857 鳥子三宮神社の基底部を探る A
20210106
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
今回は鳥子神社と呼ばれる神社が外にもあるのかという切り口から話を進めます。
一般的に正体の分からぬ神社の解析をする場合、同名の神社を広く探りその中からその本質を探る帰納演繹的方法を使うのですが、類例が無いか少ない場合はほとんど方法がなく、何らかの指針なり決め手が必要になるのです。
ただ、この鳥子神社については非常に幸いなことに60数年間神社を調べてこられた故)百嶋由一郎氏による資料が残されていました。このメモによれば、鳥子にはもう一つの系統があるのです。ただ、西原村のそれは天日鷲の系統であり武夷鳥ではないのです。

実はもう一人の鳥子と呼ばれる神がいるのです。
それは武夷鳥の一族で母神は神武天皇に弓を引いたとされる金山彦の娘櫛稲田姫とスサノウとの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足ヒメとの間に生れた氏族としているのです。
また、もしかしたらその2流とは別に神主玉もの可能性があります。ヤタガラスはコノハナノサクヤと一緒に鹿児島県旧溝辺町周辺に移動しているのです。その後、皆さん良くご存じの富士山浅間神社から埼玉県の稲荷山鉄剣出土の稲荷山古墳正面の前玉神社(埼玉県の地名起源)として祀られるコノハナノサクヤとヤタガラスの間に生れた氏族ももう一つの鳥子であると百嶋由一郎氏はメモを残しているのです(下向き↓の矢印は鳥子へ…)。
ただここで確認すべきは、西原村の鳥子とは阿蘇都姫とヤタガラスの間に生じていることです。
百嶋由一郎鳥子系譜(上) 百嶋由一郎手書きメモ百嶋神社考古学初期01(220813)通信文(下)

この前玉神社については以下を参照して下さい。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
23 | コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 |
ひぼろぎ逍遥
67 | 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る |
ここで鳥子神社の他の類例探ることにしましょう。
一つは西原村の鳥子からの入植と思われる方々が造った熊本市西区の神社です。
@ 阿蘇神社(半田鳥子神社)

神社の近くで遭遇した農家の方にお尋ねすると、この地区には小さな神社が地区ごとに在るとのこと、干拓地が形成された時代に入植した人々が各々の神社を持ち込んだ事が良く分かりました。
社殿を見ても、参拝殿には西原村の鳥子神社の記事が、また「熊本県神社誌」からのコピーが掲示されており、この氏子の皆さんが西原村からの入植であることを強く意識されている様に思いました。

参拝殿には明治の神名帳と思われるものが残されており、筆頭祭神を坂合部神(鳥子大神)としており、西原には伝えられていないようです。これについては更に別稿として書きたいと思います。
A 鳥之子神明神社(新潟県新潟市)

鳥之子神明神社 カーナビ検索 新潟県新潟市西蒲区越前浜4725
越前浜の神明社は「鳥之子神社」と呼ばれて親しまれている。角田山の北,越前浜地区の南端に鎮座する。「神社明細帳」(明治十六年)に「西蒲原郡越前濱村字上谷地 無格社・神明社」とある。
越前浜の集落は越前国から移住した人(姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党ともいう)によって慶長年間に開かれたと伝えられている。
移住のさい,荒天のため船が難破したが,岸から聞こえる鶏の声のおかげでこの浜辺にたどり着くことができ,以来,この地区では鶏をことのほか大切にしてきたという。鶏肉や卵を口にしない習慣も続いている。 伝承によると当社は,初め角田山の中腹に祀られて「トリノコサマ」「鳥の子明神」などと称したが,嘉永五年(1852)に現在地に遷したという。大正十年(1921)に村社に昇格した。
祭神は天照大神である。 (にいがた百景)による
この神社は今回初めて知ったもので、そのうち実踏させて頂くつもりです。
さて、北陸に行くと「明神社」と称する天照大御神を祭祀する神社にかなり遭遇します。
主神とはされていますが天照はカモフラージュのようにも思えます。注目すべきは西原村の鳥之子三宮の八兵衛さんの話と重なる「トリノコサマ」が確認できるのです。
もう一つ目を引いたのは西原村と同様に神殿が覆い屋に守られる鞘殿形式だった事です。
雪深い土地ゆえ単純には言えませんが、物部氏に多いと言われる鞘殿には何らかの共通性を感じます。
B 鳥子山上神社(栃木県那須郡那珂川町)
こちらは5〜6年前に実踏した神社です。詳しくは以下を読んで頂くとして、概要をお話しします。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
336 | 栃木、茨城県境に跨る鷲子山上神社北関東への神社調査 D |
栃木県那珂川町に鷲子山上神社という一風変わった神社があります。
普通の意味では特別見晴らしが良い訳でもなく、ただの辺鄙な山の一角にある神社なのですが、当時も紅葉の季節であり、何故か多くの参拝客が押し掛ける神社となっているのです。
まず、鷲子(ワシコ)山神社付近には、鷲子(トリノコ)沢川、鷲子(トリノコ)、鷲子(トリノコ)、鳥居土(トリイド)といった地名が拾えます。従って、元はトリコ、トリノコと呼ばれていたのでしょう。
何よりも、西隣にはJR烏山線が通り、栃木県那須鳥山(カラスヤマ)市(烏山町)までがあるのですから。

これはこの一帯に大幡主、豊国主(ヤタガラス)の一族が入っている事を示しているようです。
そのことを念頭に置いたうえで、同社も考える必要があるでしょう。
とにかく、ここでは鷲の子はフクロウに形を変えているのでしょうか?
実際に参拝客が増えている様である事からそれなりに真面目に考える必要はあるのかも知れません。
さて、HPを見る限り、「鷲子山の御祭神は、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)といわれる鳥の神様です。」とあるのですから、まずは、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)とは誰かを考えておく必要があるでしょう。
比較的有名で、神社研究者ならずとも直ぐに念頭に浮かんでくる神様のお一人です。
天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する神。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。
別名は、高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命や天加奈止美命。 …中略…
神話で知られているのは天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、この神(天日鷲神)が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。
『日本書紀』では天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とある。
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。
また天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。忌部神社や鷲神社などに祀られている。
ウィキペディア(20161203 19:11)による
もちろんこの方向で問題はありません。



阿蘇系譜A
百嶋神代系譜によれば、天児屋根こと阿蘇高森の草部吉見=春日大神=鹿島神社の武甕槌の娘で阿蘇神社の健磐龍の妃となったものの問題が起き、最期は豊玉彦=ヤタガラスのお妃として納まった阿蘇ツ姫の子が天日鷲でありその子が天富命です。
阿波の忌部の祖ともされる天日鷲ですが、その子かその一族が北関東に進出してきたのでしょうか?
この鷲子山付近には富山という地名も拾え、富山川という川も流れています。
結局、北関東には北関東の土着の神様などがおられるのではなく、全て、九州、九州王朝系の一族が進出、避退、征服…により展開している事が見えるのです。
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阿蘇系譜B