2021年06月11日

ビアヘロ180 5回も追加実施した“出雲の国譲りは旧朝倉郡で起こった”トレッキング(下)

ビアヘロ180 5回も追加実施した“出雲の国譲りは旧朝倉郡で起こった”トレッキング(下)

20210528

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


20214月末(Gウイーク前)当会は北九州市を中心とする丁巳歴史塾との合同トレッキングを行ないました。

予定した日が過去二回ほど雨で流れたことから、三度目の正直といったところだったのですが、ようやくの上天気で二十数名によるトレッキングが無事終わりました。

ただ、昔の様に土日はどちらも休みですから…といった労働環境が崩れ、非正規のパート労働が広がってくると土曜日は行けるけれど日曜日は仕事だから…という方が多くなり、結果的に、二度も三度も追加トレッキングを行なわなければならなくなっているのです。

そこで、5月の春日市の若き大国主祭祀が確認できるトレッキングまで都合5回の追加トレッキングを行ない、暫くして7回目もやろうかとも考えている所なのです。

ここでは、このトレッキングのリポートを行なおうと思うものです。

実際、同じエリアで6回もトレッキングを行なうと、くたびれはて、事実、膝を痛めて今も体調を崩している状態にあります。

しかし、苦労すればそれなりの代償はありますし、新たな発見もあるものなのです。中でも新規で飛び込み的参加者が3組ほど現れたことです。自らの意志で参加を求めて来られる方は、誘って参加されるよりも十倍以上の継続性がある方が多く、そのような方が都合3組も加わられた事は有難い事でした。

ともあれ、雨で数回延期した朝倉のトレッキングは延40数名の参加となり、行動する古代史、神代史ファンを得られた事は有難い喜びでした。

加えて、ここ二十年近く古代史関係のブログを書いておられる朝倉市(甘木)の方との接触も産まれ、朝倉周辺でのテーブルに着いた講演会、研究会の実施も考えなければならないと思うようになりました。


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まず、トレッキングの配布資料をご覧頂きたいと思います。

参加人数が多くなると、機動性に欠けトレッキングには不向きであることは言うまでもありませんが、一緒に行動すると言う事は同じ現場を見ていると言う共感をおもたらし同じ釜の飯を食う効果を産み出しますし、現場と机上の論理の融合性を意識した立論は非常に大きな効果を得ることができるのです。

何よりも数十〜百キロ近く離れた人々が一堂に会して同じ神社群を観察すると言う機会を持つことがどれほど重要な事が分かってくるのです。

事実、今後も会の活動に参加してくれるであろう新規のメンバーがその中から得られるだけでありがたいのです。では、当日のトレッキング資料をご覧頂きましょう。

2021411日(日) 大国主の国譲りの現場(元出雲)は朝倉郡を探るトレッキング (案)

20210328

太宰府地名研究会 古川 清久

 オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


同日雨の場合、当日は中止とし延期とします。(事実日程は3月以来雨のため何度か変更しています)

午前1100に朝倉市甘木380イオン甘木ショッピングセンター(甘木IC東隣)P正面県道側

2021328日(日)10:00〜(予定)15:00 雨天の場合は4月第4週 日曜に延期(参加は要連絡)

                       尾杖代 古川 清久(太宰府地名研究会 編集員)

集合:朝倉市福岡県朝倉市甘木380イオン甘木ショッピングセンターP

お賽銭は各自ご用意下さい!


@ 倭五玉神社  倭の五王の一族の墓地を守る神社か?謎の群集墓があり久留米の人達が掃除に来る

  献身的にこの神社を守る人々がおられますのでできるだけ賽銭を奮発してあげて下さい!

A 松尾神社   現在は大山咋を祀るも元は田神社(無格社)しかも山鹿市菊鹿町の松尾を勧請する

B 高住神社   彦山(高木大神)の出張所か?

