2022年06月27日

890 高千穂の四恩山裾野の下野神社再掲 A “宮崎県高千穂町下野神社”

890 高千穂の四恩山裾野の下野神社再掲 A “宮崎県高千穂町下野神社”

20210512

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前回に引き続きになりますが、以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下を書きました。

ビアヘロ151 高千穂町上野の下野八幡神社への下調べ @ 20200820


483 古代の痕跡を今に留める高千穂峡の手前に鎮座する不思議な神社 “高千穂町上野 上野神社”

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写真は 上野(カミノ)神社 カーナビ検索 高千穂町上野3384


 当時からの思いでしたが、この上野神社の背景を探るためにも下野八幡大神社も見るべきと考えていました。以下上野神社の一部再掲載から始めます。


この高千穂の上野という土地の面白さはとりあえず上野神社の祭神に良くあらわされています。

 一つはイザナミの夫であるイザナギが祀られていません。この点は大半の熊野系神社と同様です。

 我々百嶋神社考古学の者としては、“イザナミ(金山彦の妹)はイザナギと別れ博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ のお妃となっておられます”との説を受入れています。

 元々、高千穂が高木大神の領域であった事は既に述べていますが、にも拘らず、高木大神(タカミムスビ)そのものも、その息子であり、木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ)の夫であったニニギノミコトも祀られてはいません。

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下野八幡宮 カーナビ検索宮崎県西臼杵郡高千穂町大字下野559


特に重要なのは、後に藤原氏の祖となる阿蘇系の草部吉見神(高木大神の次女のタクハタチジヒメの夫)も健磐龍命も祀られていない上に、藤原が追放した道真公は祀られているのです。

 してみると、高木大神のエリアであるはずの高千穂にも拘らず、高木大神系が排除されている事がかなり鮮明な特徴と言えるでしょう。

 最後に本物の神武天皇と本物の御妃であるアイラツヒメが祀られています。

これこそが本当の神武天皇の実像であり、宝石のような非常に価値ある祭神となっているのです。

 ここには近畿大和朝廷成立以前の九州王朝でも初期の神々が結晶として揃い踏みしている様に見えるのです。


御祭神


伊弉冉命(イザナミ) 事解男命(コトサカオ) 速玉男命(ハヤタマオ) 

木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ) 日子火火出見命(ヒコホホデミ) 

豊玉比売命(トヨタマヒメ) 鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズ) 玉依比売命(タマヨリヒメ)

神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ) 吾平津比売命(アヒラツヒメ)

花房比売命(ハナブサヒメ) ※まだ確定的に申し上げられませんがタクハタチヂヒメの可能性あり、草部吉見(ヒコヤイミミ)の妃となる以前の状態が反映されている様に見えるのです

神功皇后命(ジングウコウゴウ) 品陀和気命(ホンダワケ) 武内大臣命(タケウチノスクネ)

菅原道真公(スガワラミチザネ)  


簡単に言えば長崎県の大村湾沿岸から諫早市、島原市に掛けての旧南北高来郡から高千穂町三田井の一帯(現注としては:少なくともと言うべきかも)高木大神=タカミムスビの領域でした。

 そこに真空地帯の様に金山彦系、大幡主(カミムスビ)系と考えられるエリアが存在しているのです。


高来町(たかきちょう)は、長崎県北高来郡にあった町。 2005年(平成17年)31日に諫早市、多良見町、森山町、飯盛町、小長井町と新設合併し、新市制による諫早市の一部となった。

ウィキペディア 20200813 14:11 による


 烏岳と愛宕岳との線上に上野神社が置かれている事が分かります。

 また、上野(カミノ)集落の正面に四恩山があるのです。

 愛宕岳は二つ(金山彦)、烏岳も二つあり(ヤタガラス)、この一帯がイスラエル系、瀛(イン)氏の集落である事が分かるのです。

それにしても四恩岳とは凄いですね…。仏教の外皮を剥げば祇園はシオンの置換えでありシオニストのシオンなのです。

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故)百嶋由一郎氏からは“高千穂と言うか三田井は、元々、高木大神の支配下にありました。長崎県の諫早、島原一帯から高千穂まで高木大神が支配しておられたのです。…”といった話を聴いていました。

 この事からも、隣の熊本県高森町の草部吉見神社の本当の支配者が実は高木大神=ニニギの親父(祖神)であり、草部(クサカベ)の意味も朝鮮半島の伽耶の支配者でもあった高木大神の影響が及んでおり、伽耶部→茅部→草部との表記の変化(鈍化)が起こっているのです。

ついでに言えば鹿児島もカヤカベ教も草部のつまり伽耶部なのです。

祭神を見て真っ先に驚いたのは、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)、吾平津比売命(アヒラツヒメ)という本物の神武天皇と本物のお妃が大切に祀られている事でした。

