2020年01月04日

672 橘 諸兄を主神とする潮見神社 “佐賀県武雄市の故地に息づく橘一族の一社”

672 橘 諸兄を主神とする潮見神社 “佐賀県武雄市の故地に息づく橘一族の一社”

                                     20181018

太宰府地名研究会 古川 清久


橘の諸兄と言えば、源平藤橘ともいわれる藤原氏と並ぶ大族だったことは良くご存じかと思います。

この橘一族を祀る象徴的な神社が佐賀県武雄市(明治の旧橘村)潮見地区にあります。

勿論、橘一族は「奈良麻呂の変」以降、零落への道を辿り、良くて中級貴族から地方豪族として命脈を保ってきたのですが、平安の世もそう永くは続かず、鎌倉以降の武士の時代が続くと、どれだけの実力を保ち続け多くの家臣団と支配領地を持つかに問題の中心が移っていったためそれほどの意味はないのかも知れません。

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潮見神社 カーナビ検索 佐賀県武雄市橘町永島17343


ただ、橘 諸兄という実在の人物をそのまま神と崇める神社とは、実質的に自らを橘一族と認識する人々による同族意識を持った人々にとっては重要この上ないものであって、この白川伯王―天御中主〜大幡主〜ヤタガラス…橘 諸兄とその後裔の人々には祀るべき祖霊であり、祖神にはなるのです。

ただ、橘一族とは白川伯王―天御中主〜大幡主〜ヤタガラスの後裔の一流であって、それ以外の私達が大幡主系とか白族系の全ての流れを体現している神社という訳ではないとは言えるでしょう。

と、言うのは、ヤタガラスこと豊玉彦は有力者であった事から、多くの有力氏族の女を受入れ、多くのヤタガラス系氏族が産まれました。

金山彦系、高木大神系、阿蘇系、大山祗系…の多くのお妃との間に形成された姻族の全てが後の橘一族となったとも思えませんが、縣犬飼橘美千代から諸兄の時代の繁栄期はともかく、諸兄失脚以降には橘一族と言える人々が実際にはどの系統なのかは不明であって、今のところ今後の課題とせざるを得ないのです。一応、百嶋由一郎が残した神代系譜には橘一族の祖とは、前玉姫(ニニギと別れた後のコノハナノサクヤ姫の別名)とヤタガラス=豊玉彦との間に産れた後裔氏族とはされているのですが…。

始めからややこしい話をしましたが、同社については、以前にもひぼろぎ逍遥で杵島として書いていますので違う話とさせて頂きました。

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潮見という地名のとおり、古代にはこの一帯は有明海の干満が普通に認められる場所でした。

 春の大潮などの最高潮位期にはまだまだ奥まで潮が入っていたと考えられます。

 このため、おつぼ山の神籠石は干潟と澪筋を正面の堀と見なした低湿地の逃げ城だった事が分かります。

 実は、この潮見神社正面の小丘に奈良麻呂の変の道祖王の墓地(現地では「どうざのぼち」=どうそおうさまのぼち)と言われるものがあるのです。

 橘諸兄の失脚後、橘一族は奈良麻呂の時代に反撃しようとしますが、この政変劇は橘氏の敗北に終わります。

道祖王はこの奈良麻呂の変の時の立太子(廃太子)であり、それが人知れず祀られてきたのです。

 それは、この地が橘一族の単なる逃亡地といったものではなく、元々、橘一族の出身地、故地の一つだったからではないかと考えています。

都から遠く離れた僻陬の地から…そんなことが言えるかとお思いになるのは当然でしょう。

少し考えて見ましょう。

この伝道祖王墓地は杵島山の西麓にあるのですが、この杵島山を東側に越える白石町(旧錦江村〜旧有明村)には福泉禅寺(勿論式部の時代は禅宗寺院ではありませんが)があり、和泉式部の生誕伝承を伝えています。

一方、幼少期を過ごした後、式部は杵島山の西に位置する塩田町(現嬉野市)五町田の大黒丸夫婦に引き取られ育てられたと言われています。

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福泉禅寺と和泉式部伝説この寺には、2つの興味深い物語が残っています。

 その1つが「和泉式部生誕伝説」で、遙か平安時代藤原氏全盛期のお話です。ある朝、赤ちゃんの鳴き声で目を覚ました福泉禅寺のお坊さんたちが周囲を探したところ、お堂の裏で白い鹿が人間の女の赤ちゃんにお乳をあげていました。そこに隣の塩田の里(現在の嬉野市塩田町)から長者大黒丸夫婦がやってきて、「私たち夫婦には子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまにどうぞ女の子をお授けくださいと祈願しておりました。すると夕べ、薬師如来様が夢枕に立たれ『おまえたちの永年の信心をあわれと思い、福泉禅寺の裏に一人の女の子をさずけておいた。明日の朝早速に寺に行き、その子をつれて帰るがよい』とお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と申しました。

