892 彦山西方の神々を考える個別編 A “福岡県旧小石原村中心部の高木神社(大行事社)”
20210531
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
早速個別の神社探査に入りましたが、意外と早く我々の観点での発見がありました。
小石原村の道の駅周辺については皆さんも良くご存じかも知れません。
しかし焼物の本当の中心部は少し奥まった皿山地区にあり、通りすがりの方には、ご存じない方が多いかも知れません。
今回ご紹介するのは、皿山地区までは入らない添田町と嘉麻市への分岐点に近い高木神社(大行事宮)に関するリポートです。


祭神 高皇産霊命、伊弉諾命、伊弉冊命

祭神、境内神社は神社誌のとおりですが、型通りの境内神社とは別に参道階段の右手に三つの神様が祀られていました。これは、藤棚がある事に気付いた時から(久留米高良大社の高良玉垂命の影響下にあったエリアは藤棚がおかれているのです)、もしかしたら…と思っていたら正しくそのとおりでした。

水の神はカミムスビ系と見るならば天御中主命、市杵島姫、大山祗と見れば神大市姫=ミヅハノメになりそうです。
※ 尚、粟島神社は天族のスクナヒコナノミコトで良いでしょうから、山の神と一緒ではおかしいのですが…入らなかったため一緒に入れたものとしても普通でしょう。
次に庚神さまをどう見るかですが、普通は三宝荒神を置き換えたもので、製鉄神の金山彦系ナガスネヒコ…と見るべきではないでしょうか。
いずれにせよ、彦山が専横を振るうようになる以前の小石原村の神々とはこの三つの祠の神様だった可能性が極めて高いのです。
祭神はご覧の通りです。しょっちゅう通る道でしたので何時でも行けるとパスするばかりの神社にこれほどの神様が揃っておられるとは、しょっぱなから素晴らしいものに遭遇できました。
小石原村はどこにいっても大行事社=高木神社ばかりじゃ見る気にならないと敬遠していたのでしたが、やはりどえらい神様がお隠れになっていたのでした。
正しく高木大神(彦山)系が専横を振るう以前(つまり藤原が権力を握り近畿大和朝廷の側に立った勢力、宇佐、彦山の新興勢力が九州を制圧する前の=恐らくAC750年前後)の支配的な神々が何であったかがこれほど鮮明に浮かび上がるとは思っても見ませんでした。
とすれば、この小石原村に住む人々も等しく彦山系統の方々なのかと早とちりしていたのであり、明らかな誤りであることがが見えてきたのです。一方、小石原焼の起源はそれほど早くないともされています。
ただ、 考えれば当たり前なのですが、豊後国境とは言えるもののこの地は筑紫の国、筑前のエリアなのであって、宇佐八幡宮、阿蘇神宮直系でもなければ、彦山の強大な影響力が及んでいたとはいえ、700年辺りまで勢力を保持していた久留米高良大社に象徴される領域だったはずなのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)一応区分けをします。赤枠が彦山系、青枠が高良大社系とします
では、何故ここに田神社(田の神)が残されているのでしょう。その前に田神様とは誰なのでしょう?
詳しく知りたい方でも急がれる方はひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の3本ほどをお読み頂くとして、
ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @
ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A
ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した!
かつて旧朝倉郡一帯には60社近い田神社が存在していたはずです(勿論、元は主神として崇められていたはずです)。ところが現在も存在はしているものの、1社を除き全てが無格社扱いとなっているのです。
小石原村では無格社に落された田神社はありませんが、直ぐ下の、松末村星丸字木地星瓜生迫には埴安彦を祀る田神社が1社、立にも埴安命、事代主、猿田彦命、同大山字畔高にも埴安命を、同山神にも埴安命を祀る神社が無格社として現存しています。
この延長に小石原の田の神様を考えると、彦山、宇佐八幡が台頭し、高良山が没落する時期辺りに元々存在していた田神社が潰され、大行事宮に入れ替わり、それでも奉斎する民がいたからこそ残され、参道右手に残されたものと考えられそうです。そして彦山と宇佐は共に手を携え久留米高良山の九州王朝を攻撃したはずです。また、彦山=高木大神、宇佐八幡宮=阿蘇(草部吉見系)VS高良大社だったはずです。

以上「高良玉垂宮神秘書」同紙背70pほか
田神社の主神 埴安彦 埴安命…とは一般にタカミムスビ神と称せられ彦山の高木大神に対し天御中主命と並ぶ神産巣日神の事であり、所謂造化三神に相当する神です。
そして、その実体は博多の櫛田神社の主神大幡主命その人なのです。
言わば高木大神に匹敵する列島開闢の神であり、かつては旧朝倉郡全域に主神、主鎮守として地域を支配する神だったのです。
現筑前町には現在も旧県社格の大巳貴神社がありますが、実は大国主命は出雲の人などと言うのは大嘘で、山の神様=大山祗と埴安姫(カミムスビ=埴安命の妹)の間に生れた神大市姫、大国主命、木花咲弥姫の三兄弟姉妹の一人で九州で産まれた人物なのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
田の神 水の神 山の神
カミムスビ (天御中主、市杵島姫、神大市姫=ミヅハノメのいずれか) オオヤマツミ
あくまでも当グループが師と仰ぐ百嶋由一郎氏の神代系譜によればですが、山の神(オオヤマツミ)が大国主命の父神にあたり、田の神(カミムスビ)については、大幡主の子であるアカルヒメの子市杵島姫を大国主命が妃としている事から、大山祗、大幡主にとっても入婿、姻戚関係による義理の子に相当する事がお分かり頂けると思います。
当時、タカミムスビ(高木大神)は彦山〜高千穂〜島原半島一帯に本拠地を置き、対するカミムスビ=大幡主(博多の櫛田神社の主神)も博多から朝倉郡などを本拠地としていたと考えています。
一方、彦山の北域の筑豊では物部氏でも山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒが勢力を拡げ、添田、田川、香春…には建御名方(大国主の臣下であり決して次男などではない)が大きな勢力を持っていたはずです。
ところが、ここでは諏訪神社が添田の1社を除きほとんど消えているのです。
つまり、北では大国主命の国譲り反対派の建御名方と南では大国主命管理下の旧朝倉郡が奪われているのです。
その痕跡が朝倉郡の多くの田神社であり、添田町の諏訪神社なのです。そして、出雲の国譲りの現場が彦山の南北の大穀倉地帯だったのです。筑前町の天の安川に何故大巳貴神社が在るのか見えてきました。
1社目で本命に出くわしたため暴走してしまいましたが、神代史の謎の解明の糸口を得た思いがします。