2022年01月21日

858 新潟に鳥之子三宮神社があった

858 新潟に鳥之子三宮神社があった

20210108

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


新潟市の玄関口とも言うべき越前浜に鳥之子三宮神社(神明社)を見い出しました。

これまでこの神社に関心を寄せて来た者としてある種感動をさえ涌き立たせてくれたのでした。

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この思いはこれまで書いてきた以下の文書をお読みになればお分かり頂けるでしょう。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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鳥子三宮神社の基底部を探る A

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鳥子三宮神社の基底部を探る @

634

熊本地震で被害を受けた西原村の阿蘇四ノ宮神社とは何か?

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鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社”

631

熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の宮山神社”

617

南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

604

西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の逃亡ルート

520

熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


それほどの思いがどこから来ているかと言うと、この鳥之子大神を祀る氏族の一つが鷲子山上神社と名を変えているものの、栃木県那須郡那珂川町という北関東の一角に鎮座している事を知り五年程前に参拝していたからです。

 当時から恐らく九州から対馬海流に乗り北上し柏崎刈羽辺りで上陸し山越えルートで北関東に入っているのではないかと考えていました。

 以前、新潟では弥彦神社周辺をかなり探索していたのですが、もう少し北に足を延ばしておけばこの神社に到達出来ていたかも知れません。

 再び、上越福井からさらに奥へと入る時があると思いますので、その際には必ず参拝させて頂きたいと思います。

 その意味では、多少先走りにはなりますが、中継地として想定していた神社を発見できたことは、望外の喜びになるのです。



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烏之子神社のある越前浜は400年以上前の姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党によって開かれたと言われています。つまり越前国から移住した人たちが開拓したことから越前浜と称されるようになったと伝えられています。


鳥之子神社のいわれ・歴史 鳥之子神社|越前浜-新潟県新潟市西蒲区 越前浜自治会による


少しご紹介したいので、もう少し他のサイトからご覧頂きます。


鳥之子神社 カーナビ検索 新潟県新潟市西蒲区越前浜4725

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越前浜の神明社は「鳥之子神社」と呼ばれて親しまれている。角田山の北,越前浜地区の南端に鎮座する。
「神社明細帳」(明治十六年)に「西蒲原郡越前濱村字上谷地 無格社・神明社」とある。
越前浜の集落は越前国から移住した人(姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党ともいう)によって慶長年間に開かれたと伝えられている。
移住のさい,荒天のため船が難破したが,岸から聞こえる鶏の声のおかげでこの浜辺にたどり着くことができ,以来,この地区では鶏をことのほか大切にしてきたという。鶏肉や卵を口にしない習慣も続いている。
伝承によると当社は,初め角田山の中腹に祀られて「トリノコサマ」「鳥の子明神」などと称したが,嘉永五年(1852)に現在地に遷したという。大正十年(1921)に村社に昇格した。祭神は天照大神である。

「にいがた百景」による

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「新潟県神社庁」のHPで検索しました扱いづらく、正確な神社名は確認できませんでした。

 ただ、以前、越前、越中についてはかなりの神社を実踏しましたのでこの天照大神を祀る神明社の祭祀には何度も出くわしていましたので、それで良いとしておきます。

 これが、鳥之子大神に先行するものか、並立するものかは未だ不明ですが、朝倉氏の残党が携えたものと言う話は極めてリアルです。

 そもそも、越後に越前浜なる地名がある事からして不思議でしたが、敦賀、大野の本拠地を失った朝倉氏の避退と共に持ち込まれたものとすると、神明社が先在神なのかも知れません。

 この朝倉氏については、全国に30前後の「朝倉」「朝来」地名が拾え、直接的には兵庫県養父市、朝来市(この地名そのものがアサクルと読めるのです)からの東方への展開であり、本拠地を弟に譲り発展的に敦賀以東辺に展開しているのです。

 ただ、その但馬の養父以前にも起点があるのです。それは、福岡県朝倉市そのものであり、さらに熊本県益城町まで(朝来山=チョウライサン)さらには宮崎県西都市まで遡るのです。

 これについては、以下を、詳しくは、さらに追従ブログをお読み下さい。

 ひぼろぎ逍遥

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「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏”

145

「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” 

144

「朝来」地名について @ “兵庫県朝来市の朝来山から”

 ひぼろぎ逍遥

515

但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”

514

朝来市の二つの若宮神社 “兵庫県朝来市の宮内と久田和の若宮神社”

513

朝来市を望む標高800メートルの山上神社 “兵庫県朝来市の青倉神社”

512

兵庫県養父市〜朝来市に掛けての若宮神社群 “兵庫県養父市大屋町の若宮神社”

306

朝来地名とは何か?


