861 百嶋由一郎阿蘇ご一家系図の連番の意味が分かった
20210112
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本来、もっと早く気付くべきでしたが遅れ馳せながらようやく分かりました。

それは百嶋由一郎神代系譜(阿蘇ご一家)に関する話です。
この神代系譜には@〜Kまで番号が振ってあり今までその意味を全く気に留めていなかったのです。
それは単に百嶋先生から聴いていなかっただけなのですが、ようやく分かってきました。
何時かは分かる時は来るものです。実は何でもなかったのです。
今回、すこし真面目に考え始めたら12までの番号となると、阿蘇12神と対応しているのではないかと思ったらその通りでした。
ご覧ください。

以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。
一の神殿(左手、いずれも男神)一の神殿(左手、いずれも男神)
一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。位置:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。@
三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神)- 二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。B
五宮:彦御子神 (阿蘇惟人)- 一宮の孫。阿蘇大宮司家につながる。ひこみこのかみ。D
七宮:新彦神 - 三宮の子。にいひこのかみ。F
九宮:若彦神 - 七宮の子。阿蘇神社社家につながる。わかひこのかみ。H
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃。三宮の娘。あそつひめのみこと。A
四宮:比東芬q神 - 三宮の妃。ひめみこのかみ。C
六宮:若比盗_ - 五宮の妃。わかひめのかみ。E
八宮:新比盗_ - 七宮の娘。にいひめのかみ。G
十宮:彌比盗_ - 七宮の妃。やひめのかみ。I
諸神殿(最奥、いずれも男神)十一宮:速瓶玉神 (國造神)- 一宮の子。国造本紀によれば、初代阿蘇国造に任命された。はやみかたまのみこと。J
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。綏靖天皇を指す。皇統につながる。かなこりのかみ。K
孝霊天皇(第7代)9年6月、健磐龍命の子で、のちに初代阿蘇国造となる速瓶玉命(十一宮)が、両親を祀ったのに始まると伝える。阿蘇神社大宮司を世襲し、この地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している。
国史では、「健磐竜命神」および「阿蘇比盗_」に対する神階奉叙の記事が見え、健磐竜命神は天安3年(859年)に正二位勲五等、阿蘇比盗_は貞観17年(875年)に従三位までそれぞれ昇叙された。
延長5年(927年)に成立した『延喜式』神名帳では、肥後国阿蘇郡に「健磐龍命神社 名神大」および「阿蘇比盗_社」と記載され、健磐龍命神は名神大社に、阿蘇比盗_は式内小社に列している。
中世以降は肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有していたが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の九州平定の際に社領を没収された。その後、改めて天正15年(1587年)に300町の社地が寄進され、さらに、領主となった加藤清正、熊本藩主として入国した細川氏によって、社領の寄進、社殿の造修が行われた。
明治4年5月14日(1871年7月1日)、近代社格制度において国幣中社に列し、1890年(明治23年)に官幣中社、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。
阿蘇神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210112 09:13
これを見比べると阿蘇宮司家の理解と、百嶋神代系譜にかなりの相違点がある事に気付きます。
深く考えれば深く考えるほど亀裂は深まり合い入れなくなってきます。
この系図も、上米良純臣氏辺りから引き継がれた古来、研究熱心な宮司、禰宜の集まりの中に継承されてきたものを再構成したものだったのでしょう。
最も気を付けなければならないのは、一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。位置:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。@
三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神)- 二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。B
と、主張している点です。元々阿蘇氏の後裔である藤原氏が造った「記」「紀」神話ですから、しかたがないのですが、本物の神武天皇(神武僭称贈る崇神ではない)の本物のお妃であった吾平津姫(金山彦と大山祗の姉大市姫の間に生れたプリンセス)=郡浦神社蒲池姫が神武と別れ、阿蘇家の十二宮:金凝神 - 一宮の叔父=綏靖天皇を指す。皇統につながる。かなこりのかみ。K=実は蘇民将来伝承の巨胆 に再婚したことから健磐龍がその孫である(義理)とか国龍命が子であるという宣伝が行われたのであって、阿蘇宮司家の奥深く隠された秘密なのです。このことは当然同家も承知していた(る)はずなのです。
これ以外にも、実質的な阿蘇惟人の出自や悲劇の雨宮姫問題、国造神社の速瓶玉=大山咋についても色々書くべきことはあるのですが、これらのテーマは非常に神経を使うため、また、以前のブログでも書いている事から別稿とします。今回は阿蘇ご一家系譜を全面公開した事に意味があるのでこれまでとします。
追補)勿論、百嶋神社考古学ではそのようには考えていません。ご覧の通り本物の(神武僭称贈崇神天皇=ハツクニシラスではないという意味で)神武天皇のお妃であったアイラツヒメの払い下げを受けたか?逆に神武を袖にした?かは不明ですが、そのアイラツヒメを妃にした神沼河耳との間に健磐龍命が産まれている(阿蘇家では神八井耳の子とする)とするのです。


