2019年11月28日

ビアヘロ109 呉国からの通信 “江蘇省在住の「列島の呉」の研究者との作業から…

ビアヘロ109 呉国からの通信 “江蘇省在住の「列島の呉」の研究者との作業から…                                                        

           20191004

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


暫くの間パソコンのメールへの対応ができなくなっていたことから数週間に亘って返信を怠っていました。ここで、他の方も含めて改めてお詫び申し上げます。

その一つに呉越同舟の呉に相当する江蘇省在住の中国の研究者から連絡が入っていました。

このメールも8月末のもので、まさしく一ケ月以上放置していたことになります。

話に入る前に、近々にオンエア予定の ひぼろぎ逍遥(跡宮)版 ビアヘロ 103 全国の九州王朝論者に向けて! 緊急報告“呉の大伯108代を南九州市に案内した” 20190805 を先行してお読みになる方が分かり易いのではないかと思います。余裕のある方は是非試みて下さい。

以下は、その一部です。

猛暑にも関わらず、メンバーの伊藤正子女史による研究会が二年目に入っています。

小規模ながらも熱心な方々が参集されるもので、今後どのような展開を見せるか関心を寄せています。

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私も731日の勉強会に参加したのですが、ドラマは勉強会終了後の夜10時から始まりました。

車中泊を決め込むつもりで車の冷房を入れネット検索を始めていると、大阪の内倉武久先生(元朝日新聞記者 三一書房、ミネルヴァ書房から四著ほか)から連絡が入りました。

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最近はそれほど頻繁には話していなかったのでこれは何事かと色めきだったのですが、案の定とんでもない話が舞い込んだのでした。

まだ、詳しい事情は聴いていないのですが、どうやら1994年刊の「謎の巨大氏族・紀氏」を書かれていたことから、列島に移動した呉の王族の末裔を探ろうと中国の江蘇省(上海に隣接)にお住いの呉 本立氏(実名を上げても問題はないと理解しますので)が列島の古代史研究者を求められ、古田武彦系の関東の組織である多元の会辺りに連絡され、下掲の謎の巨大氏族・紀氏」を書かれた内倉先生に逢われたのでした。

勿論、倭人は呉の太伯の末とか後裔といった話は古代史研究者の間では常識であり誰でも知っていることですが、山奥の奈良に呉の一族が避退したはずもなく、考古学協会や学会通説に尾を振るただの利権集団でしかない邪馬台国機内論者などにとっては面白い話でも金になるはずもなく、真面目に研究する人間など皆無であって、この問題を正面から取り上げる人など存在しないのでした。

唯一というのは多少問題があるかも知れませんが、そういった中では内倉研究は唯一のものだったかも知れません。

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そういった事情から、呉元教授(寧波師範大学英文学教授ほか)と随行者の田 晶氏(英語は元より日本語も読み書きができ英語も使う商社マンで日本の古代史にもよく精通されている)が大阪で3時間ほど内倉先生(何度も中国に行かれておられある程度の中国語は話されます)と面会され、実際にその末裔と考えられる人に会いたいとの希望から私の方にその案内を依頼されたのでした。

既に呉教授一行は福岡市内に移動されており、残り二〜三日しか滞在されないということもあって、どうしても夜のうちに話を着けるしかなく、急遽、鹿児島の川辺町の郷土史家の青屋先生や高良家に連絡し大体の了解を得た上で中国のお二方と新幹線に新八代駅で合流する事にしたのでした。

薩摩川内市で降り、昼食にはまだ早かったことからレンタカーで加世田(現南さつま市)に向かうことにしました。

勿論、レンタカーの方が機動性に優れ便利で安いのですが、外国の方を乗せて事故でも起こすと厄介ですので、急ぐこともありタクシーで向かうことにしました。

加世田で昼食を済ませ、青屋先生をお乗せして高良酒造に向かいましたが、6年前に何度も出向き周辺調査を行った事が鮮明に浮かび上がってきます。

御当主とお会いしましたが私を良く覚えておいでで、話はとんとん拍子で進みました。

この高良家は現在でも久留米の高良大社に造られたお酒(勿論甕造りの焼酎ですが)を毎年奉納されており、それだけでも高良玉垂命との関係が焙りだされます。

中でも、奥様からお聴きした「嫁いできたときに姑さんからお聴きしたのですが、当家は今は「高良」を名乗っていますが本当の姓は「紀」です…とのことでした」は実に象徴的で、家伝とはかくも強固なのかと思い知らされたのでした。

