2019年11月22日

ビアヘロ108 菊池一族は阿蘇系とは異なる民族だった!

ビアヘロ108 菊池一族は阿蘇系とは異なる民族だった!

201900910

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここ一年で ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下の四本をアップしています。

ひぼろぎ逍遥

723

菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(上)

ビアヘロ105 菊池一族とは大山祗系民族だった!“内倉武久氏らと宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”  


 このため、本稿もビアヘロ版105の続編とお考え頂いて構いません。

 日本人は単一民族であり奈良県辺りにあった卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へと発展し遍く列島に広がって行ったなどと惚けた宣伝に載せられる方ならいざ知らず、南島は元より江南から淮河から半島から渡って来た多くの民族によって列島民族が形成されてきたという至って常識的かつありうる話から言えば、玄関口に近い肥後は黒潮の分流が流れ込む土地でもあり、初来の訪問者が住み着いた土地であるはずなのです。従って半島〜大陸に侵入を繰り返した多くの民族の一部も避退進出を含め入っているはずなのです。

ここ五〜六年あまり、南北朝争乱期を中心に跋扈した菊池氏は阿蘇氏とは別の氏族というより全く別の民族ではないかと考え無題.pngてきました。一つの疑念は菊池市の南部の中心領域に「赤星」という地名が存在する事でした。赤星と言えば直ぐに頭に浮かぶのが「先代旧事本紀」ですが、同時に頭を過るのが歌舞伎の「白浪五人男」の赤星十三郎でした。多分、出雲(阿国)から発生した歌舞伎のこと出雲が物部の本拠地の一つであった事が分かれば新たな関係性が見えてくるでしょう。面白い事に隣の山鹿市中心部には十三部(ジュウザブ)とも読める地名まであるのです。多分赤星十三郎の名の採用に関係しているかも知れません。後段でも触れますが大国主命とは大山祗の子であり(百嶋由一郎最終神代系譜)出雲とは物部氏の本拠地だからです。    

話は跳びますが、島根県大田市にニギハヤヒの裔のウマシマジを主神とする物部神社が在る事を思い起こして下さい。       


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赤星と言えば直ちに「天津赤星」が頭に浮かびますが、この物部氏の中核勢力たるニギハヤヒに直結する集団が赤星(後の筑紫弦田物部か…)であり、その地名が存在すること自体菊池氏が阿蘇氏とは全く異なる民族ではないかと考えざるを得なかったのです。


天津赤星 …なお,〈明の明星〉〈すばる()〉〈北斗七星〉〈宵の明星〉はそれぞれの項目を参照されたい。天津赤星(あまつあかぼし)《旧事紀》の天神本紀にある。饒速日(にぎはやひ)尊に従って天降り供奉したとあり,尾張国神名帳に赤星大明神というのがこれらしい。…    「コトバンク」による


本来これだけでも気付くべきでしたが次に疑問を持ったのが家紋でした。

菊池氏と言えば皆さんご存じの並び鷹羽が良く知られています。これからは菊池氏が阿蘇氏の兄弟分にしか見えませんね。しかし、元々は日足紋を使っている事は分かっています(普通は鎌倉期の第8代菊池能隆辺りからとされますが)。それ自体がある種の偽装である事にようやく思い至ったのでした。

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左から菊地氏が元々使っていた八日足紋 ⇒ 並び鷹羽紋 阿蘇氏でも健磐龍系が使う違い鷹羽紋


 ここで、宮方として義を全うした南北朝の忠臣氏族菊池氏…といった先入観を取り除き、菊池氏が阿蘇氏とは全く別の民族ですらある物部氏であったと考えたら一挙に謎が解けてくるのです。

 13世紀後半から鎌倉幕府執権体制の崩壊から始まりますが、直接的には室町期の13361392年までの60年ほどの内乱期が南北朝時代とされます。ここでも九州の宮方(阿蘇氏、菊池氏、五条氏、黒木氏…)が屈服する事によって全国が平定される事になるのでした。この時、南朝方として戦う宮方連合軍内に於いて、多くの氏族が参画してくる中にあって、正統皇統を主張する宮方にとって武家=武士(モノノフ)=物部(モノノベ)に直結する菊池氏が宮方勢力と理解される事を嫌い(朝敵の熊襲が宮方に入るとは何事だ!と言われる事を避けたのではないか?)、阿蘇氏の神紋である鷹羽紋を使い阿蘇氏の一派の様に装ったと考えると何とか謎が解けるのです。鎌倉初期までは日足紋を使っているようですが、徐々に物部隠しが始まっていたように思えます。では、菊池氏が阿蘇氏とは全く別の一族で物部氏と言えるのでしょうか?この菊池氏の出自を探るために時間を費やしました。しかし、何とかその糸口が得られたのです。


