2020年01月18日

677 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… C “宗像大社の西に大国主命を祀る神社がある”

677 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… C “宗像大社の西に大国主命を祀る神社がある”

20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


 宗像大社は何度も足を運んでいる神社です。

ただ、故)百嶋由一郎氏から“宗像大社の本来の祭神は大国主命です”と聴かされて以来、その根拠とか証拠といったものが何とか掴めないかと考えあぐね、それが果たせない中ではなかなか踏み込めないとあまりブログも書いてはいませんでした。

しかし、今般、イヅノメのトレッキングを行なうに際して、集合場所を宗像大社にした事から、少しずつでも書かなければならないと重い腰を上げる事にしたものです。

まず、宗像大社が大国主命を消した(隠した)としても、周辺には大国主命祭祀が残っているはずで。まず、ここらあたりからお知らせする事にしましょう。

これも78年前に参拝していた神社ですが、宗像市の西隣の福津市には日本海海戦の東郷平八郎を祀る神社があります。その途中の楯崎に楯崎神社があります。

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楯崎神社 カーナビ検索 福岡県福津市渡御園975


「楯崎(たてざき)神社」は、大峰山自然公園の近くに鎮座する、渡地区の氏神です。祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)、綿津見神(わたつみのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の三神です。


「福岡県神社誌」の記事を見る限り、楯崎神社が大国主命、少彦名命を祭る神社である事は間違いないでしょう。

 では、綿津見神とはどなたでしょうか?

 住吉三神とか筒男神と書かれているのではない以上、ここでは対馬の木坂の海神神社か和多都美神社の龍王=豊玉彦=ヤタガラスと考えるのが至当と考えます。

 境内社の薬師神社は当然にも少彦名神の神を祀るものに、肖りで大国主命も加えられたものでしょうか。

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対馬の木坂の海神神社も海上自衛隊の将官が参拝に来られていましたが、東郷公園の東郷神社と言い、日本海海戦の艦砲の爆音がここまで届いたはずで、襖や障子を揺らした事を記憶していた古老もいたのです。

神功皇后と言い白村江の戦いと言いこの津屋崎は半島への出船基地であったことは間違いがないのです。

 だからこそ1600年を超え父祖を超え遠い先祖に至るまで、手を引かれ参拝していた次世代が訪れ、宮地嶽神社には太宰府に次ぐ九州で二番目に多い参拝客が押し寄せ続けているのでしょう。

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無題.pngがあります。ここに重要な記事がありましたのでお読み下さい。


「大楯崎神社縁起」ー文化14(1817)ーは、江戸時代末の史料ですが、「大己貴神は宗像奥津宮に座す田心姫と辺津宮に座す高津姫命を娶った」と伝え、「異賊来襲の時、大己貴神と宗像姫大神が神軍を率いて、神霊の威光を振るい楯を立て鼓を鳴らして外敵を防いだ」と云い、楯崎、唐船、御手洗瀑布、五色浜、楢の葉浜の名はこれより起こったとします。…

…改めて述べれば、先に本ブログで「宗像三女神は高御皇産霊命の女である」との結論を得ましたが、これは先代旧事本紀・海部氏系図・新撰姓氏録・古事記・日本書紀など史料を綜合して得たものです。辺津宮・高津姫命については、再掲すると、次の様に書きました。

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これを百嶋由一郎最終神代系譜と対応するかどうかを確認して見ましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


タゴリヒメこと豊玉姫は豊玉彦=綿津見神と彦山の高木大神=高御皇産霊命の長女豊秋ツ姫の間に産れた女神であり、「宗像三女神は高御皇産霊命の女である」と書かれた一部は対応している事が確認できそうです。

しかし、三女神となるとおかしな話になってきます。

 まず、宗像大社が古来三女神を祭神としていたかどうかも良くは分からないのです。

百嶋神代系譜を見ると、大国主命のお妃となったキサガイヒメとウムガイヒメと考えられる市杵島姫と豊玉姫は三女神のお二人であって、タギツヒメに至っては未だに素性が掴めないでいます。

少なくとも市杵島姫は大幡主の姉でありスサノウのお妃となったアカルヒメの娘であって、高木大神とは無関係なのです。

 このため、市杵島姫は高木大神の娘ではないことから、三女神が全て高木大神の娘と言うのはあまりにも乱暴な話であって当たらないと思います。

 ただ「女神物語」氏はタギツヒメの素性に踏み込んでおられるためこちらも下調べをしたいと思います。

@ ひぼろぎ逍遥(跡宮)021 宗像大社の祭神は三女神にあらず!! でも書いていますが、宗像大社の東の岡垣町手野にも立派な大国主神社がありますし、この津和崎の楯崎神社と併せこの一帯に大国主祭祀が存在していた。

A 「万葉歌人の大伴坂上郎女が京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った」との証言の存在があること。少なくともこの時点までは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。が分かるのです。

B 加えて、旧玄海町の教育委員会が編纂していた「神湊・江口の史話と伝説」に登載された津加計志宮の祭神に大国主命の後裔が筆頭として挙げられていること、しかもこの神社が辺津宮の起源である可能性もある事…。宗像大社の初代大領(大領、少領は九州王朝の官職名の可能性が高い)が大国主命もしくはその後裔であったと推定できる事。山陰の奥出雲町でも大領神社を確認しています。

C当然の事として、大国主命を介護したウムガイヒメ、キサガイヒメが豊玉姫、市杵島姫に相当し、大国主の二人のお妃の可能性がある事。

 これらから宗像大社の古層に大国主命祭祀が存在し、今も密かに続けられているかも知れないのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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