865 宗像の神々 A 福岡県宗像市多禮の指來神社とは何か
20210128
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
指來(サシタリ)神社と聞いても宗像にそんな神社あったっけ…と言う方が多いのではないでしょうか?
この話は当方の研究会のトレッキング・メンバーからの照会(紹介)に始まったのですが、宗像大社辺宮から釣川を挟んだ対岸の小山の上に置かれた神社で、一般の人が普段通らない目に掛からない神社であることから人知れず鎮座している謎の神社というものになりそうです。

指來神社とは言うものの下から孔大寺神社、豊前坊…と合祀の痕跡として異なる神額が並んでいるのです。
さて、メンバーのM氏からの照会は“地名が「多禮」なら指來神社は阿蘇系と考えられるのではないでしょうか?”との意味だったようです。
M氏はかなり本質に迫られているようで心強いのですが、一般の方にはほとんど理解不能の領域です。
このため多くをお示ししても大変ですので手っ取り早くはこの2本のブログをお読み頂ければと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
648 | 九州王朝成立前夜の解明へ A “雲南省昆明にいた白族が 日本列島を開拓した” |
647 | 九州王朝成立前夜の解明へ @ “雲南省麗江にいた 多大将軍の一族が日本列島を開拓した” |
要は天御中主系の白族と黎族の阿蘇氏の2派こそが日本列島の主要民族であり、雲南省の麗江から阿蘇氏が同じく昆明から白族が海南島を経由して入っているからで、この点をM氏は持ち上げてくれたのでした。つまり、多禮とは多氏=阿蘇氏=宇治氏であり、黎族の多氏とは阿蘇系の人々が住み着いた土地の意味ではないかと考えられたのでした。そして実際に阿蘇津彦なる神様が祀られているのです。
私も初見の神社でしたので、翌日、小雨降る中急傾斜の参道階段を登り始めました。
すると、次に目に入って来たのはステンレスではなくアルミ製の階段でした。
つまり、劣化した石段の参道を修復する力を失ってしまい、結果、石工の仕事も技術も職人も一切合財が消失していくこの日本の現実を見せられたのでした。
結局、江戸時代の方が余程豊かだったのではないかと思わざるをえなかったのでした。

正月明けだったからかも知れませんが、参拝殿の美しさ木造建築の美しさに感銘を受けました。
公民館機能も持たされていたのかも知れませんが、武道場にもなりそうな建物を良くぞこの車も入らない山上に造り上げたと感服した次第でした。
その意味では改めて地域の方々のご努力と尊崇の念に敬意を表したいと思ったところです。
このため、帰路は裏参道を降り、小型のユンボで資材を運び上げるしかない急斜面の隘路を降り戻る頃には雨も納まり、次の神社に向かう事になりました。
神殿には鍵が掛けられており、由緒書きもなく目立った境内社もない事から得られる情報はなく、「福岡県神社誌」の解析しかなくなりました。
その前に地元の方によるブログもご紹介しておきます。
これがかなり詳しい内容で、同社の歴史的背景を良く書いておられ敬服に値します。深謝!
地図に「孔大寺神社」とあったりするのは、一の鳥居扁額にそう書いてあるからで、まあ仕方ない。
ところが二の鳥居は「豊前坊」社殿直前には「指來明神」とあり、注意深い人は却って混乱しそうだ。
これは開化期の神社合祀令に従って、指來明神の近くにあった豊日社(豊前坊)や孔大寺社を合祀したのに伴い、その鳥居を持ってきたもの。現社名としては「指来神社」が正しい。それで御祭神のうち、気長足姫命・阿蘇津彦命が指來明神。気長足姫(おきながたらしひめ)は神功皇后の名。創建は神功皇后に因むはずが、その伝承はない。大己貴命・少彦名命・高龗神・水波能売命は孔大寺社から。彦山豊前坊こと豊日別命は、豊日社(豊前坊)の神である。実は探していたのが豊前坊だったので、そちらが消えたのは残念でならない。貝原益軒が撰んだ「続筑前國風土記」には、田嶋村の人は英彦山に行かないなどと、聞き捨てならない話が書いてあるので。田嶋宮(宗像大社)に対し、釣川を挟んで対岸やや川上に位置する豊前坊は、反証になるかと思ったのだが。社殿は東向きに建つので、参拝者は西に向かう姿勢になる。
田嶋宮に尻を向けない配慮だろうか?そう言えば、田嶋宮周囲には神功皇后を祀る、或いは関連する社が取り囲むように立つのに、現在の宗像大社辺津宮に神功皇后の名は見当たらない。
立入禁止になっている(2018.7.26)。指来(さしたり)明神 より

