2020年01月16日

ビアヘロ 115「宮原誠一の神社見聞牒」からC 下 “金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

ビアヘロ 115「宮原誠一の神社見聞牒」からC 下 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

                                                                      20191127

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 宮原誠一氏は筑後地方を中心(久留米市の高良大社を軸)に40年間以上に亘って神社研究を続けて来られました。現在、「邪馬台国」研究者などと嘯く人々の大半が戦後の風潮によって神社研究を荒唐無稽なものとして事実上無視しています。海外の史書+穴掘り考古学こそ戦後の科学的古代史の手法とでも錯覚されたのでしょうが、これとても京都学派と解放同盟の利権構造によって纏向遺跡が卑弥呼の墓などと言ったデマが平然と流されているのですからそれにそのまま便乗するとしたら全く意味がないのです。

 現在、穴掘り考古学に精通し最も熱心で活発な活動を続けてこられた元朝日新聞記者でミネルヴァ書房などから4著を公刊された内倉武久氏も当方のグループとのブログのリンクを張っておられます。

今回はこの「松野連系図」がテーマになっていますが、これを初期段階から研究し世に出された同氏もつい最近福岡市を中心とする似非九州王朝論者の○○古代史の会を見限り離脱されたと聞き及んでいます。

 自らは現場に足を運ぶこともなく、ただただ他人の研究を拝聴して分かったような気になっているだけの団体は何の成果もなくいずれ歴史の屑籠に放り込まれるだけなのです。           (古川)

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宮原誠一の神社見聞牒(126)
令和元年(2019)1028

No.126 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町


4.熊本県球磨郡あさぎり町上(うえ)北の神殿原


あさぎり町本町を中心に北・東が旧免田村、南が旧上村(うえむら)、東が旧岡原村(おかはる)になります。その旧三村の接点部に「神殿原 こうどんばる」があります。
字のごとく神殿が建つ丘です。どの大王時代の「神殿」であるか分かりません。
大王の住居地としては平地にありますので、戦術的防御からみて不適です。むしろ「委奴国 いとこく」の中心部の象徴として神殿があったのかもしれません。誰を祀った神殿かは不明です。
金印は委奴国王が賜綬されたもので、代々、倭王が引き継ぐもので、墳墓の副葬品にされたとは思えません。後世、金印はこの神殿原の神殿に奉安されたのかもしれません。
実はこの地域を金印に絡む調査が明治の初期に密かになされている可能性があるのです。


「ひろっぷ」さんからお聞きした話 2019-01-28
免田(面田)と上村の境に「木原」があります。
神殿原の中の地名です。つまり神殿原の姫原(木原)となります。現在、南陵高校が建っている場所の前辺りです。殿原開拓社の話をブログに書いていたのですが
(https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12399572697.html)
この神殿原開拓団の本来の目的は、私はおそらく開拓だけではなく遺跡発掘にあったと思っています。相良藩時代には神殿原は全くの原野。手を触れる事を避けていたかのようです。
「何も見つからなかった」・・の話は本当はどうなのか・・?
その後の神殿原開拓社のメンバーの尋常でない出世・・凄く不思議です。
特に「宗像 政(むなかた ただす)」氏
嘉永712(1854130) - 大正7(1918年)27日)
日本の政治家、官僚。衆議院議員および貴族院議員、県知事。別名、田村 政。
※埼玉・青森・福井・宮城・高知・広島県知事を歴任。
1912
(大正元年)東京府知事を任ぜられる。
1918
(大正7年)27日貴族院議員(勅撰議員)となる。
さらに、「田中賢道」氏
閔妃(ミンビ)暗殺事件の首謀者の一人。
岡原村史には、田中賢道の戸籍は最期まで岡原村にあった事は記録にとどめておかねばならない、と書かれていました。熊本市生まれにも関わらず生涯本籍を岡原村から動かさなかった理由は・・?


神殿原開拓社が開拓した土地に「木原(姫原)」が含まれていた事はとても重要な意味を持つのではないでしょうか…


「姫原 ひめはる」は「姫氏天皇家(王家)の丘」という意味で、王家の住まいです。
「神殿原」の中の「姫原」という地名は重要です。姫氏天皇家(倭王)を象徴する地域と考えます。
神殿原地域は球磨盆地の中央にあり平地です。明治期まで耕作地として使用されていない、人手が入っていない原野のままで放置? されてきた。
それは、やはり、球磨の人達は、この地が古代からの神聖な土地として意識され伝承されてきたからではないでしょうか。
 神殿原開拓社の調査は、古代の委奴国の何らかの手掛かり掴めたのではないか。
その内容は、現在の日本の古代史を根底から覆すもので、厳重に秘密にされた。
出世した開拓社の主だった人達は、金印の何かを知っておられる。しかし、それは硬く口封じられている、と思うのです。

