2021年04月06日

803 福岡県篠栗町の神社トレッキングで百嶋由一郎氏が書いた看板を発見した

803 福岡県篠栗町の神社トレッキングで百嶋由一郎氏が書いた看板を発見した

20191217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 少し寒さを感じる1215日(1100〜)福岡市の東隣の篠栗町の太祖宮外宮の10人ほどのメンバーが集まりました。

 歳末の多忙な時期に実質一日費やすトレッキングに参加して頂き大変有難いと思っています。

 自分の頭も使わず、自らの足も使わず、他人任せの話を右の耳から左の耳に通すだけの古代史研究者とか邪馬台国九州説や良くて自称九州王朝論者の方々よりは余程重要な作業をされているはずなのです。

 無題.pngこの中に、ブロガーが5人、ブログが7本あるのですから、確実に将来に記録を残す作業ができる人が集まっている事になる訳です。

 そうした中、篠栗町の神社群とは別にこの地域には神仏混交の名残を残す宗教施設がかなり残っており、太祖宮上宮への登山道の登り口辺りにある太祖山金剛頂院という仏教系寺院があります。

 ここから上宮方面に進もうとしたところ、参加者のお一人である「事代主のブログ」氏から耳寄りな情報が寄せられました。

 そんな重要な情報を持ちながらなんで今まで言わなかったのかとしばし呆れたほどでしたが、流石は「事代主のブログ」氏と感心もしたところでした。

 彼の話によると、45年前に訪れたところ確か「百嶋由一郎と書いた看板が立っていた」と言うのです。

 一同色めき立ったのですが、一向に見当たらないのです。

 仕方がなく、太祖山金剛頂院を時間を掛けて見せて頂いた後、上宮への移動を止め下山しようとすると、また、車が止まるのです。どうやらメンバーのT女史が看板の残骸を見つけ出したのです。半ば諦めていただけに一同ほっとした様でしたが、私はただ小躍りするばかりの思いでした。台風かなんかで吹き飛ばされ、同寺院の駐車場の片隅に置かれ、倒木が重なり合い、落葉で看板自体が読めなくなっていたのでした。

 とりあえず応急措置で、写真として記録を残す事ができて胸をなでおろす事ができたのでした。


太祖山金剛頂院 カーナビ検索 福岡県糟屋郡篠栗町若杉4-2


20191215日(日) 篠栗町の太祖宮〜太祖宮上宮〜呑山観音を探るトレッキング”


20191215日(日) 午前1100に太祖宮に集合を…(列車利用の方は篠栗線篠栗駅で拾います)

集合場所 太祖宮境内  カーナビ検索福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉1047 

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@  太祖宮     97p   カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉1047

A  太祖宮上宮   97p   カーナビ検索 福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉(地番不詳)山上で昼食

B  老松神社    134p   カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字尾仲732

C  紅姫稲荷神社       カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町篠栗4663

D  諏訪神社    136p   カーナビ検索  福岡県粕屋郡篠栗町大字篠栗字長尾4264番地

E  萩尾神社    135p   カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字萩尾643

F  呑山観音寺        カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字萩尾227-4 pの数字は神社誌

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お読み頂ければお分かりになると思いますが、戦国末期の八女の黒木(星野吉實)の一族の英雄的散華と、この星野の一族が後鳥羽上皇の血を授かった一族であり、同時に本物の安徳帝(先生はダミーが十人近くいたと言われていました…これについても)を奄美の喜界ケ島に送り出す中心的役割まで担った人々であった事を百嶋先生は十分にご存じだったという背景までがあるのです。

 我々にとっては新たな金石文に近いもので一同感激したものでした。

 実は、百嶋先生の面受として聴いたのですが、もう一つの話として、日田市の天瀬の高塚地蔵とこの篠栗の呑山観音寺とは非常に深い関係にあったとも言われておられました。

 今後その背景にも踏み込みたいと思っていますが届くかどうかは分かりません。

 いずれにせよ、宮地嶽神社での講演会を前にして病死された無念と、どれほど貴重な話を聴きそこなった=継承できなかったという悲しみを抱きながら今後とも作業を継続したいと考えています。

2019210日  星野一族の最後 高鳥居城の戦い 

 合瀬耳納トンネルを通り星野にやってきました。でも秘めた目的をはたすべく、こんどは鷹取山へ登ります。

 なぜなら星野一族を感じたかったのです。それは星野一族の出城鷹取山山頂にある鷹取城にいくためです。

星野一族は九州の戦国時代に島津につき、島津進攻とともに、岩屋城を攻めた後、荒れ城の高鳥居城(糟屋郡須恵町)に一族郎党300余名とともに入城していた。島津との盟約をまもり退こうとはしなかった。

 落城の前日、時世を認め、酒宴を張って、翌日の決戦にのぞんだ。

筑後の山中から出てきた一族主従三百余が粕屋郡の孤城で最後まで島津への儀を立てて死んでゆく姿には打たれる者の悲しさが切々と伝わる。(筑後戦国史より)


 草城に心おく露踏み分けて 消えゆく野辺の道しるべせむ 

    星野吉実


 草城のつゆと消えなむ身なれど 心はほしのひかりとぞ思う

    星野吉兼


大友軍の立花宗茂らは、高鳥居城を攻撃星野吉実 星野吉兼を破り、その首を丁寧に吉塚に葬った。

2019211日 崇久寺訪問  2019210日 合瀬耳納  

えみこのつれづれ日記」より

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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