これらについては非常に面白い話がいくつもありますので、九州王朝論者であるならば勿論の事、まだ、ご存じでない方は「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」から以下の6本程度をお読みいただきたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

356

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

355

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” D

354

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” C

353

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” B

352

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” A

351

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” @


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パワー・ポイントも作成していますので希望の方は1000円程度の実費でお送りできます。09062983254

ご同行頂いた中国からのお二人も系譜の冒頭にはっきりと「紀姓」と書かれていたことからそれだけでも納得され、同族として感激されたようですが、当方からの質問にも幾つかお答え頂き納得した部分もありました。

 一つは地元の青屋先生から“春秋戦国の呉と三国志の呉には関係があるのか?”との質問が出されました。これについては、“呉の孫氏の一族に妃を送り込む一族が春秋戦国の呉の一族の後裔だった”とのお話(具体的には孫権の母親が呉氏だった)で、その点は私も含めて以前から抱いていた疑念が氷解しました。この事実は当方も承知していましたが、その継続性については知識が無くよく理解できたのです。

呉夫人は、中国後漢末期の女性。揚州呉郡呉県の出身。孫堅の正妻。弟に呉景。子は孫策・孫権・孫翊・孫匡・女子1人。呉において武烈皇后の諡号を贈られた。『三国志』では呉太妃と呼ばれている。

ウィキペディア


無題.png系譜を確認される呉 本立教授(左)と高良酒造当主(右)




さて、ここから今回の少しばかり厄介な話になります。呉教授ではなく、日本語の会話から読み書きまでできる田昌さんからメールが入りました。 



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またもや手に余るご質問から、しばし、閉口していましたが、気を取り直して少し調べてみることにしました。と、言っても、皆さんも何のことだかチンプンカンプンかと思います。

 勿論、これだけではどなたもお分かりにならないでしょう。当然にも、資料が添付されています(次葉)。

 25年も前のかなり古いものですが、古田武彦氏へのサポート団体であり続けた九州王朝論者の多元的古代(関東)の機関誌3199410.3 掲載されたものです。これは熊本の九州王朝論者として孤塁を守られた故)平野雅廣(日+廣)氏が書かれた論文に関するご質問だったのです。

これについては短文である上に問題もないと思いますので古川の責任で全文を掲載します。

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以下同誌35p 文字が小さくて読辛いと思いますが、重要なものですので是非お読みください。

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現在は消されているものの、かつて熊本県菊池市の中心部に「姑蘇」(コソ)という地名が存在しており、それが南禅寺の学僧であった桂庵の「島隠集」に書き留められている事を平野先生が書かれているのです。

 この文章というよりも、著書 倭国王(くまそ)「火ノ国山門」平成8115日の冒頭の文章に関わるご質問を頂いたのでした。

私は辛うじて平野先生の4著を全て持っており、一応は一通り目を通していることから多少は理解できますが、既にほとんどの九州王朝論の研究者が鬼籍に移っておられます。

お笑い種ですが、九州王朝論の研究会を自称する九州〇〇の会とかのメンバーも熊本の孤高の九州王朝研究者であった平野先生の著書どころか、故)古田武彦先生の初期三部作さえまともに読んだこともない方々ばかりとなり、通説派の学芸員とか教育委員会関係者の邪馬台国畿内説まがいの話に平服しているありさまなのですから実に情けない限りです。さぞや古田先生も嘆いておられる事でしょう。

「こいつら一体何やってるんだ…」少しは口パクだけではなく自分の頭と手足を使い労を惜しまず調査でもなさったらいかがでしょうか。遠い中国からでも関東〜関西〜鹿児島へと足を延ばし調査に来られているのですから。

研究者面されるのであれば少しは自分で調べて頂きたいものです。少し話が逸れました軌道に戻ります。


無題.png桂庵 玄樹(けいあん げんじゅ、1427応永34年)- 15086月28永正56月1))は、室町時代後期の臨済宗薩南学派を形成した。桂菴 玄樹と表記される場合もある。