5.あさぎり町免田の才園古墳の鎏金獣帯鏡と遺跡


あさぎり町免田西に岡留熊野座神社が鎮座ですが、その西に才園古墳(さいぞんこふん)遺跡があります。その副葬品で目を引くものが、金メッキ(鍍金)された鎏金(りゅうきん)獣帯鏡です。
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳、岐阜県大野町の城塚古墳)
 
      鍍金鏡「鎏金獣帯鏡」熊本県球磨郡あさぎり町 才園古墳出土

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鎏金獣帯鏡(金神獣鏡)
直径11.7cm、厚さ3mm 青銅鏡(白銅鏡)の背面全体に分厚く鍍金
1938
年出土
外側の文字「吾作明竟幽凍三商彫刻無極■大吉羊宜侯王家富昌師百■楽衆神見容命長」
簡訳「われ明鏡を作り、三商を幽凍し、極悪なく、大吉祥よろしく、王家さかえ、衆は楽しみ、神を見、姿命長し」
  ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」
  『球磨 あさぎり町の遺跡からの出土品』2017-09-25 参照
  
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html


日本では3枚しか出土していない鍍金の鏡
 熊本県球磨郡あさぎり町免田西(永才)1248:才園古墳
 福岡県糸島市二丈田中:一貴山銚子塚古墳
 岐阜県揖斐郡大野町野:城塚古墳

鍍金された鎏金(りゅうきん)獣帯鏡の出土は、あさぎり町と福岡県糸島市との繋がりを思わせます。また、免田式土器は福岡県糸島の三雲南小路遺跡(細石神社の西隣)でも出土しています。
あさぎり町と福岡県糸島市との繋がりは明らかであり、委奴國と面土國と魏志倭人伝の伊都国は繋がります。

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深田出土の免田式土器(あさぎり町深田西 明廿) あさぎり町HPから
深田公民館せきれい館で展示
(
)胴部最大径20.0cmの重弧文長径壷で、弥生時代後期と製作と推定。
胴部に凹線文、重弧文あり優美な姿である。
(
)口径8.4cm、高さ40cm、胴部最大径30cmで弥生時代後期の重弧文土器。
胴部に凹線文、ボタン状貼付文、竹管文、重弧文、刻目文が施されている。


福岡県の「遺跡調査機関」への球磨郡あさぎり町の「ひろっぷ」さんの思いです。


細石神社と免田式土器
細石神社周辺と球磨は関わりがあります。私のブログ『球磨弁とヘブライ語』で触れたのですが
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12410694963.html
免田式土器は九州北部では出土例が少ないと言われていますが、その少ない出土遺跡とは九州北部の免田式土器出土遺跡
福岡県
 三雲遺跡(糸島市三雲 細石神社の西隣)
 安国寺遺跡(久留米市)
 亀の甲遺跡(八女市亀甲)
 甘木山遺跡(大牟田市甘木) 他
佐賀県
 二塚山遺跡(三養基郡上峰町)
 みやき遺跡(武雄市橘町綿の木) です。
ちなみに、福岡県の「遺跡調査機関」では九州北部では出土例が少ないと言われている免田式土器が三雲遺跡で発見されていた事を重要視されていない・・と言うか、触れようとはされていないような気が私は以前からしておりました・・・
                                 ひろっぷ 2019-10-23


現代の考古学者、特に、近畿を古代列島の中心と考える学者さんは、意識的に古代の九州の歴史を歪曲し、無理に「古代列島の中心は近畿」と呪縛されておられるのではないか。私は機会ある毎に申します。


「日本の古代史は、熊本県球磨の古代史がスッポリ抜け落ちています。球磨の古代史が明らかにならなければ、日本の古代史は正確ではありません。」

参考資料 松野連<倭王>系図

平野雅廣氏著『倭国史談』200088日 熊本日日新聞

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備考 名前、住居など以外、左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。
     本系図については、尾池誠著「埋もれた古代氏族系図」参照


松野連<倭王>系図


「松野連<倭王>系図」は、幕末から明治時代にかけて、古代氏族の系譜収集に生涯を費した在野の研究家、鈴木真年の厖大な集成本中の一つである(ただし草稿写本)。
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。地名など一部は、あるいは原本のままかもしれないが、これについて、論考『埋もれた古代氏族系図』の著者、尾池誠氏は、次のように書いている。


