2021年04月03日

802 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 弥栄神社”

802 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 弥栄神社”

20191209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前ブログ 801 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 太鼓谷稲荷神社”からの続き

「してみると太鼓谷直下に鎮座するスサノウを祀る弥栄神社が俄然重要になってきたのです」としたためこのような出だしになりましたが、まずは 以下再掲載

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


由緒では熊野大神となっていますが、熊野本宮の熊野大神とはアカルヒメであって、熊野那智大社のクマノフスミこそイザナギと別れたイザナミであり熊野大神として相応しいのです。牟婁郡の出の亀井一族はその事を伝えているのです。つまりイザナミとは金山彦の妹であり、イザナミとイザナギの間に産れたスサノウとアカルヒメの間に産れたのがアメノウズメこと伊勢の外宮様=伏見稲荷なのです。つまり、スサノウを挟んで祖母にあたるイザナミと孫娘にあたる伏見稲荷が祀られた神社という組み合わせになるのです。

してみると太鼓谷直下に鎮座するスサノウを祀る弥栄神社が俄然重要になってきたのです。

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 津和野川の畔の太鼓谷稲荷の参道に弥栄(イヤサカ実はヤファエ)神社=八坂神社があります。

 津和野に初めて足を踏み入れた数十年前からこの神社こそ津和野を象徴する神社であると思ってきました。

 今ようやくその理由が分かってきましたが、神代三代の流れを見ればこの事は良く裏づけられている様に思います。

 八坂がヤファエとかヤーベを意味する置換えが弥栄で、より原音に近い形になっていると思いますが、そのヘブライとかイスラエルという意味の源泉は、スサノウの母神であるイザナミが金山彦の妹であり、同族故に秦の始皇帝(イスラエル系)と姻戚関係を結んだ一族として先行し列島に進出したのが金山彦の一族であり、秦帝国滅亡後に列島に避退して来たのが太秦とか豊国に住み着いた秦氏だったのです。

 その象徴が弥栄神社=八坂神社であり、一部、新羅の王子としての性格も背負ったのがスサノウ(金山彦の娘櫛稲田姫を妃とした)だったのです。イザナミとその孫娘の伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷の直下に弥栄神社が鎮座しているというのは実に象徴的なのです。では、社殿をご覧頂きましょう。

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須佐之男命 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天穗日命他7柱大己貴命他3

正長元年(1428年)三本松城主吉見氏が祇園社の分霊を太鼓谷山に勧請したのが初めとされる。

永享9年(1437年)吉見弘信が社地を下元原(現在地)に遷座し、三本松城の鬼門を守る社とした。吉見氏以降坂崎成正を経て亀井氏が藩政を執るようになり、廃藩に至るまで藩主の造営や寄進を受け、町民の崇敬を集めた。

創建時より「滝本祇園社」という社名であり、現在の社名に改めたのは慶応3年(1867年)のことである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191211 15:59 による


 これは太鼓谷稲荷の元宮に書かれている事を根拠にしているようです(以下前ブログから再掲載)。

 ただ、創建当時からかどうかは不明ですが、他7柱、他3柱は気になります。

 ちなみに、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命は、阿蘇高森の草部吉見=俗称春日大神、天穗日命は豊玉彦=ヤタガラスです。

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どうも記述の問題か祭神の数が合わないのですが、どちらにしても祭神を確認できれば、古い時代の津和野一帯=益田地方の最奥部の最も安全な場所(進入路が極めて狭く防衛に便利な場所)であり(ただし、盆地のため山から攻略されると危険)にどのような系統の人々が住み着いていたかが想像できます。

イザナギと別れたイザナミは祀られるもイザナギが排斥されているのも熊野系の本質です。

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実は太鼓谷稲荷神社の祭神である伏見稲荷とは伊勢の外宮の豊受大神であり天大目(アメノウヅメ)であり、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒのお妃なのですが、してみると太鼓谷稲荷の直下には父神が見守り控えておられることになるのです。正に普通ですね。だからこの弥栄=八坂神社の方が早いはずなのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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