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  D  “草壁吉見神社の参拝客急増”

36

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  C  “龍田の神を立野に祀る!”

35

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  B   神代系譜

34

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? A  立田阿蘇三宮神社

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


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002百嶋系図(極秘)003込 部分


 この開化天皇のお妃、皇宮皇后(コウクウコウグウ)こそ仲哀死後の神功皇后なのです、この随行者に阿蘇津彦がいて健磐龍の事だとしているのは、神武僭称贈る崇神の子の豊城入彦と八女ツ姫の間に産まれた阿蘇を健(タケシ)と誤って磐龍の事と理解いされているのであろうと思います。崇神の孫です。

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百嶋由一郎006橘系譜(八女ツ姫@)部分


それならば、神功皇后+開化天皇の新羅進攻に加われたはずですし、贈る崇神(ツヌガノアラシト)自体が敦賀に来た阿羅伽耶の人(勿論、渡来人ですが)という意味で、半島の地理にも詳しかったのです。

贈る崇神は四道将軍派遣で知られますが、これと関連する部分がありますので「常陸国ふしぎ探検隊」に関連する記述があります。彼らとは現在袂を分かっていますが、崇徳のセオハヤミになるか、永遠の別れになるかは不明です。我々も徐々に勢力を拡大していますので、どちらでも構いませんが、百嶋研究の発展には必要な事かも知れません。

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60.佐伯神社探検記(茨城県常陸大宮市野口)


今回は地元常陸大宮市(旧御前山村)野口西塙に鎮座する佐伯神社です。

水戸からR123号を約20km北上し、道の駅かつら、とセブンイレブンを過ぎるとすぐに那珂川に御前山(ごぜんやま)大橋があります。橋を渡ると十字路になっていて、前方右角に御前山饅頭のお店があ

りますが、わき目もふらず道なりに旧緒川村方向に北上すると、右手に御前山ラーメンのお店もありま

す。ここは麺屋さんなので、お店では飲食することはできません。したがってここも通過し、登り坂を大きく右カーブしながら上って行くと信号があり、左折して少し狭い道を入って行くとすぐに神社があります。

御前山は、称徳天皇(元の孝謙天皇)と弓削道鏡が隠れ住んだという伝承があるところです。

一の鳥居は、十字路を左折し宇都宮方面に進むと直ぐ右側にあり、那珂川を向いて立っています。

祭神は天忍日命。配祀として道臣命、健日命。境内社は素鵞(スサノヲ)、稲荷(ウカノミタマ)、立木、富士(コノハナサクヤヒメ)、天満(菅原道真)、山(大山咋)、大桑(面足根命)、山倉(加志古根命)の各神社。讃岐の僧、玄海が大同元年三月、稲背入彦命を鎮祭したのが起源で、明治29年に現在の祭神に変更したようです。讃岐の僧、玄海は佐伯氏なので佐伯神社という名前にしたのでしょうか。…

明治29年に天忍日命、道臣命、健日命を祀るようになったということですから、われわれが検討する

に値するのは、当初祭神とされた稲背入彦となります。

明治の国家神道政策によって改変させられた祭神についての考察は無駄な労力というものです。

天忍日命は高木系𣑥幡千々姫に婿入りした多氏、草部吉見(海幸彦)の御子ですから、明治の神祇官は高木系の力が強かったと推測されます。これは、大化の改新以降連綿と続いている藤原氏と呼ばれる正統皇統転覆の流れに合致することで、藤原氏とは高木系と海幸、山幸系を祖神としてしまった勢力であることの証左の一つであると考えています。さて、百嶋系図では稲背入彦は豊城入彦の別名とされています。

豊城入彦は百嶋系図でも記紀でも、ミマキ入彦(贈崇神=ツヌガアラシト)と荒河戸畔の娘の遠津年魚

眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)の御子になっています。

東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされていますから、現在の群馬県や栃木県には深く関係しているようです。伝説の四道将軍の原型にもなっているようです。…

無題.png 古樹紀之房間(こききのへや)さんは宝賀寿男氏の主宰する「古代氏族研究会」の公認HPですが、基本的に記紀や同様の古文書をもとに研究しているため、個人的には限界を感じます。われわれのように古代史を学問としてではなく、現在の国家のシステムに疑問をいだく、言ってみれば知的レジスタンスにとっては、古文書を一言一句研究する時間はありませんから、学術研究者の方の分析を都合よく流用させていただいています。ただしそれは無闇に同意するものではなく、百嶋系図を基本とした直観が大きく作用しています。整合性の判断は、公平性にあります。したがって、上記引用のように、蝦夷地の捕虜がどうのと言う内容は史実ではないと判断するのです。

