2021年06月12日

815 「古事記」中つ巻 神武編 A “神武巡幸と神武僭称贈る崇神の神武東征とを分離しよう”

815 「古事記」中つ巻  神武編 A “神武巡幸と神武僭称贈る崇神の神武東征とを分離しよう”

20200331

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものでした。

我々からは、それがどのような意図で本来の正統皇統が捻じ曲げられ、藤原が自らの先祖に当る崇神(第10代とした神武僭称贈る崇神)を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

ここに非常に分かり易い口語訳がネット上に有ります。そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「和人」というサイトから引用させて頂きたいと思います。勝手ながら非常に感謝しております。

当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分に関して百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと考えています。

 今回取り上げるのは、有名な神武東征と神武巡行伝承とを分離しなければならないという話です。

無題.png

そして、その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)はその地を発ち、次に筑紫の岡田宮(福岡県芦屋町付近か)に一年お留まりになりました。

さらにその後、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや:広島県府中市近郊か)に七年、それからさらに東に行き、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや:岡山県玉野市南の宮之浦か)に八年お留まりになりました。

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)は、その地を発ち、さらに東に向かっていた時、速吸門(はやすいのと:海流が速い海峡(明石海峡か))がありました。すると、その海峡を亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人(袖を振り向かってくる人)に会いました。

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、その者を近くに呼び、「あなたは、誰か?」とお尋ねになると、「私はここの国つ神でです」と答えたので、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、「あなたは、海の道をよく知っているか?」と尋ねました。すると、「よく知っています」

と答え、そこで神倭伊波礼毘古命は、「では、私に仕える気はないか?」と尋ねると、「お仕えいたしましょう」と答えました。

こうして、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、船棹(ふなざお:船をあやつるのに用いるさお)を差し渡しになり、その国つ神を船に乗り移らせました。そして、すぐに槁根津日古(さおねつひこ)という名を賜(たま)いました。

これが、倭国造(やまとのくにのみやつこ:奈良県盆地東部の豪族)らの祖です。

その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)一行は、さらに東に進みになります。

 この槁根津日古は「日本書紀」では椎根津彦と呼ばれます。


椎根津彦神武天皇が東征において速吸門で出会った国津神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったという。

ウィキペディア 20200330      07:35 による


 ここでも百嶋由一郎氏の説に従い最終神代系譜をご覧頂きます。

 この珍彦とはこれまた神武僭称贈る崇神周辺の人物、弟とされているのです。

 やはりこの珍彦を水先案内人とした自称神武とは崇神天皇だったことが分かるのです。

無題.png

無題.png何のことはない…。弟を案内人にしただけだったのです。

 このことから、当然にもこの神武も贈る崇神だったと分かるのです。

一方、百嶋先生も、神武東征説話は贈る崇神の話でしかなく、これとは別に神武巡幸(巡行)伝承が存在していると言われていました。

私も5年程前に筑豊から広島から岡山へと広がる神武伝承を追いリポートを残していますが、最も重要なのは今や忘れられかけているカムヤマトイワレヒコ一行による神武巡幸伝承なのです。

この神武ご一行が甲斐は甲府の山上楽園を発見した天津司神社について書いています。

余裕がある方はこの感動的な話を是非お読み頂きたいと思います(写真は甲府の天津司神社の祭礼)。


天津司神社 カーナビ検索 山梨県甲府市小瀬町557

無題.png

これらの話の一端でも知れば、そもそも先行する神武巡行伝承があり、それに準え贈る崇神を初代神武に仕立て上げ、藤原の直接の先祖である贈る崇神を初代神武と装ったと推定できそうなのです。

このように自らのウイングを拡げ事実上の藤原天皇制を強化しようと後の藤原氏が創作したのだと分かるのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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662

徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの

歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

   

これは甲府と一部徳島の神武巡幸伝承、以下は尾道、福山の神武伝承です。


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王太子宮をご存知ですか? @ “広島県尾道市福山市の知られざる古社群”


尾道〜福山に掛けての神武巡行です。外にも書いていたと思うのですが、とりあえず思い出す範囲でご紹介しておきます。

くれぐれも贈る崇神の神武東征説話に対し、本物の初代神武による神武巡幸伝承を分離して頂きたいと願ってやみません。

あくまでも、東征をやったのはハツクニシラス自称神武によるものだったのです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:13| Comment(0) | 日記
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