896 百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地) A “15年ぶりに再会した和水町の阿蘇神社”
20210608
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
前ブログでご紹介していますが、自然発生的に始まった百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地)の翌日早朝6時から始まった小規模トレッキングで裏参道から入った神社は15年前に参拝した阿蘇神社でした。
途中で気づきましたが、ここは由緒書きに九州年号が残る神社として確認作業に来た神社だったのです。


裏参道から直ぐには気付かなかったのですが、どうも以前来た事がある神社だったのです。
ともあれ、表向きは阿蘇系神社です。
「熊本県神社誌」で確認してもこの程度の記述しかなく、当面、同社の社伝に頼るしかありません。
同社由緒書きをご覧になれば一目ですが、九州王朝の神社であった事が良く分かる物でした。
勿論、15年程前この年号を確認するために同社を訪れていた訳で、当時はこの二つの九州年号の確認しか頭にありませんでした。
「白鳳」年号は多いのですが、「告貴」年号が残る例は非常に少なく、その分、元は阿蘇系神社などではなかった事を伝えているとしか考えざるを得ないのでした。
確かに祭神は以下の通りです。そう言えば事足りるのでしょうが、この九州年号との関係でこの神社の起源を考えると、どう考えても5〜6世紀には何らかの祭祀があったはずで、有明海から菊池川を通じて観潮域にあったと考えれば、この一帯がその時代のウォーター・フロントだったことは確実で、かなり重要な土地であったと考えられるのです。
しかも、この和水町では8年前に纏まった九州年号の一覧表があり実際に使用されていた痕跡までもが推定できる物が発見されたのでした。
しかもこの発見者が友人でもある菊水史談会の事務局長だったのです。
彼が、九州年号に知識を持っていなければこの発見は無かったのでした。
「九州年号」を記す一覧表を発見 和水町前原の石原家文書
熊本県玉名市和水町 前垣芳郎
現在の日本史教科書で最初の年号は「大化」である。ところが、それ以前の三十一の年号を含む年号一覧表が、和水町の旧家からこのほど見つかった。一覧表がつくられたのは今から二百六十年前の宝暦年間。この年号一覧表が語りかけるものは・・・ 最上段一行目に「善記」
善記、正和、教知・・・大化、大長という三十一の古代年号(「大化」を除けば三十)を記載した一覧表形式の古文書が、和水町前原の旧家跡(現在は空き家)でこのほど見つかった。その屋敷は、肥後国玉名郡内田手永前原村で江戸時代後期、代々村庄屋を勤めたとされる「石原家」の末裔の嫁ぎ先である。関係者から「古い文書や帳面が束になって残っている」という話を聞いたのが昨年末。正月明けに、雨戸を開けて風の入れ替えなど定期管理に町外から来た子孫の男性に頼んで、その古文書を見せてもらった。
母屋の床の間のガラス製人形ケースに、ほこりをかぶった古文書の束や帳面綴りなどがびっしり横積みの状態で収納されていた。平成十三年から十九年にかけて編纂された「菊水町史」には、もちろん活用されていない。所有者に預からせてもらう快諾を得て、自宅に運ぶためミカン用のコンテナに移したら二箱分もあった。
自宅に持ち帰り、折りたたまれた和紙の古文書の一つを何気なく広げたところ、縦横に細い罫線が引かれ、枠内は二文字の漢字と漢数字の墨書で埋められていた。(写真1)その漢字の一番目にあった「善記」の二文字(写真2の囲み内)に私の目は釘付けになった。
佃收氏講演会で
昨年十二月、菊水史談会は佃收氏(玉名市出身、越谷市在住)を講師に招いて「江田船山古墳の主はだれだ」と題した講演会を主催した。佃氏は「古代、日本にはヤマト政権以前に、伊都国、邪馬壹国、狗奴国、熊襲国、貴国、筑紫王権、物部王権、阿毎王権、豊王権、雀部王権、上宮王権、天武王権という勢力の盛衰を繰り返した歴史があり、これらを総称して九州王朝と言っている。和水町の江田船山古墳の主ムリテは、この筑紫王権の一角を占める人物である」。そして「西は現在の朝鮮半島の一部から、東は関東地方までを、史上初めて征服した筑紫王権の武(ワカタケル)がその権威と支配力を誇示するために日本で初めての年号を制定した。その最初の年号が「善記」(西暦五二二年)である。しかし、古代史学会では九州王朝の存在を無視されている」と、佃氏は独自の説を詳しく講演されたのである。
その「善記」の二文字が四段目の最初にあったのだ。下から三段目の後の方の文字は「宝暦」「明和」「安永」「天明」(最下段と下から二段目は枠だけで、文字は書き入れてない。写真1参照)と、明らかに江戸時代後期の年号。上から六段目の左寄りには「大化」の文字。この一覧表はひょっとして「大化」以前を含む古代から江戸時代後期までの全年号の一覧表ではないのか! たった一か月前の十二月に開催した講演会で聴いた「善記」という年号が、まさか自分の目の前に現れるとは思いもよらなかっただけに、大きな衝撃と興奮が押し寄せてきた。
気持ちが落ち着いてから、分かる範囲で調べてみたら、次のようなことが分かった。
千二百六十年分の年号
和紙の広さは縦三十五・六センチ、横五十一・六センチ。右側にだけ余白をとった上で、縦・横に罫線が引いてあって、罫線で囲まれる枠数は横が三十、縦が二十六。最上段の欄には右から「鐘」「行燈」「池」…とある。意味は全く分からない。二段目には「金 火 水 土 木」の五文字が順不同で繰り返し書き込まれていて「日」と「月」はない。これはいわゆる「もっかどごんすい(木火土金水)」の五行占い(五曜)であろう。
その下の三段目には、一マスに縦に二列ずつ分かち書きがしてある。「壬寅 癸卯」「甲辰 乙己」「丙午 丁未」と続いているから、これは干支(十干=甲乙丙丁戊己庚辛壬癸。十二支=子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の組み合わせであることはすぐ分かった。
三十の枠に二つずつだから横一列(段)に六十の分かち書きである。干支は六十年で元に戻る(本卦還り)から、この枠を使えば下の段にはすべて同じ干支の年が並ぶことになる。これで「干支」で書き分けられた年号一覧表に間違いない、と確信した。
漢数字のある文字列は全部で二十一段。すべての段には写真1、2の通り二文字の漢字に続けて漢数字が、ある年号は二から四まで、ある年号は六まで、十一までなど、埋め尽くされていて、空欄はない。最初の「善記」から文字列最下段末尾の「天明元」まで年数にすれば千二百六十年分(三〇年×二列×二一段)である。佃氏の話では「善記」は西暦五二二年、天明元年は一七八一年。その間の年数は千二百六十年で、ぴったり合う。しかし、はたして信頼できる年号一覧表なのかどうか。
新古代学の扉
2014年 6月10日 古田史学会報 122号より
これは、納音(なっちん)付き九州年号史料: 熊本県玉名郡和水町「石原家文書」と呼ばれています。