 インチキ神話の宮崎の事、普通なら神武僭称ハツクニシラス崇神が美々津から東征に出たなどと書きそうなものですが(勿論これは正しいのですが、それは開化天皇=高良玉垂命の命により畿内の支配に入ったのであって、この男が事実上の最初の天皇だなどと言うのは大嘘で、それもただの臣下でしかなかったのです)、これだけでもこの縁起には信憑性が認められるのです。

 次に、伊弉冉命(イザナミ)が祀られるものの、伊邪那岐命(イザナギ)が書かれていない縁起が相当にある事は神社研究者の方はどなたもご存じかと思います。


現地メモ

    上野神社の上には今も赤川権現があり今は薮に覆われて祀られていない。

    この地区の人々は佐藤姓が多い。明治期からかそれ以前からかは不明。


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高木大神の次女である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)は草部吉見のお妃になられていますね。


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これは、直ぐに分かれ、イザナミ=クマノフスミは博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神)のお妃となられているからなのです。花房姫は分かり難いがタクハタチヂヒメ(高木大神次女)の可能性あり。

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邇芸速日命(饒速日命)は、日本神話に登場する神。


ここから今回のテーマである下野八幡宮の話に入ります。

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下野八幡大神社 建久3年(1192年)に岩戸に祀られていた「正八幡」をこの地に移し、高千穂太郎正信公の時代に社殿を建立したと伝えられています。玉依姫命(たまよりひめのみこと)・品陀和気命(ほむだわけのみこと)等が御祭神で、育児・安産・必勝の神様(息長足姫命が抜けていますね 古川注)。

境内には宮崎の巨樹百選に選ばれたケヤキ・イチョウ、平家討伐のために椎葉へ向かう那須大八郎が必勝を祈願して杉の穂を逆さに挿したといわれる「逆杉」、延岡藩主・有馬左衛門佑直純公が島原出陣の際に必勝祈願で植栽した「有馬杉」など、伝説の残る巨木が見られます。

無題.pngによる

 下調べですので、検索を続けると「まにまに」というを見せて頂くと、この地区の背景がある程度伺えます。

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下野八幡大神社


このイチョウの木は、お寺の鐘や盲僧(かつて中国地方の一部と九州に多く存在した盲目の宗教者。 彼らは年に数回琵琶びわを背負い、村々を訪れ、屋敷や竃かまどの神である荒神様こうじんさまを祀るためのお経をあげたり、正月にお札を配ったりしていました)たちの琵琶の音を聴いて育ったそうです。

境内掲示板によると、およそ800年前の鎌倉時代、現在は廃寺になっている鶏足けいそく寺の寛信和尚かんじんおしょうが比叡山延暦寺鶏足院ひえいざんえんりゃくじけいそくいんで修行された後、持ち帰り植樹されたといわれています。

元々、当社のお隣にあった鶏足寺(明治元年、明治政府の神仏分離令により廃寺となる)は宝治元年(1247年)に寛信和尚かんじんおしょうが開山された盲僧寺もうそうでらで、和尚は三田井氏(西臼杵地方の豪族)の本城「向山中山城」で生まれたといわれます。

寛信和尚の生まれが向山中山城なので向山神社と関係があると解釈しました。…

建久3年(1192年)に岩戸に祀られていた(今の大字岩戸)二ッ嶽にお祀りされていた正八幡を大神惟基公おおがこれもとこう(平安時代中期または後期の武将)がこの地に移し、高千穂太郎正信公(大神惟基の子)の時代に社殿を建立したと伝えられています。

大分県の穴森神社とも関連のある大神惟基公(大神姓の蛇神婚伝説)。二ッ嶽神社は未参拝なので、いつかお参りに伺いたいと思いました。                          以上抜粋。


高千穂町の解説に従えば「建久3年(1192年)に岩戸に祀られていた「正八幡」をこの地に移し…」とあり、下野八幡大神社が正八幡神社であった事が分かりました。

 正八幡神社についてはこれまでにも何度も書いてきましたので改めて書くことはしませんが、関心をお持ちの方はグーグルでも ひぼろぎ逍遥 正八幡 でダブル検索を試みて下さい。

 ひぼろぎ逍遥

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うきは市の正八幡宮初見

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行橋市の正八幡神社初見

   

 いかに、表向きは玉依姫命、品陀和気命、息長足姫命を祀ろうとも、この神社が正八幡であったと知り、この地域が高木大神系の地域であるにもかかわらず、金山彦系+大幡主系の拠点であった事が見えてきました。

 そもそも正八幡宮とは八幡宮以前の八幡宮であり、本来の八幡神とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主=カミムスビ神なのです。勿論、大幡(一部絹さえも使われた大きな帆の意味)とは博多港を拠点にして活動していた武装商船隊の船の帆の事であり、その大きな帆を張った船を率いて半島、江南、インドシナへと船を操っていた八幡船(武装商船=実質的な海賊船=海軍)の事なのです。


八幡船 ばはんせん 奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。          ネット上の「ブリタニカ国際大百科事典」 小項目事典より


研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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