古樹紀之房間(こききのへや)さんからの引用では、この部分を「カッコヨク」表現しています。こういう記述法からわれわれは「ウソ」であろうと判断するのです。後にはいやらしい権力が隠れているように見えてしまうのです。記紀や同様な古文書を古代史研究のバイブルとしてしまうことは、その時点で、藤原氏の手の内にあるということです。つまり現在の日本の、裏天皇を頂点とする支配システムの秘密を解き明かすことはできないのです。さて、佐伯氏に戻ります。

百嶋系図をもとにわれわれが佐伯氏を分析すれば、ナオミ姫(開化天皇と国堅姫の御子)と阿蘇建(豊城入彦と八女津姫の御子)の子、阿良津命が祖になります。本貫は播磨国姫路の白国神社であり、ここから、日本書紀の記述を参考にし播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に分かれて行ったとします。

ほかには越中(富山)立山の雄山神社にも佐伯氏の痕跡があります。

つまり佐伯氏は決して常陸国風土記の「野蛮な原住民」などではなく、ナオミ姫から女系の先祖を遡れば、国堅姫-五十鈴姫-活玉依姫-鴨玉依姫-雷古要姫(クシナダ姫)-埴安姫につながっています。

白川伯王家の女性が先祖となり、祭祀族としてのミトコンドリアDNAを保有していることになります。

したがって佐伯の租、阿良津命には絶対と言っていいほどの確率で姉か妹がいるはずです。

現時点ではそれが誰なのかは不明です。

白国神社の主祭神は木花開耶姫です。つまり佐伯氏は木花開耶姫にお仕えしていた氏族であるといってもいいですし、上記の女系統を考慮すれば、豊玉彦(ヤタガラス)の僕であったということにもなります。

ではもう一度御前山の佐伯神社の境内社を見てみましょう。

素鵞(スサノヲ)、稲荷(ウカノミタマ)、立木、富士(コノハナサクヤヒメ)、天満(菅原道真)、山(大山咋)、大桑(面足根命=金山彦)、山倉(加志古根命=埴安姫)。素鵞(スサノヲ)の子が稲荷(ウカノミタマ)です。稲荷(ウカノミタマ)は豊城入彦(稲背入彦)の曾祖母です。大桑(面足根命=金山彦)は山倉(加志古根命=埴安姫)の夫です。

こういうことから考えれば、佐伯神社は、橘機関の神社であるということができます。

よって常陸国風土記の作者は佐伯を意識的に貶め、橘機関を隠ぺいしたと考えられるのです。

また佐竹と同様に解釈すれば、佐伯は伯(白)を佐(たす)くとなりますから、豊玉彦(ヤタガラス)を中心とした橘機関(後には神主玉が司令塔)の一つの神社とみなすことができます。… 引用終了。


詳しく知りたい方は全文をお読み下さい。再び話を指來神社に戻しますが、祭神の大国主命、少彦名命は、現在の孔大寺神社辺りにあったもので、合祀の結果だと思いますが、だからこそ、豊前坊、孔大寺神社といった神額の鳥居があるのです。この大国主命、少彦名命は、宗像大社の本当の神様は大国主命という話を裏付ける様なもので、宗像大社が大国主命を隠し、放逐したとすれば、川(釣川)向うの岸の現孔大寺神社辺りであったとすればリーズナブルなのです。

 下の写真を見て下さい。神殿右側の下ですが大国主命の素焼きの人形がたくさん並べられていました。

 この大国主命祭祀は筑豊では頻繁に見かけるもので、本来の祭神は大国主命ですよと言わんばかりに大量に置かれているものもあり、中には焼かれ真黒くなっているものも良く見かけます。

 健磐龍などと誤ってか意図的にか引き出された阿蘇津建でしたが、どうやら神武僭称贈る崇神の一族の四道将軍の一人で、その出発地が釣川河口だったようです。

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「福岡県神社誌」によれば神殿右に置かれた石造りの祠に置かれているようですが、もしかしたら、大国主命の姉のミヅハノメもこの祠の中におられるのかも知れません。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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