 大黒丸夫婦にもらわれていった女の子はとてもかしこく美しく成長し、縁あって宮廷に上がることになりました。これが和歌の名手和泉式部だったのです。和泉式部が遠いこの故里を思って詠んだ「ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ」という歌が今に伝わっています。

 2つめは「幽霊の掛軸」の由来です。江戸時代、福泉禅寺の住職東州和尚が修行の旅に出ていた時のことです。ある夜、泊めてもらった駿河国(現在の静岡県)のお金持ちの家に幽霊の掛軸が飾ってありました。和尚が幽霊の掛軸を飾っている理由を主人に尋ねたところ、「この掛け軸は、継母に反発して悪行を重ねる子供のもとに、亡くなった生みの母が幽霊になって『育ての母上に逆らってはいけない』と諭すために現れた姿を描いたものです」という答えが返ってきました。その話に感動した東州和尚が「是非地元の同じ境遇の家庭にもその話を伝えたい」と申し、譲り受けてきたという掛軸が今も福泉禅寺に保存されています。

白石町HPによる


問題はここからです。面白い事に、知ってか知らずか、白石町HP氏も踏み込んでおられません。

和泉式部は多くの貴族の妃になっていますが、最初の夫になった人は和泉守 橘 道貞なのです。

では、何故、このような都から見れば片田舎の肥前国から、衰えたりとは言えども、橘氏一族の中級公家の妃となり、その才能から参内できるようにもなったのでしょうか?

それは、奈良麻呂の変後も、また、古来、中央の残存橘一族との連絡を保ち続ける橘氏の一族が杵島山の一帯に住み続けていたからであったとしか考えようがないのです。

 鎌倉政権成立後、橘 公業(キンナリ)の一族は、伊予からこの地に進出(復帰)します。

 このことから公式には肥前の橘氏の歴史が始まったと考えられますが、和泉式部の話を持ち出すまでもなく、また、火の国の論証からこの地が二千年以上前から橘一族成立以前の天御中主、白川伯王〜豊玉彦=ヤタガラスに繋がる白族の故地であったから(恐らく白石町の「白石」も無関係ではないでしょう)ではないかとまで思考は拡散します。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

643

火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“橘一族とは白族!”

642

火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“白族は雲南から”

641

火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“九州王朝の白族”


 杵島山とは幾つかの小山による連峰の総称でしかなく、杵島山というものがある訳ではありません。

しかし、この山の周りの人々は千年の永きを越え、今なお親愛への思いを込めて杵島山と呼び続けています。

この背景には、橘一族が紀氏であったから杵島山と呼ばれたのではないかと考えるのですが、これ以上は根拠のある話ではありません。

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百嶋由一郎024〆鳥子系図004ヤタガラス系譜原本鳥(部分)


 鎌倉期にこの地に入った橘一族は最終的にこの地を守り切れずに熊本県菊池市、長崎県川棚町…などに四散しますが、橘 公業の時代に渋江、牛島、中村の三家に別れます。

 橘 諸兄の時期に橘氏は最後の最盛期を見ますが、奈良麻呂の変後は中級以下、地方の公家として命脈を保ちますが、鳴かず飛ばずのまま武士の時代を迎えます。

 とはいえ奈良平安の数世紀を経て勢力を保った大族であることには間違いが無く、橘氏の後裔の人々は数多くおられるはずです。

 橘 公業以降の本流の渋江一族は菊池氏の庇護に入ります。これについては、


ひぼろぎ逍遥 

438

天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”


をお読み頂くとして、私達が確認できた橘氏の一族には、渋江、牛島、中村の外にも、多くの分流があり、宮原氏やかく言う古川家も含めればまだまだ思い当たる方々は多いと思います。

 少なくとも、橘一族という同族集団の先祖神を祀る神社として参拝して頂きたいと思って止みません。

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そもそも、私が杵島山の橘氏に関心を持ったのは、私の妹が同校に務めていた事もあり橘小学校の吉野千代次校長を存じ上げていたからでした。これらの事からかれこれ15年も前の話になりますが、何度かご自宅を訪問し橘氏を中心にこの杵島山周辺の歴史など多くのお話をお聴きしたのが始まりでした。

既に御高齢でしたが、最期の力を振り絞り多くの事を伝えて頂いたのですが、その業績は、下を見て頂ければ、今尚、纏まった形でアクセスが可能で、かなり長編のDVDを見る事ができます(現在中断)。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記
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