666 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 甲佐神社 祭神編
20210704
太宰府地名研究会 古川 清久

この神社の八井耳玉命、健磐龍命、蒲池媛命神、日本磐余彦尊(神武天皇)、媛蹈鞴五十鈴媛命、猿田彦命という祭神については、多少の違和感を持ちます。
八井耳玉命が阿蘇北宮=国造神社の速瓶玉=大山咋であると分かって少し落ち着くのですが、草部吉見とタクハタチヂヒメの娘である阿蘇都比売=天豊ツ姫と健磐龍の間に産まれた雨宮姫が八井耳玉命のお妃と分かり、八井耳玉命、健磐龍命の意味がようやく分かるのです。
次の問題が蒲池媛命神・日本磐余彦尊(神武天皇)です。百嶋神社考古学の立場からは、蒲池媛命神(郡浦神社の主神)とは本物の神武天皇のお妃であった吾平津姫が神武から離れた後の名であることから、この意味が分かるのです。とすると媛蹈鞴五十鈴媛命が宙に浮き、神武僭称贈る崇神の妃でしかない五十鈴姫を持ち出してしまう事になっているのです。最後の猿田彦も実は山幸彦=ニギハヤヒであることから、
阿蘇系神社にしては原初的配神がそのまま残されている様に見えるのです。とりあえずここまでとしますが、この神社の全く知られていない側面を後段でお知らせしておきます。

祭神 八井耳玉命・健磐龍命・蒲池媛命神・日本磐余彦尊(神武天皇)・媛蹈鞴五十鈴媛命・猿田彦命
↑ ↑ ↑ 崇神の妃 ↑
大山咋 神武のお妃アイラツヒメ 崇神ではなく本物の神武 荒木の静ちゃん 山幸彦
主祭神の八井耳玉命が分かり難いと思いますが、阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)と宗像三女神の市杵島姫の間に生まれた大山咋=日枝神社=山王宮=日吉神社=松尾神社の事と考えられます。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
ヒメタタライスズヒメも厄介ですが、本来、本物の神武天皇の本物のお妃(懿徳天皇を産んだ)は吾平都比売(アイラツヒメ)なのです。
対して、神武僭称贈る崇神天皇は大山咋=大直日と鴨玉依姫(下賀茂大社)との間に産まれるのです。この崇神を初代神武に見せ掛けようとするのが後の藤原の偽装工作であり、朱塗りの矢故事、ホトタタラの故事に絡むのはこの大山咋神、鴨玉依姫 絡みの話なのです。
つまり、百嶋神社考古学では大山咋と鴨玉依姫との間に産まれたのが神武僭称贈る崇神(上賀茂大社)であり、この甲佐神社の主神こそ贈る崇神の父神だったのです。
非常に分かり難いのですが、五十鈴姫(黄枠)が媛蹈鞴五十鈴媛命と考えています。
下賀茂神社では、祭神である玉依姫(百嶋神社考古学では鴨玉依姫として神玉依姫など他の幾つかの玉依姫と区別している)と同じくその父賀茂建角身命(カモタケツノミ=豊玉彦=ヤタガラス=賀茂御祖大神に関わる話で、賀茂建角身命が川から流れてきた朱塗りの矢を家に飾ったところ玉依姫が懐妊したという話になっています。そこで生まれたのが賀茂別雷神(=神武僭称贈る崇神)で上賀茂神社の御祭神とします。現在、上賀茂神社は賀茂別雷神社と下鴨神社は賀茂御祖神社が正式名称とされています。
この栄えある鴨玉依姫をお妃としたのがこの甲佐神社の主神なのです。
ヒメタタライスズヒメは、『日本書紀』に登場する人物・女神で、初代天皇・神武天皇の皇后。『古事記』のヒメタタライスケヨリヒメに相当する。 伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いで皇后となり、2代天皇の綏靖天皇を産んだとされている。 ウィキペディア20210710 14:15による
神武天皇の妃。日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの第二代・綏靖天皇)の母。 『日本書紀』では、神八井命、神渟名川耳尊(のちの第二代・綏靖天皇)の母。
神武天皇は橿原宮で即位されたあと、新たに皇后とする娘を捜されていた。 そこで、大久米命が富登多多良伊須須岐比売(比売多多良伊須気余理比売命)をすすめた。
三島溝咋の娘に、勢夜陀多良比売と呼ぶ大変美しい比売がいたが、この比売を三輪の神(大物主神)が見染めて結婚した。 そして生れた子神が富登多多良伊須須岐比売である。
勢夜陀多良比売が便所で用をたしている途中、大物主神は丹塗矢に化して比売の陰部を突いた。 比売はびっくりしたが、それでもその矢を床の間に置いた。ところが矢は立派な美男子に変ったという。
富登多多良伊須須岐比売はの富登は、母神が丹塗矢と化した大物主神に陰(ホト)を突かれたことによる。 神の矢が女陰に立ったので、あわてたという意味らしい。
『日本書紀』では、媛蹈鞴五十鈴媛命とある。 ある人が「事代主の神、三島の溝橛耳の神の娘・玉櫛媛に共ひて生める児、号を媛蹈鞴五十鈴媛命と日ふ。 こは国色秀ぐれたる者なり』と勧め、王妃としたとある。
敬愛する「玄松子」様による