まず、健磐龍命のお妃は、阿蘇高森の草部吉見神と高木大神の次女である拷幡千々姫との間に産れた阿蘇都姫(天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀ィ寒川姫→杉山姫)なのです。
それは、阿蘇神社の縁起でも、二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃
三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載 としている事でも明らかです。
勿論、國龍神が草部吉見=日子八井命なのですが、結局、阿蘇家の健磐龍は草部吉見の娘でもある姪(高木大神の血を引いた)を妃として生まれたのが新姫=雨宮姫(熊本市、人吉などに雨宮神社が数社)であり(どうやら男子は産まれていないようですね)、結局、阿蘇家を継いだのは、五宮:彦御子神 - 一宮の孫(惟人命)で、そのお妃が 六宮:若比盗_ - 五宮の妃 だったのです。
そして、その若比唐ェ産山村の乙宮神社の娘であった事から乙姫様と呼ばれ、乙姫神社として祀られたのだと考えられるのです。
この乙姫様=若比が百嶋神代系譜の一枚=阿蘇系系譜(お騒がせ娘)だけに書き留められているのです(右→)。
問題は、この乙姫様=若比とは如何なる方かです。
これについては、次のお騒がせ娘系譜の全体を読み取る事によって分かってくるのです。
ご覧の通り惟人命と若比は腹違いの伯父と姪の関係にあり、惟人命は新(ニュウ)彦、新(ニュウ)姫の子であり、若比当スは新(ニュウ)彦と興ツ姫(草部吉見と宗像系市杵島姫の娘)の孫娘になり、高木大神の次女である拷幡千々姫の血を引く一族が阿蘇家の外戚であり実質的な本家なのです。
このことから、阿蘇家(事実上、惟人命と若比唐ノ始まる)の母方の実家=乙宮が鎮座する産山村が高木大神系の集落である事までが見えてくるのです。
それを阿蘇北宮(速甕玉=大山咋=日吉神社=山王宮…)の流れから出ているとしているところが、阿蘇家が公表している系譜と百嶋由一郎(お騒がせ姫)系譜と異なるのです。
その様な系譜を仕立てた背景に何があるかについての推定は、次に回しますが、一つは、阿蘇ツ姫が天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀ィ寒川姫→杉山姫(川崎など神奈川県内に杉山神社が数十社ある)と名を変えている背景にこの高木大神の孫娘が最終的にヤタガラス(豊玉彦)の妃として納まったという話が阿蘇家にとって好ましくなく、また、阿蘇北宮(速甕玉=大山咋…)とすることが、阿蘇家にとって有利だったからではないかと思えるのです。何故なら、阿蘇北宮の息子が贈)崇神天皇であり、その流れから藤原氏が出ていると考えられる事から、結果的に阿蘇家の出自をそちらに接ぎ木したように見えるのです。

百嶋由一郎神代系譜(お騒がせ姫)
研究のために神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください
最後になりますが阿蘇氏を批判したように思われるかも知れません。実際、偶然なのですが一部に阿蘇系の方もおられるものの当グループの中枢は大幡主系白族の後裔の方々が多く、阿蘇氏を敵視する向きもあります。しかし、この藤原の祖とも言える民族には敬意を抱いてもいます。それは、彼らが誇りと伝統を守るために漢族、鮮卑族、モンゴル族、女真族と2000年以上闘い続け、辺境の雲南省に追い詰められ遂に海南島を経由し列島に移動して来た人々であり、白族=天御中主命の一族とともに中国と最期まで誇りを持って戦い続けてきた日本を守る最も重要な民族である事を知っているからです。その意味では、阿蘇氏については許しがたい藤原の所業と重なるも評価を失わない奇妙なシンパシーを抱いているのです。