2022年07月09日

895 百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地) @ “肥後の宮地嶽神社から福津の宮地岳の古宮へ”

895 百嶋神社考古学勉強会(阿蘇宮地) @ “肥後の宮地嶽神社から福津の宮地岳の古宮へ”

20210607

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


65日朝倉市で飯塚の女性を拾い、阿蘇に向かいました。

彼女も阿蘇宮地で自然発生的に始まった百嶋神社考古学の勉強会のメンバーだからです。

無題.png一応、56人で始まっているのですが、本日は2人欠席で、3人だけとなりましたが、大型の薄型TVとパソコンをHDMIケーブルで繋ぎブログやネットの画像を映し出し説明しますので、非常に分かり易く、勉強会もはかどる事になるでしょう。

来月は、暑いでしょうからエアコン完備の部屋で6人でやるでしょうが、今やTVとは馬鹿番組しか流さない地上波、どうせ嘘情報のBSやケーブルの堕落させる目的の陰謀番組も無視し、ネットと繋ぎ独自情報を探る方が余程価値があるのです。

少数の勉強会は11時で切り上げ、翌日は朝6時からトレッキングが始まりました。

まず、阿蘇神社の西数キロに在る火振り神事で知られる霜宮に足を運び、神殿西にユダヤの紋章がひっそりと打たれているとか、何故か神殿西に扉が設えられているとか確認した上で、火振り神事の現場で、金山彦が祀られている事を確認して貰いました。

つまり、阿蘇〜高千穂まで拡がる鬼(喜)八伝承の実体が金山彦=カグツチだと説明し次のポイントに向かったのです。

次に向かったのは山鹿市と玉名市の中間にある和水町(有名な江田船山古墳のある町)の宮地嶽神社と寄り道で見つけた新たな神社を数社廻ったのです。

ここで、裏参道から入った神社が以前(15年ほど前に表参道から入った神社だったのです)見た神社だった事から今回改めて取り上げる事にしたものです。とりあえず、この話は後に廻すとして、和水町での数社を見て、高速で(つまり菊水IC)から福岡県の古賀ICまで移動し、宮地嶽神社を見て、同社のランドマークである宮地岳に登り山上の宮地嶽神社古宮に詣り、その後も宗像市に廻り、彼女たちが以前から関心を寄せていた指來神社に行きたいと言い出す始末で、若いと言っても50代のお二人が、宗像大社などには目もくれず、何故、このような宗像大社正面に鎮座するのかが全く分からなかったのです。

この神社は、私もようやく今年の2月に初めて訪問した神社で、鳥居の神額が3つ共異なる合祀神社であり、私のブログもオンエアしていないため、何故阿蘇と飯塚に住むお二人が等しくこの神社に参拝しようと思い立ったのかもそら恐ろしくなったのでした。

この神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)で取り上げていますが、関心がおありならば、このブログがオンエアされる時点では 865 宗像の神々 A 福岡県宗像市多禮の指來神社とは何か として公開していると思いますので、興味がおありでしたらお読み頂きたいと思います。

この神社を見て、飯塚の女性をポイ捨てするため宗像〜飯塚に向かうのですが、夏至に近くまだ明るい為、帰りの駄賃という言葉はありませんが、飯塚市鹿毛馬の厳島神社に阿蘇の女性が参拝していなかった事から夕方参拝し、阿蘇に戻ると言う都合350キロ、16時間の神社トレッキングを終えたのでした。

この厳島神社こそ、白川伯王家本流の神社であり、安芸の宮島の厳島神社よりも、宗像三女神の宗像大社よりも格上の極めて重要な神社なのです。

たまたまと言ってもいつも怠りなく掃除をされているのでしょうが、宮司がおられ、私と飯塚の女性は何度も宮司とはお話している間柄ですから、20分近くお話して八丁トンネルから朝倉に貫け小国経由で阿蘇に戻ったのでした。

 この厳島神社については、以下外(外も関連でかなりありますが)をお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

54

秦の始皇帝と市杵島姫

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社

(安芸の宮島のルーツ)”

