20211227
太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久

熊本県下では既に何度かの神社トレッキングを行っています。色々なスタイルで試みましたが、なかなかパーマネントな形では定着せず、熊本県在住メンバーだけでは過去十回程度しか行っていません。
今般、車2台程度で動きやすい10人弱のトレッキング・メンバーが揃いましたので、2〜3ケ月に一度程度の日程で継続したいと考えています。そこで取り上げたのが氷川町でした。既に2018年03月に太宰府地名研究会で20人規模のトレッキングを取り組みましたが、今回はその成果をご確認頂きたいと考えています。集合は下記の通りですが、できれば10時集合にして八代の霊符神社に向かいます。
集合場所 道の駅 うき サンサンうきっ子 宇城彩館 カーナビ検索熊本県宇城市松橋町久具757-3 @ 妙見宮 カーナビ検索 八代市妙見町405 0965-32-5350 A 霊符神社 カーナビ検索 八代市妙見町妙見宮東隣 B 霊符神社 宇城市小川町西海東1395-1海東郵便局先から川沿いに右折 途中に湧水地あり C 宮原三神宮 カーナビ検索熊本県八代郡氷川町宮原491 492の三神宮前 パス可能銀杏が秀麗 D 香取神社2社 下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社で す。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか? E 香取神社 カーナビ検索熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社(こちらはご自分で…) F 鹿嶋神社 カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773 余裕があれば廻ります |
熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、この地こそ火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきた土地であり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの理由があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずにこれまで前進を阻まれてきました。特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。つまり、連続していないのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、長年神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラスと関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の初夏にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられており、有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると、九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できます。
これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。
熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、こここそが火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきたのであり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの意味があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずに、これまで前進を阻まれてきました。特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。つまり、分断されているのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、多くの神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。そして、肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラス=豊玉彦と関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の秋にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。
この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられます。有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できるのです。
これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。
火の君を頼り百済の王族が亡命してきたとの神社伝承が肥前の稲佐神社と肥後の二つの霊符神社に残り、その亡命地と見られる場所に東海東、西海東という朝鮮風(「海東諸国記」)の地名が認められる事から、やはり氷川流域に火の君の拠点が存在したと考えられそうです。
当然にも、この一帯に阿蘇系神社が少ない事からこの「火の君」は阿蘇氏が勢力を拡大して以降に「火の君」との表記に変えられ阿蘇氏の先祖神と描いたものと理解していますが、ここでは、一応、「氷ノ君」(これも冷水が注ぐ氷の川の意か)、「日ノ君」、「肥ノ君」(貶めた表記かも)、「干ノ君」「櫃ノ君」(樋島)の可能性もあるとしておきます(上代特殊カナはせせら笑っています)。ただ、右の画像をご覧ください、今回取り上げた三社もこの円内に入っているのです。もしかしたら、雲仙普賢岳をシンボルとしているのかも知れません。というより、それ以外にはありあえないとさえ思うのです。
火の君とは歴代の橘一族だった 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”
九州の古代史には火の君が横たわっています。
九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。

ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。
世界大百科事典 第2版の解説
まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びついて、ようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。
そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそが橘一族であり「火の君」の後裔でもあったのです。
まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。
十分にお読み頂けると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。同社の伝承によると百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。
ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を好い加減な所で纏めるために折半したものであり、当然、糸島半島の「志摩」に決まっているのです。学者、教委、学芸員は馬鹿か嘘つきか!?
一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。
稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる

佐賀県白石町稲佐神社(万葉の杵島山東麓) 県道傍の境内地に置かれた解説文
466 | 杵 島 A 2/2 |
465 | 杵 島 @ 1/2 |
505 | 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見 |
508 | 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった |
詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505、508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。
阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]
『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。
日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。
このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。
ウィキペディア(20171225 01:14)による
聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523〜554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)
日本大百科全書(ニッポニカ)による

霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。
その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと考えられるのです。
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