731 米水津湾の神々 B “大分県佐伯市米水津小浦の粟島神社”
20190315
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
米水津湾の北の最奥部に竹野浦、小浦があります。
昔から磯釣りよりも波止釣りを好む事から竹野浦、小浦は最も好きな入り江です。
島野浦、深島、屋形島、沖黒瀬…と言った名だたる沖磯で撒き餌をふんだんに使って大物を釣ればそれは大漁にはなるでしょうが、本当の釣りとは普段の生活圏でめったに釣れない大物を仕留めるのが醍醐味と考えるからで、所詮、食べもしない魚を無駄に釣り上げるゲーム・フィッシングを横目で睨み静かな内湾の風情を楽しむのが初老の衰えた人間のやるべき釣りであろうと壮年期から思い実行して来たのでした。
とは言え、ここ15年釣りを止めて来ましたが、あまりにブログを書き過ぎると、眼精疲労、頸肩腕症候群、腱鞘炎…にさいなまれる事から、仕方なく体の調整のために釣り竿を持って神社を廻る事になってしまいました。
神様でも鯛を左手に竿を右手に持った恵比須様(実は事代主という古々代ヘブライ系民族)との遭遇が増えそうな気がしています。
さて、ここには粟島神社があります。一般的には少彦名命を祀る神社とされています。

粟島神社 カーナビ検索 大分県佐伯市米水津大字小浦
祭神:主神 大名持命 少彦名命 配祀 加具突知命 言代主神 菅原道真公
同社の由緒を読む限り、南北朝期に粟島の神が持ち込まれたのであって、社名の通り主神は少彦名命なのかも知れません。
そう思わせるものが参拝殿右手前の社に石持神事を見たからでした。
これは参拝の度に浜から小石を拾い奉納と参拝する風習が確認できたからで、これが大国主命のものであることは南九州から筑豊などに遍く認められるものである事からもしかしたら元々格上の大国主命の社はこれだったのかも知れないと思ったのでした。
大国主命が出雲の国の方だなどと言うのは藤原が創った話であって、日向の一の宮(この日向の意味は宮崎一国ではなく、古代日向=薩摩、大隅、日向の南九州全域を意味するのです)は宮崎県都農町にあり、この大社の主祭神は大国主命なのです。
そしてここにも石持ち神事が認められるのです。
この傾向は鹿児島、宮崎、福岡で顕著であり、この米水津でも確認した事になるのです。
間違っても出雲の方などと通説に惑わされない様に…。 写真は都濃神社の石持ち神事。

では、南北朝以前には祭祀は存在しなかったのでしょうか?
この米水津は確かに四国を通じて熊野と連絡を取る中継地のような場所である上に、陸からの攻略はその地形からほぼ皆無であり、仮にあったとしても船で隣の浦に撤退すれば良いような安全な地なのです。
また、平安末期から伊予の水軍の支配領域のような場所であって、それもあってか米水津には色々な神々が祀られている様なのです。

従って、表面に見えるものだけではなく少しその基層を探るべきでしょう。
安直ですが、まずはネット検索をすれば、「神社と古事記」氏の一文にこのように書かれていました。

御祭神は大名持命と少彦名命を主祭神とし、加具突知命・言代主神・菅原道真公を相殿に祀る。
社伝によれば、南北朝時代の貞治年間(1362年-1368年)に征西将軍懐良親王と、それを奉じる菊池武光が豊後国へ下向する際に日向灘で海難に遭遇した。
そこで、親王の侍臣である渡辺左衛門尉が紀州粟嶋明神(現在の和歌山県海南市の粟嶋神社)に祈願して無事に米水津の小浦に着岸した。
その報賽として社殿を建立してその御分霊を勧請したのが創祀。親王が第一歩を印した岩は現在、当社石垣の傍らにあり、注連縄を張って祀られているという。
また、異伝として、その創祀は貞治5年(正平21年、1366年)で、清原信重によるものであるともされる。
以後、在地の海民を中心に信仰を集めた。なお、江戸時代の宝永4年(1707年)には当社の産子の者が本社である海南市の粟嶋神社へ参拝し、その時に奉納した金幣3体が同社に現伝している。
明治6年(1873年)に郷社に列し、戦後は神社本庁に参加する。
実に参考になる参考にすべき話です。深謝。
ただ、「加具突知命・言代主神・菅原道真公を相殿に祀る」 については、小集落だけに合祀と言っても、それこそが先在した祭祀だった可能性を無視できないのです。
ただ、少しばかり祭神にバラつきがあり整合性に欠けています。
加具突知命とはこれまで何度となく申し上げてきた様に、同族として秦の始皇帝と姻戚関係を結び先行して列島に移動した瀛氏の金山彦のことでありイスラエル系の製鉄神です。
その流れの本流本家の血を母親から受けたのが菅公であってこの二神は繋がりがあるのですが、事代主=恵比須は一般的に大国主の長男とされ出雲系などと考えられています。
勿論、これは誤りなのですが、ただ、一般的には繋がりに整合性がないと言えるとしたのですが、だからこそ逆に整合性があるように見えるのです。
それは、事代主神とは古々代ヘブライ系の神であって、瀛氏の金山彦や少し後に入って来た秦氏(秦の始皇帝の一族+秦の臣民=秦の支配を嫌って半島に逃げた)嬴氏より千年近く前に列島に入っていたイスラエル系の人々が事代主=恵比須とすれば、この三系統はその点で整合性のある広義の同族と言えない事もないのです。
従って、その一点においてこの三神は本物に見えるのです。

そのように思ったのはやはり米水津湾の南に聳える石槌山の存在でした。
実は、まだ愛媛の石鎚神社の主神が金山彦なのか大山祗なのかそれとも大幡主なのかが良く分からないようになっているのです。
不明ながら、やはり、金山彦に思えるのです。
してみると、南の宮之浦と併せ金山彦の気配を感じるのです。

数年前までは全く気付かなかったのですが、穏やかな米水津がこれほど面白い土地とは思いもしませんでした。しかし、探索へのピースは限られており、伝承も薄く、もう暫くで消失してしまう事でしょう。
私達の任務は少しでも真実に迫り後世に伝える事です。
竹野浦の天満宮も書くべきですが、メンバーの一つあがりのカフェテラス氏が書かれていますのでここでは控えておきましょう。
百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで