2020年01月21日

678 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… D “宗像大社の東に大国主命を祀る神社がある”

678 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… D “宗像大社の東に大国主命を祀る神社がある”

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太宰府地名研究会 古川 清久


 宗像大社から東南東に78キロの遠賀郡(宗像郡の東隣)岡垣町手野に大国主神社があります。

 これで、津屋崎の楯崎神社と併せ宗像大社の両翼に大国主命を祀る神社が存在する事がお分かり頂けると思います。両翼なのか、普通に存在した大国主祭祀の痕跡なのかも不明です。

 この祭祀をどのように考えるかです。普通の感覚では、出雲の神様が何故この玄海灘沿岸に存在するのでしょうかと思われる事でしょう。それほど九州北岸には大国主祭祀が存在しないのです。

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「福岡県神社誌」上巻 246p


多くの境内神社が祀られてはいるようですが、主神は 大国主命、須佐之男命、室大神 の三神です。

室大神がお分かりにならないと思いますが、恐らく大山祗命で良いと思います。

百嶋神社考古学では、金 越智(ウマシアシカビヒコヂ)と天御中主命=白山姫との間に産れたのが 大山祗命であり、海人族を従えた天御中主命、白川伯王系 と 朝鮮半島の金武官伽耶に本拠地を置いていたトルコ系匈奴の騎馬軍団 という海と陸を支配する武装集団が成立したのでした。

 そして、次世代の大山祗命と同じく白族から送り込まれた埴安姫との間に産れたのが、神太市姫(ミズハノメ)、大国主命、コノハナノサクヤヒメとなるのです。

 その意味でも、室大神が大山祗と言えますし、室、村、群、牟礼…といった地名語尾を持つ高群、高牟礼、高村…の多くが、トルコ系匈奴の進出地である可能性も高いのです。

 良く古代朝鮮語などで説明されますが、大陸にもこのムル、ムレ、ムロ型地名が数多くあり、城、城塞都市、砦、村…の意味で使われているのです。

 従って「高群」タカムレ姓の方などは、まず、トルコ系匈奴の後裔の可能性があるのです。

 ちなみに、久留米の高良大社が鎮座する高良山の古名も高牟礼山なのです。

 そして、地名研究などでは、列島の「村」という名詞も古満州語とか古朝鮮語に起源があるのではなどと言われているのです。

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多分、この神社のすぐ下に「垣の内」という地名が拾えるのですが、これも良く出くわすトルコ系匈奴

系の地名であって、垣は城塞の意味なのです。つまり、城内の意味であり、古代の武家屋敷のような意味なのです。これについても、ひぼろぎ逍遥(跡宮)などから以下をお読み下さい。


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続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

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タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

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タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)


境内神社は大体分かるはずで説明は要らないでしょう。最後の梅宮神社ですが、木花也姫命は木花咲(削)也姫命の誤りか偽装で良いのでしょう。彼女は大国主命の実の妹なのです。

 また、三神として祀られている祭神のお一人のスサノウノミコトも大国主命の姉である神大市姫の夫神なのです。

 従って、この集落はかなりトルコ系匈奴の系統の色が濃い村(見た目だけですが漁師集落ではありません)と言えそうで、玄海灘沿岸ではなかなか遭遇しない木花咲也姫命が境内社として祀られている事も納得が行くのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データが必要な方は09062983254まで


 この神代系譜には4桁の数字が書き込まれています。

これは紀元2000年を基準として01年を起点とする神様の積年を書いているのです、大国主命のお妃である市杵島姫は、阿蘇の草部吉見(藤原の祖神)=武甕槌=春日大神=鹿島大神=建借間命との間に大山咋=大直日を産んでいます。

この積年が1338歳で、大国主命との間に産れた下照姫は1823歳となっています。

このことから、市杵島姫は、始めは阿蘇系の草部吉見のお妃となり、その後、大国主命のお妃となっている事が分かります。

 だからこそ、この大国主神社が鎮座する土地が福岡県遠賀郡岡垣町手野1306(テノ)であり、阿蘇の北宮の国造神社(速瓶玉命)が鎮座する土地が熊本県阿蘇市一の宮町手野2100(タノ)なのです。

 速瓶玉命とは大山咋神であり、その子が下賀茂神社の崇神天皇となるのですが、この地に阿蘇と同様の手野という地名があるという事は、普通は阿蘇の手野の地名が移動したものと見るべきでしょう。

 ただ、逆もありうるのです。実のところ私はそちらの方にも傾斜しています。

 この件はここでは書かずに温めておきたいと思います。いずれ書くことになるでしょう。

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 この二つの手野地名は以前から非常に気になっていたものですが、国造神社の主祭神の速瓶玉=大山咋は阿蘇ではその血統の良さにも拘わらず、阿蘇氏を継いではいません。

 そして、この神を祀る最も大きな神社はというと、熊本市の南、甲佐町の甲佐神社、筑前の山家八幡宮2社、敢て言えば、太宰府の宝満神社、山家宝満神社、筑豊の数社であり、むしろ日本海側に進出し出雲の佐田神社や敦賀の気比神宮から松尾神社、日枝神社、日吉神社などに展開を見せ移動しているのです。

 このことから、父親の草部吉見にも似て故郷の地を去り中央に進出した様に見えるのです。

 そう考えると、阿蘇北宮で産まれた大山咋神は市杵島姫に連れられこの宗像大社の岡垣の手野に来ていたからこそ手野という地名が付けられていたのではないかと思えるのです。

 そして、大国主命が通ってきていたとすれば合理的なのですが、何か見てきたような嘘になりますのであまり信用されない様にお願いしたいと思います。

 そうすると、阿蘇国造神社が阿蘇の支配者として君臨していない理由が説明できるのです。

 外にも面白い話に気付いていますが、もう少し温めておきたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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