※ 上記「告貴」年号一覧は古田史学の会「二中歴」九州年号から

これだけでも、江田船山古墳があるこの一帯が古代の先進地であり、極めて重要な場所であった事が想定できるのです。
下津原竜王神社も、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の子である豊玉彦=ヤタガラス(竜王の名の通り、外洋船を駆使して海人族を率いていたのです)であろう事は間違いがなく、東の飛尾大明神社(ひのきさん)もこの竜王神社と同じく榊をご神体として祀っているのです。
加えて、宮地嶽神社が置かれている事も重要で、この神社は、現在、神功皇后とその臣下とされる藤 勝村 藤 勝頼を祀る神社とされていますが、この神社は大正からも二度祭神を替えており、現在も高良玉垂命を消しています。一方、久留米の高良大社もお妃の神功皇后を消しており、この長子こそが仁徳天皇なのです。これこそが近畿大和朝廷による九州王朝隠しなのですが、話が長くなるので、関心をお持ちの方は当方の公開中のブログ二千数百本から拾って下さい。これも九州王朝の痕跡とは言えるのです。
標柱に書かれた阿蘇神社の元宮という表現も一方的過ぎる観は否めませんね。

納音(ナッチン)九州年号対照表
前垣さんも、私同様、九州王朝論者の佃 収先生の信奉者ですが、これについて、「納音(なっちん)九州年号対照表」と呼んでいます。さて、話を神社に戻します。
下の写真の標柱をご覧になればお分かりでしょうが、阿蘇氏が743年に12神(阿蘇宮地の阿蘇神社系)を持ち込んだと言った話が書かれていますが私はかなり疑いを持っています。
海人族も入り江田船山古墳(関東の稲荷山古墳と同系統同族の古墳)もあるエリアに743年前後に阿蘇氏が大挙入っているとは考えにくいのですが、仮にそう考えるとすると、その時期に阿蘇氏は彦山と手を組んで反九州王朝側に組していたのではないかと考えるのですが、結論を出すにはまだ情報が不足しています。
ここで、再度付近の神社分布を見ておきましょう。勿論、現在のそれですがそれでもある程度の推定は可能です。和水町の北半は熊野系が南半は阿蘇系が優勢という印象を持ちます。
まず、この辺りまでは古代の有明海の感潮域のはずで、この付近に砦を造り、観測所(見張り場)を置けば、南からの侵入を監視し撃退できたはずなのです。
蛇足ながら、手足の神様という妙な名にとまどっておられる方もおられるでしょうが、この二神は、足の神様が製鉄神のアシナヅチ、手の野神様も櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の妹なのであって、こちらも海人族のエリアなのです。

もう一つ阿蘇系としては似つかわしくない古層の海人族の風習が在りました。
正月以来の御汐井汲みの塩筒と藻塩を意味するものが吊るしてありました。
これも阿蘇氏と似つかわしくないもので、九州王朝系神社であった痕跡が微かに拾えるのです。

蛇足ついでにもう一つ、境内は元より、神殿、参拝殿も非常に綺麗で、氏子の方々の努力に頭が下がりますが、九州年号を確認した上で神殿前に進むと、仁徳天皇の奉納絵馬が置かれていました。
本ブログをお読みになって来た方はご存じでしょうが、この仁徳天皇とされている人物こそ仲哀死後の神功皇后と久留米高良大社の高良玉垂命の長子シレカシノミコトその人なのです。
まあ、最近のものですからどおって言う事もないのですが、…。
