2021年06月09日

814 「古事記」中つ巻 神武編 @ “笑ってしまいますが… 宇沙都比古が神武を迎えたというのです”

814 「古事記」中つ巻 神武編 @ “笑ってしまいますが… 宇沙都比古が神武を迎えたというのです”

20200327

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


車で長距離の遠征を行う時は米朝師匠、圓生師匠、志ん生師匠といった古典落語に併せ、中村吉衛門(鬼平犯科帳)朗読による「古事記」を聴きながら運転する事が多くなってきました。

今、頻繁に聴いているのが中つ巻の欠史8代天皇条で、それこそ同じところを繰り返し繰り返し聴きながら長距離運転を行っていると言う訳です。

 勿論、「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える我々にとって、「古事記」の内容を真に受けるなど有りえません。

 ただただ「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄というか最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも分かり易く解析しながら説明したと思います。

 原文をお出ししても良いのですが、一般にはなじめないものであることから、非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反する事になるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、「和人」というサイトから引用させて頂きたいと思います。勝手な引用ながら実は非常に感謝しております。

 併せて神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。 

 まずは、原文です。こちらは無題.png様を利用させて頂きました。

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では口語訳に入りましょう。

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倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と、同じ母から生まれた兄の五瀬命(いつせのみこと)の二柱の神は、日向(九州南部)の高千穂宮(たかちほのみや)で相談されました。

弟の神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)が、「どこの地を都にし住めば、天下を平安に治めることが出来るのでしょうか?」と尋ねると、兄の五瀬命(いつせのみこと)は、「もっとの筑紫(九州北部)へ行くべきでしょう」と仰せになったので、早速、日向をお発ちになり、筑紫へと向かいました。

恐らくこの部分は本物の神武と皇兄五瀬命という同世代どころか同年の義理の兄弟による巡行の計画であり、間違いなく何がしかの真実を伝えていると考えています。

特に百嶋由一郎最終神代系譜をご覧頂ければ分かるように、神武天皇の本物のお妃であるアイラツヒメは金山彦と大山祗の姉との娘でありその兄が五瀬命なのです。

ここで兄と表現されているのは、現代でも妻の実兄を血の繋がりのない他人が兄とする事と同じです。ただ、日向から東を筑紫としている点に違和感を持つのは私もですが、これを壱岐対馬から糸島半島に上陸したとする九州王朝論者(勿論、古田先生外多数ですが)が現糸島市の日向峠に求めた事は古代史ファンの方には良く知られた事です。

しかし、神武天皇の幼名を残す狭野宮が鹿児島の高原(タカハル)にあり、吾平津姫(アイアラツヒメ)神社が宮崎県日南市にあるなど、古代日向(鹿児島+宮崎)との濃厚な関係を否定できない事から、この部分を持って絶対に糸島市に拘る必要もないのではないかと思うものです。


故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比売生子、多芸志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。 

(大意)(神武天皇が)「日向」(ヒムカ)にいた頃、「阿多」(アタ)の「小椅君」の妹で名を阿比良比売(アヒラヒメ)を娶り、生まれた子が、多芸志美美命(タギシミミノミコト)、岐須美美命(キスミミノミコト)の2柱である。         岐須美美命 ウィキペディア20200328 17:40 による


それは、同じ古事記の中つ巻に(神武天皇が)「日向」(ヒムカ)にいた頃、「阿多」(アタ)の「小椅君」の妹で名を阿比良比売(アヒラヒメ)を娶り…と尚も辺鄙な日向の阿多に拘る形で書かれている事には何らかの信憑性を感じているのです。なお、鹿児島県南薩摩市の阿多とは別に、宮崎県日南市にも吾田地名や吾田神社があるのです(吾平津姫神社からも非常に近いところです)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


問題はここからです。

そして、豊国の宇沙(大分県宇佐市)に着いたとき、そこの土地に住む宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比売(うさつひめ)という兄妹が、足一騰宮(あしひとつあがりのみや:どの様なものかは不明)を作り、服属(服従して下につくこと)の意を込め大御饗(おおみあえ:天皇の食べる食事)を献上し神倭伊波礼毘古命と五瀬命をもてなしました。

 まず、豊国の宇沙とは現宇佐市安心院であり、現場が妻垣神社(足一騰宮 一柱騰宮)であることは間違いないでしょう。では、通説で神武を出迎えたとする宇沙都比古、宇沙都比売とは一体誰なのでしょうか?

それについても百嶋先生はお書きになっておられます。

まず、宇沙都比古、宇沙都比売に饗応を受けた神武とは通説が言う様な初代神武(カムイワトイワレヒコ)ではなく神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)の事なのです。

宇沙都比古は阿蘇高森の草部吉見と高木大神の次女栲幡千千姫命(タクハタチチヒメ)の子の奥津彦=新(ニュウ)彦と奥津姫の孫の生目入彦(日中咋の子)が、後の藤原が第11代とした活目入彦五十狭矛尊(イクメニュウヒコイサチ)なのです。宇沙都比売も藤原が天皇扱いした御年神=贈る孝安天皇の孫なのです。それについては、以下の百嶋神代系譜を熟考して頂くしかありません。

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ここで皆さん重要な事、変な事に気付かれませんか?

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027神代系譜


 いくら神話の世界の話と言っても、三世代、四世代(百年)と離れた本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を供応することができるでしょうか?

