2021年06月15日

816 「古事記」中つ巻 神武編 B “槁根津日古とは神武僭称贈る崇神の弟だった”

816 「古事記」中つ巻  神武編 B “槁根津日古とは神武僭称贈る崇神の弟だった”

20200331

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものでした。

我々からは、それがどのような意図で本来の正統皇統が捻じ曲げられ、藤原が自らの先祖に当る崇神(第10代とした神武僭称贈る崇神)を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

ここに非常に分かり易い口語訳がネット上に有ります。そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「和人」というサイトから引用させて頂きたいと思います。勝手ながら非常に感謝しております。

当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分に関して百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと考えています。

今回取り上げるのは、神武東征の水先案内をした槁根津日古(サオネツヒコorシイネツヒコ)についての話です。

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阿岐国の多祁理宮(たけりのみや:広島県府中市近郊か)に七年、それからさらに東に行き、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや:岡山県玉野市南の宮之浦か)に八年お留まりになりました。

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)は、その地を発ち、さらに東に向かっていた時、速吸門(はやすいのと:海流が速い海峡(明石海峡か)がありました。すると、その海峡を亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人(袖を振り向かってくる人)に会いました。神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、その者を近くに呼び、「あなたは、誰か?」

とお尋ねになると、「私はここの国つ神でです」と答えたので、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、「あなたは、海の道をよく知っているか?」と尋ねました。すると、「よく知っています」と答え、そこで神倭伊波礼毘古命は、「では、私に仕える気はないか?」と尋ねると、「お仕えいたしましょう」と答えました。

こうして、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、船棹(ふなざお:船をあやつるのに用いるさお)を差し渡しになり、その国つ神を船に乗り移らせました。

そして、すぐに槁根津日古(さおねつひこ)という名を賜(たま)いました。

これが、倭国造(やまとのくにのみやつこ:奈良県盆地東部の豪族)らの祖です。

その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)一行は、さらに東に進みになります。



そして、その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)はその地を発ち、次に筑紫の岡田宮(福岡県芦屋町付近か)に一年お留まりになりました。

さらにその後、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや:広島県府中市近郊か)に七年、それからさらに東に行き、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや:岡山県玉野市南の宮之浦か)に八年お留まりになりました。


筑紫野岡田の宮に1年はともかくとして、安芸や吉備にだかに何故、7年も8年も居たのかという妙な話になっているのか奇妙奇天烈この上なく不可思議でなりません。多分、これは巡幸伝承ではなく東征の実態だったのです。

 この時代の寿命を考えると156年も滞在すれば人生が終わってしまう事は明らかでしょう。

 この謎は将来への課題として置くとして、明石海峡辺りとされる速吸門について考えて見ましょう。

 贈る崇神を考えると息子に豊城入(トヨキニュウ)彦が居る様に、豊前豊後との関係が強い事に気付きます。

 事実、上毛野(カミツケノ)氏、下毛野(シモツケノ)氏は共に第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族です。上毛野君は後「上毛野朝臣」姓を称しており、「下毛野君」を氏の名とする氏族です。この痕跡が今も福岡県上毛(コウゲ)町として豊前に残っています。


築上郡東部に位置し、福岡県の最東端に位置する町で、西は豊前市、北は吉富町、山国川を挟んで大分県中津市と隣接する。町域の北部は平野が広がっており南部は山地となっている。また人口は旧・新吉富村域では微増傾向にあるが、旧・大平村域は人口が減少傾向にあり過疎化も進んでいるため上毛町全体の人口は僅かながら減少に転じている。

ウィキペディア20200331 14:18 による

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では本当の速吸門とはどこでしょうか、勿論、通説同様ただの推定でしかありませんが、恐らく大分市の佐賀関周辺だったのではないかと考えています。

 佐賀関の名の通りこの中心部は船越が行われていたはずで、現在はトンボロに依り堆積が進み陸繋島となっていますが、遠く古代、神代には実際に水道が存在し関銭を取っていた可能性さえあるでしょう。

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してみると、「古事記」の字面だけを追い解析を行っている通説派の学者、研究者がいかに愚かしいかお分かり頂けるのではないでしょうか。