話が逸れましたが、この朝倉氏の一派に鳥之子の氏族(ヤタガラスと阿蘇都比売によって生じた製鉄集団)に含まれていた可能性を新たに考えざるを得なくなりました。

 今のところ現地を踏む事もなく勝手な推定を続ける事は出来ないため、熊本空港に近いこの鳥之子三宮神社の秘密に関わる部分について発信して終わりとします。


@ 鳥之子とは豊玉彦(ヤタガラス)と阿蘇高森の草部吉見神社の娘=阿蘇都比売との間に生れた鳥之子大神を奉斎し製鉄に携わる氏族である。

A 三之宮の意味は阿蘇氏の祖とされる健磐龍の腹違いの兄である高森の草部吉見神(ヒコハエミミ)=事実上の藤原氏の祖を阿蘇神社の祭神としての三之宮として扱い、その娘の阿蘇都比売を正妃としている事から敬意を込めて三之宮としている。

B ただ、この草部吉見の娘の阿蘇都比売は健磐龍とそりが合わなかったか離れヤタガラスの妃となっている。このことによって生じた一流が鳥之子という氏族である。

C 念のためにもう一つの鳥之子と呼ばれた氏族についても説明を加えておく。

本物の神武天皇に弓を引いたとされるナガスネヒコ(金山彦の娘櫛稲田姫とスサノウとの間に生れる)の妹武内足尼=オキツヨソ足姫とヤタガラスとの間に生じた氏族=武夷鳥も鳥之子と呼ばれている。

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D これも未確認であるが、百嶋氏は“古代の大家(オオカ)郷、(現)大分県の中津市、大江八幡宮の祭神が天日鷲命の子(二重線であることから姻戚関係による義理の子)が天富命”とのメモを残している。

以下は、越後の同胞に対する案内になるが、遠く古代から中世に掛けて阿蘇の西麓から移動した人々への呼びかけになる。彼らにはこの西原村から移住していった者の一部が含まれているはずであり、全く同名の神社を奉斎するほどその密度凝集度は高いと考える。このブログを見掛けた人々からルーツを探る人々が出てくるかも知れない。


勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神なのではない)の本物のお妃であったアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれ無題.pngている事から阿蘇家が神武天皇との関係を宣伝しているのです。ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性の格式がかった(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分がある事は否定できないでしょう。

 こういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。

しかし、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども実際には十分に理解されていたはずなのです。

 ともあれ、表向きの主祭神とされる三之宮とは阿蘇神社の三之宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事である事は間違いないでしょう。

 しかし、それは阿蘇氏が権勢を振るい始めて以降の話であり、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。

それこそが本来の祭神であったはずの鳥子大神(天日鷲)を中心とする神々だったと考えられるのです。

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ヤタガラスはカミムスビという有力者のプリンスであったために多くの氏族 豊秋ツ姫(高木大神の長女)、罔象女命(大山祗の長女)、櫛稲田姫(金山彦の娘=イカコヤヒメ)、木花咲弥姫(大山祗の次女後に前玉姫)、武内足尼(スサノウとクシナダヒメの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足姫)…と姻戚関係を結びます。ここまで確認できれば、次のステップに進むことができます。天日鷲=鳥子大神とは如何なる出自であるかです。そのためには杉山姫なるものが何かを知らねばなりません。

簡単に言えば、この杉山姫も阿蘇津比売(アソツヒメ)の別名でしかないのです。

ここら辺りからの話は現在の阿蘇宮司家(健磐龍系)が嫌がる話になるのですが、この阿蘇津比売は始め本物の神武天皇(後の藤原によって第10代とされた神武僭称贈る崇神ではない)の息子である第4代懿徳天皇(母は大山祗の姉大市姫=燕脂姫の娘アイラツヒメ)の妃になるのですが、後に別れ、阿蘇家の祖とされる健磐龍との変節を経て最終的にヤタガラスの妃となる時点では杉山姫と名を変えているのです。

これが神奈川県の川崎市などに集中する杉山神社なのです。要はかなり奔放な女神様だったのです。


天豊ツ姫⇒阿蘇津比売⇒天比理刀刀ヒ寒川姫⇒杉山姫


さらに説明を加えれば、“天豊ツ姫は第4代懿徳天皇の妃時代の名、阿蘇津比売は出戻り時代の復名、健磐龍による皇后陛下略奪、籠絡と応諾の結果の罵声が天比理刀刀i屁こき姫の意味)の名となり、最後は寒川姫、杉山姫は、しかたがなくヒコヤイミミがヤタガラスに頼み込み引き取ってもらって後の改名”と言った趣旨の話を百嶋氏はされていました。

百嶋由一郎氏は神社研究上は「熊本県神社誌」の編纂者であり人吉の青井阿蘇神社の宮司(神社長)でもあった上米良純臣の副官に近い存在だったのであり、神社中枢部では伝え知られた話だったようです。

ここまで解読した上で改めて西原村の性格を考えると、この地は阿蘇氏が熊本に進む出口のような場所であったと気づきます。今でこそ阿蘇谷に向かう白川右岸(北岸)ルートが主である事から錯覚しがちですが、地形から言っても阿蘇谷よりも南郷谷との関係、阿蘇神社よりも草部吉見系(年禰神社系)との関係が深い一帯であった事が見えてきます。そして、同村全域の祭神も解析すると単純に阿蘇系とは言えず、大幡主系=天御中主命=妙見=北辰の系統、とりわけ豊玉彦=ヤタガラス系の勢力が製鉄、製銅、冶金を行っていた事を強く意識するのです。

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百嶋由一郎お騒がせ姫神代系譜

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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