321

白王姓を「白土」姓に変えざる得なく追い込んだ明治神道の

横暴の証拠を見た

329

白川白王を祀る高知県佐川町の白王神社 

新ひぼろぎ逍遥

230

白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社

(安芸の宮島のルーツ)”

322

春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧

加計町中心部の長尾神社”

369

安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社

894 彦山西方の神々を考える個別編 C “彦山の祭神も再確認しておきましょう”

20210605


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 一連のこのシリーズの中で彦山そのものを考えることも必要になりますので、ここで概括しておくことにしましょう。

無題.png

祭神:正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命( マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)

伊耶那岐命 (イザナギノミコト) 伊耶那美命 (イザナミノミコト)


高木大神は裏に控えておられるのでしょう。表に出ているのは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 というかなり仰々しい祭神名で祀り上げられていますが、一体誰なのかお分かりになるでしょうか?

我々百嶋神社考古学の者ならずとも、「耳」という尊称(称号)が付されている事からして、中国の江南から入って来た神である事が分かります。

呉太伯の血流(つまり周王朝)を引く本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の子などというとんでもない話で第二代綏靖(スイゼイ)天皇扱いされ蘇民将来伝承の巨胆でもある神沼川命(カミヌナカワミミ)=黎族(阿蘇氏)、聖帝伝説絡みの多芸志美美命=手研(タギシミミ)実は健磐龍のことでもあるのですが、蘇民将来伝承の蘇民でもある神八井(カムヤイミミ)命、日子八井(ヒコヤイミミ)命(「日本書紀」にはない阿蘇高森の草部吉見神)、岐須美美命(『先代旧事本紀』)が…。このように耳の呼称を持つのは等しく雲南省麗江から海南島を経て九州阿蘇に避退した黎族(簡略化すれば阿蘇氏)なのです。

この事については「ひぼろぎ逍遥」以来、過去何度となく書いてきましたのでここでは細部について触れることは致しません。正勝吾勝勝速日天之忍穂命と呼ばれる(自ら呼んだ多少大袈裟な名称)のがこの人物であり、高木大神の次女の栲幡千千姫命(長女の萬幡豊秋津師比売命の別名とする説がありますが、当然誤り、彼女はカミムスビ=大幡主の子豊玉彦=ヤタガラスの妃なのです)。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


阿蘇氏でも建磐龍は本物の方の神武(カムヤマト…神武僭称贈る崇神ハツクニシラスではない)の妃だったアイラツヒメと蘇民将来伝承の巨胆=金凝彦(カナコリヒコ)との間に産まれているのです

それだけがいまだに阿蘇氏が神武天皇の一族であると強弁する理由なのであり それぐらい当の阿蘇宮司家も知っているはずですが、話が次世代に引き継がれていない可能性もあるかも知れません…


高木大神は朝鮮でも大邱(タイキュウ=テグ)を拠点としていました。その一族への事実上の入婿となったのが阿蘇氏のヒコヤイミミだったのです。

これで、栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)をお妃とした正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命なる人物が、阿蘇高森の草部吉見さん=ヒコヤイミミであることはお分かり頂けるでしょう。

イザナギ、イザナミ(列島に基盤を置いていた金山彦の妹)も新羅に居た神様で、その御子こそスサノウ=新羅の王子様だったのです。その後イザナミはイザナギと別れ列島に戻り熊野神社のクマノフスミと名を変え大幡主=カミムスビのお妃となり熊野系の一角熊野那智大社などを担う。

イザナギが祀られていない熊野神社が非常に多い事に気付かれている方は多いと思います。

イザナギとイザナミは分かれているのです。豊玉彦=ヤタガラスも金山彦の妹イザナミの子なのです。「日本書紀」の一書に「もう別れましょう…」とも…。

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つまり彦山にはイザナギと別れたイザナミも祀られているのです。

また、琵琶湖の多賀神社もイザナミとイザナミこそ国の元と強弁しておられる神社もあるのです。

 彦山でも正統な宮司家を排除する等、宇佐神宮に引き続き神社庁の悪巧みが進みつつあるようですが、元々明治期に山岳修験を政権への危険排除で潰したのですから彦山の再建は前途多難でしょう。

彦山については触りだけでいずれ書かなければならなくなるでしょう。短くもここまでとします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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