「福岡県神社誌」上巻168p
まず、孔大寺社から持ち込まれた大己貴命・少彦名命・高龗神・水波能売命の4祭神ですが、大己貴命と水波能売命は、トルコ系匈奴=熊襲=大山祗の子で弟姉になります。
少彦名命は海人族かスサノウ系か判別が着いていませんが、背が低い事から一応江南系海人族としておきます。恐らくヤタガラス辺りの子のはずです。
高龗神は百嶋説に従えば阿蘇の神社の12神=藤原が第2代綏靖天皇扱いにした金凝彦になるのですが、闇龗神はスサノウの姉になり、大山祗系の神ではない事が気になります。
問題は、元々指來神社の祭神とされる気長足姫命と阿蘇津彦命です。
阿蘇津彦命は、通常、内牧の阿蘇神社の主神=健磐龍とされるのですが、12神にこの神はありません。

一方、高森町の草部吉見神社の12神も見ておきましょう。こちらも草部吉見の六の宮 阿蘇都比当スは、健磐龍のお妃となった天豊津姫→阿蘇都姫→天比理戸刀刀ィ寒川姫→杉山姫で良いはずです。

「景行記」に景行天皇は九州巡幸の一環として阿蘇国に到ったがその国の野は広く人は見えなかった。そこで天皇は「是国に人有りや」と言うと、阿蘇都彦、阿蘇都媛の二神が人となり景行のもと現れ“吾二人在り何ぞ人無らんや”と言う。故にその国を阿蘇といったというのです。
依然、阿蘇都彦は不明でしたが、草部吉見系が阿蘇都彦と呼んでいるのですから間違いないでしょう。
このため、阿蘇都彦と称される人物は阿蘇都比唐妃とした健磐龍命とではないかと思います。

百嶋由一郎神代系譜 017阿蘇系譜@(部分)
ただ、問題は解決しません。それは、指來神社の意味と同社の本来の神とする気長足姫命と阿蘇津彦命の時代が全く合わないのです。
神功皇后(実は皇宮皇后命)は久留米の高良大社の高良玉垂命(開化天皇)の妃(仲哀死後)であり、時代的には約80年近い差があるのです。
このため、阿蘇系の人々が住み着いていたとして、その一族から三韓征伐で活躍した武人が居たことを後世に阿蘇津彦命として祀ったのではないかと思うのです。
指來とは古代の行政機関の一部若しくは軍事に伴う役職名に見えますので、多少思考の冒険を試みました。
その勢いで、もう一つの謎である孔大寺社から持ち込まれた大己貴命、少彦名命、高龗神、水波能売命という大山祗系の神々について考えたいのです。
それは、宗像大社の本来の神様は宗像三女神ではなく、そのうちお二人の女神をお妃とした大国主命であると何度も申し上げて来ました。
関心をお持ちの向きは以下をお読み頂きたいと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
681 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… G “そもそも三女神とは何なのか” |
680 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… F “宗像大社の境内に置かれなかった大国主命の長男” |
679 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… E “宗像大社の祭神は元から三女神だったのか” |
678 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… D “宗像大社の東に大国主命を祀る神社がある” |
677 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… C “宗像大社の西に大国主命を祀る神社がある” |
676 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B “神湊の津加計志宮に大国主命の痕跡を探る” |
675 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… A “少し振り返って出雲と大国主命を考えよう” |
674 | 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… @ “宗像大社を楢ノ木の神紋から考えましょう” |
その意味で、本来は今も残る宗像大社の高宮若しくはその元宮で祀られていたはずの大国主命祭祀、その祭祀を司っていた人々を対岸に移し替え、現在の宗像大社が出来上がったと考えることは可能ではないかと思うのです。これも今後の課題です。