 繰り返しますが、宇沙都比古(ウサツヒコ)、宇沙都比売(ウサツヒメ)という兄妹が饗応した神武とは、本物の神武ではなく、後の藤原が神武天皇と見せ掛けたい神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)でしかないのです。

 この捏造の理由は四道将軍として近畿への侵攻、植民継続を指揮した崇神を初代天皇神武と見せたい後の藤原のさもしい意図が背後にある事が分かって来るのです。

これで「古事記」がどの程度の史書であるかは概略お分かり頂けたのではないでしょうか? 

それを通説派の学者共はしたり顔で御高説を垂れて続けておられるのです。

殆ど漫画のような話なのですが、実際には生前供養されるべき連中なのです。

もう少し踏み込みましょうか。ネット上から「コトバンク」をお読み下さい。


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 神武天皇 から


1代に数えられる天皇。名はカンヤマトイワレヒコノミコト,神武は諡号。「記紀」によればニニギノミコトの曾孫,ウガヤフキアエズノミコトの子,母は妃タマヨリヒメノミコト。日向を出発して瀬戸内海を東進し,難波に上陸したが,ナガスネヒコの軍に妨げられ,迂回して吉野を経て大和に攻め入り,ついに大和一帯を平定,前 660年大和畝傍橿原宮に都し,元旦に即位し,ヒメタタライスズヒメノミコトを立てて皇后とし,127歳で没したと伝えられる。これは『日本書紀』の紀年法の誤りからきたもので,考古学的にみれば原始社会の段階における大和の一土豪として喧伝されてきた話を,こんな形で描いたものであろうといわれ,その東征説話も大和朝廷の発展期における皇室の淵源を悠遠のかなたにおき,九州と大和との連係の必然性をうたおうとしたものであろうといわれる。また崇神天皇こそ第1代天皇で,神武天皇はその投影であるとする説もある。陵墓は奈良県橿原市の畝傍山東北陵。


 ここで、再度、百嶋由一郎最終神代系譜を見て頂きましょう。

 ニニギノミコトの曾孫,ウガヤフキアエズノミコトの子がどこにおられるでしょうか?

黄色の枠内にウガヤフキアエズノミコトが書かれています。

そのお妃 鴨玉依姫(本物の神武天皇の母神は神玉依姫であることに気付いた後の藤原は崇神を本物の神武に肖り偽装した事が一目でお分かり頂けるでしょう) の子が崇神になるのです。

 これが後の藤原による創作=神武天皇が“ウガヤフキアエズの子という大嘘”の仕組みだったのです。

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再掲載 ひぼろぎ逍遥(跡宮)350 和風諡号から考えてみた 20170117崇神を神武に見せる


一応、16代までの天皇の和風諡号を「日本書紀」に沿って並べて見ました。

 百嶋神社考古学では@、C、F、G、H、M の6代だけは呉の太伯の流れを汲む正統皇統の天皇と考えます。では、それ以外の10人の人物はとお考えになると思いますが、

2代贈)綏靖天皇とは、現在、阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている金凝彦(神沼河耳命)であり、第3代贈)安寧天皇が誰かは謎だったのですが、現在のところ博多の櫛田神社の大幡主(天理教の主神でもある)ではないかと考えています(研究会内部には他の人物への比定もあり、なお、検討中です)。

 第5代贈)孝昭天皇は、阿蘇高森の草部吉見神社の主神(ヒコヤイミミ)とされています。

 第6代贈)孝安天皇は、熊本県玉名市の疋野神社の「波比岐神」=大族日置氏の祖とされています。

 第10代贈)崇神天皇は、福岡県那珂川町の現人神社、博多の住吉神社の主神とされている年若の開化天皇の臣下とされていました。第11代贈)垂仁天皇は、宮崎市の生目神社の主神。

 第12代贈)景行天皇は、第6代贈)孝安天皇(玉名市の疋野神社)の子であり山鹿市の大宮神社の主神とされていますが、これについては疑いを持っています(景行伝承は存在していたと考えますが明治期に主神にされた可能性が高い)。

 俗に欠史8代とか9代とか通説では文字どおりの架空の神話扱いにされている部分を議論しているのであり、学会通説に阿ねて尾を振る教育委員会や学芸員といった利権まみれの方々からは、当然ながら狂人扱いにされる事は覚悟の上の話になります。

 奈良から日本が始まったとか邪馬台国は奈良にあったとしか考えられない考古学協会が作成した嘘話に取り込まれた方々はどうでもよいとして、少しでもまともな思考ができる最低でも邪馬台国九州説、九州王朝論の立場に立たれる方々でも、二倍年暦(倭人は一年を二年とする「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」)といった考え方で納得されている方が多いと思います。

 ところが、実際には血統も民族さえも繋がらないただの臣下でしかない人物が後に贈る天皇扱いとされ、

全く整合性のない皇統譜が造られている事が見えて来ました。勿論、藤原氏が自らの側に取り込みたい有力氏族の祖を天皇に仕立てただけなのですが、これが、タラシ系とかイリ系などと言われる事と関係しているのです。これは、宮内庁、神社庁は十分理解されているはずなのです。

元々、「古事記」の95%が嘘、「日本書紀」は部分的に正しい事を書いていると言われた百嶋先生でしたが、「阿蘇ご一家神代系譜」などに、前述した初期の天皇、贈天皇、別王が実際には誰であったのかについてのメモ(ヒント)を残しておられました。まずは、その事についてご紹介しておきます。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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