菊池氏とは大山祗の後裔氏族だった


 さて、熊本県人吉盆地の奥の奥、宮崎県の西の国境に西米良村がありそこからさらに10キロ入る辺境の地に狭上稲荷神社という神社があります。この神社が如何に価値あるものであるかは言い尽くしようがありません。これまで三度参拝し見えて来た認識を進め更に一般にも広くお知らせしようと思うものです。

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狭上稲荷神社 カーナビ検索 宮崎県西米良村村所503 社務所宮司宅(左)参拝道を歩む内倉武久氏(右)


 この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地にあるのですが、村の中心部の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底へ降りるとようやく辿り着く正しく大変な場所の僅かな小平地に鎮座している稲荷神社です。しかも同社の傍には伝大山祗の墓とする古墳までがあるのです。この古墳には石棺もあるらしいのですが、後述の「石櫃」地名と関係があるのではないかと考えています。

 実は、同社への道は川沿いに上がる直行ルートが本来の参道の様で、川沿いに今も上がってはこられるようですが、車で入る事が出来る道がないため、現況では延々10キロの山道で迂回し入るしかないのです。


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。

宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会

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 第二回目は熊本の女性メンバーなど6名で入りましたが、今回、当会の新メンバーであり人吉盆地の一角でblog「ひろっぷ」を書き続けておられるM女史に、芦北町の郷土史グループ「野坂の浦」メンバーの吉田先生、さらに大阪から来られた内倉武久先生の3人をお連れしました。

 四人の思いは各々あったでしょうが、少なくとも私が最も関心を持っていたのは南北朝期に宮方として闘い続け敗れ去った菊池氏が何者であるかをさらに多くの観察通者の目で掴むことにありました。

 九州の中近世史を考える上でも菊池氏は無視できませんが、実は九州の古代史を考える上でも決して無視できない存在でもあるのです。簡単に言えば岩手県が顕著なのですが、東北地方に菊地、菊池姓を名乗る方が大量におられる事は知られています。

 中近世期に同氏の目立った移動が確認できないため、恐らく八世紀以前の九州王朝の時代に何らかの理由で展開しているのではないかとも考えて来ました。

南朝方菊池氏…云々だけで凝り固まっておられる方は別として、我々九州王朝論者にとって、この菊池氏が何者であるかについてはこれまで闇に包まれてきました。普通はその氏族が奉斎する神社の祭神や家紋を見れば凡その見当が着くのですが、菊池氏については、それが効かなかったのです。

 例えば神社ですが、いくら多くの菊池系神社を踏もうが祭神は菊池武光、武時、始祖の則隆…ぐらいで一向に祭神が見えてこないのです。

 唯一、33番神楽でも知られ菊池氏の逃げ城と言われた現宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社だけに磐長(イワナガ)姫(通説で大山祗からコノハナノサクヤと共に送られるも返されたと言う酷い話に仕立てられた)が祀られ僅かにその痕跡を感じていましたが、ようやくその意味が見えて来たのです。

先に狭上稲荷神社の祭神を再度確認しましょう。


 銀鏡(シロミ)神社 カーナビ検索 宮崎県西都市大字銀鏡492

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地元の〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 によれば 大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先 となりますし、同社の由緒に依れば、大山祇命 蒼稲魂命(恐らく倉稲魂命) 大己貴命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先となり鹿児島県だけに分布する大宮姫伝承の大宮姫命は含まれてはいません。

 確認したい方は以下をお読み下さい。いずれにせよ菊池一族が奉斎する神々の見当がある程度は着くのです。これに銀鏡神社の磐長姫を考えれば菊池氏が何者かの見当が大凡着くのではないでしょうか。