C 田神社    町中の本町公民館に隣接するかつての遊水地にあり堂々たる鎮守の社がある

C 昼食休憩   仮 案 筑後屈指のうどん店「大國屋」広い駐車場と床面積(朝倉水害の犠牲者)

D 大巳貴神社  九州の古代史家、学芸員も分からぬ大国主祭祀 この事を知らない人も多いが…

E 田(天神)社 大国主の国譲りの「日隅宮」はここだった 奪われた葦原中津国が見渡せる場所!

F 老松神社   朝倉市下渕840

G 寄志神社   朝倉郡を見渡す謎の古社肥前盲僧、傀儡の拠点か?

@ 倭五玉神社  保安のため公表できません!  倭の五王の一族の墓地を守る神社か?謎の群集墓

A 松尾神社   カーナビ検索  朝倉市古賀203   現在は大山咋を祀るも元は田神社(無格社)

A 松尾神社に替えて西宮神社に行くかも! 事代主を祀る西宮神社か? 朝倉市甘木1846

B 高住神社   カーナビ検索  朝倉市朝倉市柿原1048番 もしかしたら彦山の出先機関だった?

C 田神社    カーナビ検索  朝倉市甘木633-1  町中の本町公民館に隣接するかつての遊水地

  余裕があれば甘木公園の田神社もお見せします

昼食休憩  朝倉市千手255-1    仮 案  筑後屈指のうどん店「大國屋」広い駐車場と床面積

D 大巳貴神社  カーナビ検索  筑前町弥永697-3  古代史家、学芸員も知らぬ大国主祭祀

E 田(天神)社 カーナビ検索  筑前町弥永1172   大国主の国譲りの「日隅宮」はここだった

F 老松神社   カーナビ検索  朝倉市下渕840   形を変えた大幡主系祭祀か?

G 寄志神社   カーナビ検索    朝倉市楢原664    朝倉郡を見渡す古社肥前盲僧、傀儡の拠点?

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まず、倭五玉宮ですが、倭の五王のイメージを振るい脱げません。しかも松野連系図を見ると、零落したこの一族は、倭国王哲、満から牛慈になると夜須の評督へと降格され、次も長堤、大野と評督以下と身を窶していることが分かるのです。この本拠地が筑後久留米だったとしてこの神社の価値は余り有ます。

 理由は簡単で、百嶋神社考古学の立場からは、田神社=タノカンサー=大幡主+大山祗の第二世代が大国主命=大己貴だからです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分) 


さて、大国主命の国譲りの話はどなたも良くご存知ですが、国を空け渡し高木大神(高皇産霊尊)から天日隅宮を建ててもらい、天穂日命に祀らせたとされています。

 百嶋神社考古学では、この天穂日命こそ田神様のお一人の大幡主(埴安命)の息子であるヤタガラスになりますので、それだけでも話が繋がってきますね。

「天穂日命」がヤタガラスであることについては、ひぼろき逍遥 175 「天穂日命(アメノホヒノミコト)とは」を併せてお読みください。

以前から、何故、筑前町と旧甘木市との境に縣社クラスの大己貴神社が置かれていたのかが分からずに奇妙に思ってきました。

普通なら、一定の領域の中心部若しくはその背後の高台といったところに置かれるはずなのですが、筑前町が朝倉市(旧甘木市)に突き出した先端のような場所に置かれているのです。

してみると、大国主命の転居先が、故地(古地)が見える隣町(隣国)に置かれたと考えればすんなりと理解できるのです。

では弥永の田神社の新旧の神社縁起をお読みください。

お読みになれば分かるように、まず、筑前町大字弥永に日隅宮という字があった(元々そこに大国主命の社があったと考えられそうですが、それが、国譲りの元宮があったという名残を持つ地名なのか?それとも国譲り以前の宮があったという痕跡地名なのかは今のところ分かりません)事はまちあいないようです。

そうなると、やはり、甘木、朝倉の一帯が国譲りに関わる故地であったようです。

最低でも、この筑前町弥永の田神社からそう遠くない所に本当の出雲の日隅宮(大国主の国譲りに関わる重要な地名)とも考えられる重要な内容を積極的には触れたくないようです。