長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺惟肖得巌景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467には遣明船の三号船士官となってに渡海して蘇州などを遊学する。1473日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478島津忠昌に招かれて大隅国正興寺日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で儒学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481)して宋学の普及に努めたことから、薩南学派の祖として名を成した。

日本で初めて朱熹の『四書集註』を講義した岐陽方秀が施した訓点を玄樹が補正し、更にそれを南浦文之が改訂したのが「文之点」である。文之点は、近世、四書読解の主流となった。

その後、建仁寺南禅寺の住持となり、1502に薩摩に東帰庵を営んで同地に住んだ。1508年、82歳で死去。著書に『家法倭点』、『島陰文集』、『島隠漁唱』など多数ある。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191004 0947による(ウィキを引用すると学者や学芸員に馬鹿にされますが、嘘よりは余程ましなので、当方は嫌がらせの意味で利用しています)。


@  お分かりの通り、平野先生が著書で触れられた「島隠集」とはそれらの総称かと考えられます。

A  長門国(現山口県)下関の赤間関出身 → 京都南禅寺→ 豊後国万寿寺 → 豊、筑、肥の三州に居住 菊池重朝にも呼ばれ熊本県菊池市隈府に滞在中に隈府の「姑蘇」辺りに居住した … 応仁の乱の主役の一人である大内義隆から招かれ長門国永福寺住持となる → 明に渡海 蘇州に遊学(この時期菊池氏は金峰山の南麓を拠点に明と貿易を行っている) → 応仁の乱で石見(現島根県)に避退 → 島津忠昌に招聘され大隅国(現鹿児島県東部)正興寺、日向国(現宮崎県)竜源寺、島津忠簾に招聘され薩摩国(現鹿児島県西部)で桂樹院で講義

B  よって薩南学派を形成する…「桂庵」は桂樹院から号されたのかその逆なのかは不明。

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これで、ご質問の一部はお分かりになられたかと思います。

漢詩の解読までしたいともできるとも思いませんが、「姑蘇臺上月明の天」は菊池の隈府の姑蘇で歌われたものなのでしょうか。「臺」が書かれている以上、通常言われるところの鞠池城の丘陵を描いてのものなのでしょう…また、江蘇省の方には「長門」はお分かりにならなくて当然ですが、現山口県の長門市から萩市一帯を出でて幾年」を経たる。としておきましょう。

分かりにくいのは、「貞上人肥陽より来る」です。

原田 種真の「肥陽軍記」は肥前の龍造寺種信の話ですので、一般には使われない「肥陽」という言葉は肥前、肥後の肥州であり、ここでは佐賀県を意味しているはずです。

 次の“南国寧んぞ千里の友無けんや”は鹿児島県に移動して貞上人を迎えての気持ちを詠じたものでしょう。

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今回、江蘇省の方に説明するために当方も丁寧に書きましたが、改めて「姑蘇」地名が菊池の隈府に存在したものと再認識したところです。

 この菊池に存在した「姑蘇」は湿地帯の辺であったはずで、呉の国と同様の高床式の館が存在していたのではないかとあらぬ想像を廻らしているところです。

 しかし、改めて平野先生の研究には頭が下がります。

 肥後のような保守的な所に於いて九州王朝論に自ずと辿り着き、最後まで孤塁を守られた先見性、誠実さには頭が下がります。菊池辺りの某研究会で行政や教育委員会に向けて弁を振いつつ古田史学の会にも潜入したさもしい宮司などとは雲泥の差を感じてしまいます。

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「神来」と書き「オトド」と読みますが、こここそ呉の後裔たる王族が住み着いていた場所であろうと考えています。

住宅地の周辺には多くの田畑がありますが、それは河川改修の結果できたもののはずで、古代には隈府地区(右手菊池の中心部)から多少離れ、湿地帯に囲まれた島か岬状の安全な場所であった様に思えます。 

正確に言えばここは隈府ではないはずです。この「神来」こそ呉の王族の居留地であったはずです。

付近の神来貴船神社は十五年も前に一度訪れていますが、そのうち足を運びたいと思っています。

御面倒でも情報をお持ちの方は当方までご一報ください。09062983254 古川

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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