 同社由緒の全文は以下で確認できます。


711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


では、我が百嶋由一郎最終神代系譜で確認して見ましょう。

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稲荷様とは伊勢の外宮の豊受大神こと辛国息長大姫大目姫(大山祗の長女神大市姫の娘)です。

これらから読み解けば、狭上稲荷の祭神(当然にも稲荷を含む)の全てが大山祗のファミリーであり、菊池氏が奉斎する神々がウマシアシカビヒコチ(トルコ系匈奴=大昭君系親漢派の南匈奴)と天御中主命(白族)の後裔であることが分かるのです。

 では、銀鏡神社の主神の磐長姫(通説でコノハナノサクヤの姉とされる)の方はどうなのでしょうか?

 その前に磐長姫が誰かが分かっておられない方が多いと思います。

 これについては、当方のバックナンバー ひぼろぎ逍遥(跡宮)020 細石神社とは何か?などを読んで頂くしかないのですが、分かり易いのは ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @ かも知れません。


487

安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @


 一応の説明を致しますが、率直に言えばかなり分かり難いと思います。このため、先に分かり易い方の簡略化した説明をしておきます。

@  コノハナノサクヤは確かに高木大神の息子であるニニギのお妃になります(その子が糸島半島の桜谷神社の古計牟須姫命)。しかし、百嶋翁の話によると数年で別れ、豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入り事実上のお妃のお一人となります。

A  とすると、ヤタガラスの姉がアカルヒメ=磐長姫ですから、コノハナノサクヤにとってアカルヒメとは義理の姉になるのです。

 これが磐長姫がコノハナノサクヤの姉とされる仕組みなのです。しかし東米良の銀鏡神社の祭神がイワナガヒメとされた理由は不明です。もしかしたら天御中主命の勢力(白族)の支援を期待しての事だったのかも知れません。これで菊池氏が大山祗系の氏族である事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

前述の如く通説では木花之佐久夜毘売は、ホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとしますが百嶋神社考古学ではそれを認めません。また、磐長姫と木花之佐久夜毘売とが実の姉妹である事も認めません。また、無関係でもないと言うより、むしろ関係性の強い従妹のような関係なのです。

B  南北朝期に阿蘇氏と連携し戦い続けた菊池氏でしたが、彼らが自らの素性、つまり熊襲であった事を隠す必要が有り阿蘇氏と同様の鷹羽紋に変更し阿蘇氏一派つまり熊襲ではないと偽装した可能性が浮かび上がってきました。つまり朝敵と言われないための配慮だったのです。今後も探索します。

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まず、百嶋神社考古学で、イザナミはイザナギと別れた(神話では黄泉の国で喧嘩別れした事になっていますが)後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり豊玉彦=豊国主=ヤタガラスとアカルヒメを産みます(これには多くの傍証がありますがここでは省略します)。


以下、百嶋由一郎最終神代系譜と極秘系譜(部分)

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敢て、分かり難い方の解説を行なえば、磐長姫は博多の櫛田神社の大幡主(白族)を父神として金山彦(瀛氏)の妹神であるクマノフスミ(イザナミの後の神名)を母神として生まれたアカルヒメ(スサノウのお妃で姫島に戻ってきた)とします。

一方、コノハナノサクヤヒメ大山祇(越智族)を父神として、博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫母神として産れた大国主命の妹とします。このため妙な表現になりますが、父神も母神も異なるものの、アカルヒメの父神とコノハナノサクヤヒメの母神が兄妹であることから、腹違いで種違いの従姉妹といった関係にはなるのです。これは勿論伏せられていますが、百嶋先生がこの事実を把握された事により、問題が鮮明になってくるのです。これを神話では姉妹としていますが、アカルヒメこと磐長姫が醜かったから返されたとする神話には、阿蘇氏の後裔としての藤原の作為が感じられ、金山彦系を貶める意図があるように思えるのです。

ただ、磐長姫の名誉のために申しあげておきますが、イワナガヒメ=アカルヒメは新羅の王子様であったスサノウから逃げて国東半島正面の姫島に上陸したとされているのであって、スサノウが但馬の出石に追いかけてきたほどの女神であったとすれば、到底醜かったなどとは思えないのです。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで


熊襲トルコ系匈奴については以下の系譜から読み取ってください。これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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