「出雲の国譲りの話が九州であるはずがない…」と言う通説になびくお役人の発想です。

普通なら、使えるものなら何でも利用して町興しと村興しと大はしゃぎで使いそうなのですが、「日本書記」、朝廷、天皇…に繋がるとなると、既存の権力に尾を振り自己規制してしまうのでしょう。

結局、九州王朝論の立場に立つものしかこの驚愕の事実を掘り下げる事はできないのです。


出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇607月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)

ウィキペディア (20160629 23:00)による

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これから、日隅宮を探す作業に入らなければならないようです。

 勿論、もし、小字日隅宮が国譲り以前の宮の名称でもあるのならば、現在の大己貴神社が鎮座している場所も含めて再検討する必要があるでしょう。まずは小字日隅宮を探す作業から入りたいと思います。

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一族関係者だけの努力で維持されており参拝に際してはお賽銭を多めにご寄進下さい。


某所で車から見慣れない神社の鳥居を見掛けたことから、急遽、車を引き戻し、同行の内倉武久氏と確認に行きました。

場所は、某養鶏場と隣り合わせの微高地の縁のような場所でしたが、民家の裏手の林の中にきちんと手入れがなされた、かなり広大なひもろぎがあり、やはり、なにがしかの神社が鎮座しているようでした。

夕暮れに近いこともあり、境内に入ると光はなく、言い知れぬ不気味さも漂っていました。

始めは戸口の開いた裏から迷い込んだのですが、神社の存在が確認できたため、ぐるりと周り、改めて表参道から入り直しました。参道を進み鳥居の神額が読めるところまで来て、心臓が止まるほど驚きました。そこには、なんと、「倭五玉宮」と書かれていたのでした。

もちろん、そんな神社は見たことも聞いたこともありません。そもそも、なんと読むのでしょうか?

始めは讃、珍、済、興、武のいわゆる倭の五王と読み違えたのですから、当然にも九州王朝の痕跡を残す神社ではないかと緊張したことは言うまでもありません。

神額には明らかに「玉」と書かれており、倭の五王ではありません。

しかし、その五玉の意味は、逸魂の可能性もありますし、五つの御霊を意味しているのかも知れません。もちろん、五王のカモフラージュなのかもしれません。

勝手ながら、中を見せて頂くと、入口には「天御中主大神宮」(久留米水天宮、東京水天宮の祭神)の神額もありますし、「太古□□日向小戸之廟也」と書かれた掛札があるなど(欠字は筑紫?竺紫?)、もしも、本物ならば、大変なものかも知れません。

某地と言えば、旧某町であり、かつて、大量の甕棺墓が発見され、ガラスの玉壁(現在は東京博物館)まで見つかった遺跡のあった所ですが、その某遺跡からもそう遠い場所ではありません。

鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。 ざっと目を通しただけの荒いカウントですからその範囲で理解して頂きたいのですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近く(範囲を広げると60社)が拾えたのでした。

今回はこのリストを公開する紙面がありませんので村社として掲載されている一社を紹介するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。

鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、blogひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回、朝倉郡だけでも40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。


今回のトレッキングは出雲の国譲りの現場が筑後川北岸の旧朝倉郡ではなかったのか?また、それを実行したのはタカミムスビ(彦山)と高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃とした阿蘇高森草部吉見神社のヒコヤイミミだったという可能性です。それらは周辺の神社の配置状況を調べれば可能です。

何故ならば、後の鹿島大神とは武甕槌ことヒコヤイミミだからです。朝倉郡の背後地には彦山があり、天照大御神とは呉の太伯大率姫氏と高木大神の叔母(現在兵庫県佐用町の佐代都姫神社の天照御祖宮に鎮座)の間に生れた女神であり、高木大神系にあたるのです。

このため同地の国譲りとは大幡主+大山祗(もしかしたら金山彦系も)VS 高木大神+阿蘇氏という構造で衝突が続いていたと考えられるのです。


百嶋由一郎 神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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