私はかなり早い時期に既に名前のみの系図になっていたのではないかと推理する。『日本書記』を編纂するにあたって、編者は主な氏族譜や記録を資料として用いた。当然松野連の『倭王系図』も「景行紀」において採用された。それは「態襲」の「謀叛」として、厚鹿文・?鹿文・市乾鹿文・市鹿文・取石鹿文などを登場させたものだった。『日本書記』完成後に松野連が見たものは、当然伝世の歴代倭王の事蹟とはおよそかけはなれたものだったであろう。
かつての倭王の事蹟が、大倭朝廷に対して、はばかられるべきものであることを考慮して、倭の五王の事蹟をはじめとする伝来のほとんどの記録の抹消を余儀なくされたことであろう。このため「牛慈」が服降したという以前は、歴代名のみという極めて特異な系図と化してしまったのである。・・・


松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家の存在がある。
国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、孝昭天皇三年(前四七三)来朝して火国菊池郡山門に住す」とある。後代の「宇也鹿文(別名、鬼毛理)」の傍注には、「火国菊池評山門里住、永初元年十月通漢」とあるので(静嘉堂文庫所蔵系図)、本家は続いて肥後にあったものと考えられる。
(
中略)
私の手許にあるのは二通りの系図写本であるが、主として始めの部分に世代数の差、名前の違いが見られるゆえ、もともと別の二系統の系図があったのではないかと考えられ、それが後世のある時期において、一つのものに統合されたものではないかとも推察される。
私の考えでは、系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。
例えば、卑弥呼や壹与などの比定が果たして確実か疑わしいものがあるし、事蹟についても、第一系図の宇閇「後漢光武帝中元二年正月貢献(57)」や、玖志加也「永初元年十月貢献(107)」の後の刀良の傍注が「宣帝時遣使礼漢(地節7年、前68)」と、年代順が混乱している。
また、第二系図の迮鹿文には、「景行十二年熊襲梟帥也」(82)としている横に、「新羅阿達羅尼師今廿年遣使」(173)と並べている。これは卑弥呼の最初の遣使の年で、『三国史記』にも出ているが、成務天皇43年に当たるのである。
景行紀に出る市鹿文は、女性で、「火国造」を賜ったとあるが、傍注に、「魏正始八年立為王、景初二年貢奉、被称壱歟」とある。壱与が王となったのは13歳の時で(247)、景初二年(238)卑弥呼の朝貢と混記している。
第一系図に卑弥鹿文がいるが、これが卑弥呼ではあるまいか。「鹿文」は尊称と思われるが、これの付いた名が十数名もあるからだ。
彼女の死後、宗女壱与が王位に就いたが、第二系図の市鹿文がそれで、第二系図が宗家で肥後にあり、第一が分家で筑紫にあったものであろうか。それが交替で王位に就き、後で、一本になったものであろう。
日本武尊に殺された川上梟帥(取石鹿文)は、第一・第二系図に重複している。

また、第二系図の宇也鹿文は、火国菊池に住むとあり、「永初元年十月通漢」の注があるが、『後漢書』の同年(107)に朝貢した倭国王帥升と同一人物であろう。ただし、第一系図の玖志加也(加志古)にも同様の注があるので、やはり重複であろう。
第一の宇閇と第二の態鹿文にも同じく、「後漢光武帝の中元二年正月貢献、印綬を受けた」旨の注記があるが、志賀島の金印のことであることは明らかである。
両方の系図に、名前が異なるのに同じ事件の注が付いているということは、肥後と筑紫双方の後継者それぞれが、お互い相談する機会もなく、不確実な記憶によって注記した結果ではあるまいか。
私の手許にあるのは、系図再製以後江戸期まで、子孫代々書き継いで来た原本を基に、鈴木真年が手を入れた写本原稿(そのコピー)と考えられる。傍注にある「国・評・里」と「国・郡」制による住所の混記から察すると、原本の成立は『日本書記』に成立からあまり下らぬ時期に、傍注を伴ったものが一応出来ていたのではないだろうか。鈴木がことさら「郡」と「評」とを後年において別記することはあり得ないと思うからである。
考えるに、この系図には前記に指摘したいくつかの欠点は認められるものの、「日本書記」態襲征伐記事に見る名称や、中国史書に現われる倭の五王との名前の一致からして、無視することのできないものがある。
(
以下略
)

鈴木真年 略歴
天保2(1831)江戸神田鎌倉河岸で出生。
幼名房太郎のち今井源太郎、また真年と改める。竹亭また不存と号す。源牟知良と改名、新田愛氏と号す。俳号・松柏。
栗原信充に入門。主に系譜学を学ぶ。紀州藩士となり、系譜編纂事業に任ず。
明治政府の弾正台勤務。司法省へ転じ、文部省図書館員を兼務。参謀本部編纂課へ転出。東京地学協会社員。山縣有朋・田中光顕邸で『古事記』講義を続け、交詢社名誉会員。
帝国大学で『大日本編年史』編纂に従事。晩年主として系譜編纂に従事し、傍ら態野神社を中心として、国学校の設立に尽力。明治27(1894)没、64才。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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