854(前) 古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 疋野神社
20201215
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
熊本県玉名市に疋野神社(温泉神社とも)があります。この神社については以前から難題だったのですが、最近になってようやくその存在をある程度は理解できるようになってきましたのでこれまでの数十本のブログを簡略化し一般にも分かり易くお知らせしたいと思います。

大陸から列島を目指せば菊池川河口の玉名辺りに上陸しそうですよね
まず、この問題については ひぼろぎ逍遥(跡宮)で連載してきました(以下)。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
836 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か M “大帯姫か大足姫か?” |
835 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か L “ツヌガノアラシトは何を…?” |
834 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か K “スサノウは姫島に来たのか” |
833 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か J “国東の姫島から周防の柳井へ”(下) |
832 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か I “国東の姫島から周防の柳井へ”(上) |
831 | 「古事記」中つ巻 孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫を 妃とした開化天皇の祖父神” |
830 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か H “肥後から姫島、国東へ” |
829 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か G “櫛稲田姫は山鹿の稲田村で生れた” |
828 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か F “大宮神社の境内摂社” |
827 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E “大宮神社の本来の祭神は金山彦” |
826 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か D “玉名、山鹿から国東、姫島へ” |
825 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か C “では大帯八幡社とは何なのか” |
824 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か B “何故仲哀を祀るのか” |
823 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か A "仲哀を祀る八幡宮群” |
822 | 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か @ “消えた祭神を求めて” |
821 | 「古事記」中つ巻 孝安編 G“孝安は熊本県玉名市に いた景行の父神” |
820 | 「古事記」中つ巻 孝昭編 F“孝昭は阿蘇高森の 草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ” |
819 | 「古事記」中つ巻 懿徳編 E“懿徳は安寧の子でなく神武の で僅かに倭人伝にも登場する” |
818 | 「古事記」 中つ巻 安寧編 D“謎だった安寧天皇とは博多の 櫛田神社の大幡主=カミムスビだった” |
817 | 「古事記」 中つ巻 綏靖編 C“阿蘇氏の祖には神武の血統が 継承されているとは言えないのだが…” |
816 | 「古事記」中つ巻 神武編 B“槁根津日古とは神武僭称贈る 崇神の弟だった” |
815 | 「古事記」中つ巻 神武編 A“神武巡幸と神武僭称贈る崇神 の神武東征とを分離しよう” |
814 | 「古事記」中つ巻 神武編 @“笑ってしまいますが…宇沙都 比古が神武を迎えたと言うのです” |
勢いだけで書いてきたこの玉名から姫島までの古代史のドラマでも最も面白い誰も取り上げないテーマが疋野神社の奥深く祀られているはずの第6代孝安天皇だったという話の再構成です。
以下一部再掲載
821 「古事記」中つ巻 孝安編 G “孝安は熊本県玉名市にいた景行の父神”
「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。
「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。
たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。
こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。
今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第六代孝安天皇 大倭帶日子國押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシ)命についての話です。
これも実に短い文章で、近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も現場を知らないで(始めは知って隠していたのでしょうが、今や皆が忘れてしまっている)奈良に無理やりあてはめた事を物語っています。
この孝安天皇も皆さん良くご存じの草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミの子でしかないのです。
つまり、周王朝後裔呉太伯系の正統皇統の中に後の藤原に続く一族を天皇扱いにし挿入しているのです(勿論やったのは後の話ですが…)。ただ、このことを現状で証明する事はできません。
何故なら、証言できる人は当然にも口を噤むはずですし、直接聴き込んだ人、つまり、百嶋先生は鬼籍に移動されているからです。
百嶋先生は元々熊本県でお生まれになり、現在の玉名市にお住まいでした。一族からは五高〜東大が何人も出たし、戦前の全国納税者番付百傑の中に一族の者が三家入っていたとおっしゃっていました。
当然にも、地元の実力者、名士でしたから、神社だろうが寺院であろうが生の情報を得る事が出来たとおっしゃっていました。それは、帝国大学の学者にも教えられない様な極秘の社伝、家伝…と言ったものであり、なおかつ、まだ、当時は優秀な宮司、禰宜による秘密の神社研究会が継続されておりその内容を得ていたという意味で語っておられました。
ただ、ペイペイの駆け出しである私達にはそれ以上の詳しい話をされる事はありませんでした。
このため、数年と言う短期間の接触の間にはとても真相はおろかその概略さえも聴き出す事はできませんでした。ただ、伝え聞いた話の断片からその研究会がどこで行われていたかだけは、最近になって見当が付きました。それはメンバーのブログ「ひろっぷ」さんの周辺から分かりました。熊本県人吉市でした。
以下、による
大倭帶日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也 此天皇娶姪忍鹿比賣命 生御子大吉備諸進命次大倭根子日子賦斗邇命【二柱 自賦下三字以音】 故大倭根子日子賦斗邇命者治天下也 天皇御年壹佰貳拾參歲御陵在玉手岡上也卅八年秋八月丙子朔己丑、葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵 |
大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおし)の命(みこと)、葛城(かつらき)の室(むろ)之(の)秋津嶋(あきつしま)の宮(みや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)姪(めひ)忍鹿比売(おしかひめ)の命を娶(めあは)せ、生(あ)れましし御子(みこ)、大吉備(おほきび)の諸進(もろす)の命、次に大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命【二(ふた)柱なり。賦自(よ)り下(しもつかた)三字(みじ)音(こゑ)を以ゐる。】 故(かれ)大倭根子日子賦斗邇の命者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 天皇の御年(みとし)壱佰弐拾参歳(ももとせあまりはたとせあまりみとせ)にて、御陵(みささき)は玉手(たまて)の岡上(をかのへ)に在り[也]。 |
大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしのみこと)は、葛城(かつらき)の室(むろ)の秋津嶋(あきつしま)宮にいらっしゃり、天下を治められました。 この天皇は姪の忍鹿比売命(おしかひめのみこと)を娶り、皇子(みこ)大吉備(おおきび)の諸進命(もろすのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)の二柱を生みなされました。 そして、大倭根子日子賦斗邇命は、天下を治められました。 天皇は御年百二十三歳にて、御陵は玉手(たまて)の岡の上にあります。 |
このため、我々百嶋神社考古学の者は既に結論を得ている事から証明とか論証を行なっている訳ではなく、ただの調査として百嶋由一郎が把握し考えていた神代史の真実を多少とも復元し、一般の方にも分かるように裏を取り、現地を踏みお伝えしているのです。
当然にも贈る天皇とされた後の孝安天皇についても、地元も地元の社伝としての生情報を秘密裏に直接聴き及び回収される立場に在られたのでした。何故ならば先生はこの玉名市の大地主の御曹司だったからです。本題です“大倭帶日子國押人命”ですが、この神を祀るのは熊本県玉名市の疋野神社です。