 何が明石海峡だ…。殆ど漫画の世界ですよね。ただただ、欠史8代に従い近畿大和朝廷に繋げるために腐心しているだけの事なのです。

 思えば、百嶋神社考古学をある程度理解されている方は、崇神=ツヌガノアラシトが福井県敦賀と朝鮮半島の阿羅伽耶(アラカヤ)とを行き来していた舵取り(カンドリ)であり、その父神の大山咋=松尾大神=日枝山王権現 日吉神社ともども半島とを往来していた人物だったのです。

 こちらの別名はクマカブトアラカシヒコ、熊本+甲佐+阿羅+舵彦であり、熊本県甲佐町の甲佐神社から緑川を降り(古代には海が目の前に迫っていたはずですが)、親子共々有明海経由で対馬海流に乗り半島を往来していたのでした。

 ちなみに、新羅の領域ではないものの半島南東部の阿羅伽耶からはどうしても海流の都合で能登半島にしか行けず、敦賀経由で九州に戻っていたのです。そこにも久麻加夫都阿良加志比古神社(石川県)があるのです。 

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この佐賀関の中心部には椎根津彦神社もあれば早吸日女神社もその摂社群が色濃く鎮座しているのです

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無題.pngなお、早吸日女神社については、当会のメンバーである ひとつ上がりのカフェテラス 氏が以下の三 本をアップされています。こちらも併せてお読み頂きたいと思います。

では、百嶋由一郎氏が残した神代系譜からも確認しておきましょう。

 椎根ツ彦は贈る崇神の弟なのです。

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大山咋神は阿蘇高森の草部吉見と宗像三女神の市杵島姫との間に産まれた人物で、大山咋から贈る崇神の舵取り=船長の航海術は、当然にも豊玉彦=ヤタガラス系安曇族族から受け継いだものでしょう。

当然ながら今回取り上げた椎根ツ彦も舵取りだったのです。これらについては以下を参考にして下さい。


ひぼろぎ逍遥

285

北北東に進路を取れ! D 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

53

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 B

52

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 A

51

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 @


では最後に“すると、その海峡を亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人(袖を振り向かってくる人)に会いました。神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、その者を近くに呼び、「あなたは、誰か?」

とお尋ねになると、「私はここの国つ神でです」と答えたので、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、「あなたは、海の道をよく知っているか?」と尋ねました。すると、「よく知っています」と答え、そこで神倭伊波礼毘古命は、「では、私に仕える気はないか?」と尋ねると、「お仕えいたしましょう」と答えました“ 亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人 とは何でしょうか?


 無題.png無題.pngこれについては佛教大学の黄 當時教授が一つの提案をされています。

 詳しくは、

「悲劇の好字」“金印「漢委奴国王」”の読みと意味 

黄 當時 2013年刊 不知火書房(福岡市)092-781-6962 をお読み下さい。

また関連して当方も田ノ浦を書いています。


 ひぼろぎ逍遥

698

田ノ浦 C

687

田ノ浦 B

696

田ノ浦 A

695

田ノ浦 @



無題.png手っ取り早くネット上でお読みになりたい方は、PDFながら左の論文をお読み頂くことができます。「亀甲」が帆を持った外洋船(大波に対応できる甲板付)であることがお分かり頂けると思います。


無題.png 私が好い加減に要約すれば、ポリネシアでは舟や船は「タウ」or「カウ」と呼ばれ、後置修飾語としてヌイ(大きい)、双胴を意味する複数のフロートを持つと、「ルア」が加わり、大きな双胴の外洋船はカウルアヌイ(カヌー、「枯野」)、タウルアヌイと呼ばれる事になるのです。

これが「古事記」などでも書きとめられ、田(タウ)田舟、従ってその寄港地が田浦、田の浦などと呼ばれた可能性を考えておられるのです。

当然にも、椎根津彦、椎根ツ彦が乗った外洋船と思われる「亀甲」もその表記であると思われるのです。

つまり、「古事記」にはポリネシア系言語が書き留められており、それを確認できるのです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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