百嶋由一郎017阿蘇系譜@(部分)
最後に、この神社が置き換えられたものが石川県にありますのでご紹介したいと思います。

式内社 能登國羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古神社 旧郷社
御祭神
阿良加志比古神 配祀 都努加阿羅斯止神 …
…境内社には大きな薬師社があるが、境内の奥に参道が続き、加茂社が鎮座。
正確には、薬師社は境内末社だが、加茂社は境外社として別の神社。
当社には、境外末社が19社あるらしいが、その中の一社なのだろう。
創祀年代は不詳。俗に熊甲宮、通称は、お熊甲とも称する神社。本地仏は薬師如来だったらしいので、境内社・薬師社は、ようするに本社の分身なのだろう。 初め、祭神は西岸村瀬嵐に漂着され、後に熊木村上町高瀬の森に鎮座し、さらに現在地に遷座したという。
式内社・久麻加夫都阿良加志比古神社に比定されている古社。 祭神は、阿良加志比古神と都努加阿羅斯止神。一説には、阿良加志=阿羅斯止とされ、同一神とも。また、熊木郷(熊来郷)の総社だが熊木は高麗来、つまり高麗から渡来した神。あるいは高麗甲を被った、阿良加志比古神というのが社号の起こりだとも。 前田氏の崇敬が篤かった神社で、明治六年郷社に列した。
中島・白山社、深浦・白山社、長浦・加茂社、浜田・八幡社、谷内・白山社、小牧・白山社、中島・熊野社、横見・八幡社、別所・白山社、瀬嵐・人麿社、山戸田・本宮社、上町・市姫社、中島・菅原神社、中島・愛宕社、横田・八幡社、外・加茂社、田岸・菅原神社、宮前・加茂社、外原・神明社。この中の宮前・加茂社が、境内奥の加茂社だと思う。
敬愛する「玄松子」様から引用
故)百嶋由一郎氏は「この神社の熊甲の意味は熊本の熊、甲佐神社の甲です」と言われていました。
私も7〜8年前に白山姫神社から同社を訪問し、周辺の神社を可能な限り見て廻った事が今も蘇って来ます。これについては、以下で取り上げていますのでお読み頂いても良いのですが、百嶋先生もネットを使わない時代から良くこの事に気付かれていたものと改めて感心するばかりです。
ひぼろぎ逍遥
158 | 阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 B | |
157 | 阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 A | |
156 | 阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 @ | |
285 | 北北東に進路を取れ! D 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社 | |
皆さんは、この久麻加夫都阿良加志比古神社 の祭神 阿良加志比古神 配祀 都努加阿羅斯止神
熊本の甲佐神社の主神 大山咋 その子 崇神 であることに気付かれますか?
百嶋先生はそうお考えだったのです。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。
『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。 意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。…
…『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。…
…氣比神宮(福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする。また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)はその政所跡であるとし、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210711 12:30による

甲佐神社からは緑川河口から当時島だったと考えられる宇土半島の南から天草沖に出て対馬海流に乗り半島の伽耶へ伽耶(新羅)からは対馬海流で自然に進めば博多には行けず敦賀から能登半島へ、博多へは対馬海流の反転流を利用し九州へ…このようなコースで移動していたはずなのです。
つまり、クマカブトアラカシヒコとは熊本の甲佐町と新羅の安羅伽耶からやってきたカジヒコ舵取りの男という意味なのです。
その子贈る崇神(ツヌガノアラヒト)も敦賀にやって来た安羅伽耶の人という意味だったのです。
びっくりされたとは思いますが、甲佐神社とは熊本がウォーター・フロントだった古代、博多と同様の国際貿易港の様な性格を持っていたのでした。
その後もアリシトの子日羅でも知られる様に、芦北から百済へ頻繁に往来し、百済の達率の地位まで上がった人物も肥後は生み出しているのです。

古代国家 伽耶の歴史は、西暦400年高句麗広開土大王が朝鮮半島南部の伽耶と倭の兵を攻略したことを基点に、洛東江下流地域を中心に繁栄した前期伽耶(左図)と内陸地域を中心に繁栄した後期伽耶(右図)に区分される=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社
「今日の慶尚南道地域を中心に繁栄した古代国家伽耶は、首露王など六兄弟が建国した六つの小さな国々で構成され、互いに連盟を結び仲が良かったが、新羅に征服された」
これが伽耶に関する一般的常識だ。しかし、各種の研究成果を総合してみる時、これは歴史的事実とは全く距離が遠い。六つの国が兄弟のように仲良くしていたというのは『三国遺事』の記録のために作られた虚構に過ぎないというのが、伽耶関連研究成果の総合結論だ。
「慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団」は16日、『伽耶史総論』『伽耶古墳群1』『伽耶古墳群2』の三巻で構成された『伽耶古墳群研究叢書』を出した。研究叢書は「伽耶史の時期区分と空間的範囲」「伽耶古墳群の形成過程と景観の特徴」「文献で見た伽耶の対外交流」など計25章で構成され、大学・博物館・研究院など20の機関の専門家25人が一章ずつ分けて執筆した。
研究叢書は「『三国志』『三国史記』『日本書紀』などを総合的に分析する時、政治体制としての伽耶は2世紀から存在するが、文化成立時期を含めれば伽耶の歴史は紀元前1世紀から大伽耶が滅亡する562年までの600年余りに達する。また伽耶は、12個以上の小さい国々で構成され、高句麗・百済・新羅の三国とは区分される独自の歴史を持っている」と結論付けた。
全盛期の伽耶の領域は、東は釜山と慶尚南道梁山(ヤンサン)・密陽(ミリャン)まで、西は全羅北道南原(ナムウォン)・長水(チャンス)と全羅南道谷城(コクソン)・求礼(クレ)・光陽(クァンヤン)・順天(スンチョン)など湖南(ホナム)東部地域まで達した。したがって伽耶を除く高句麗・百済・新羅の三国だけが朝鮮半島に存在した期間は、伽耶の滅亡以後、660年に百済が滅亡するまでの100年にもならなかった。
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