2019年11月24日

649 九州王朝成立前夜の解明へ B “九州王朝を支えた多くの民族集団”

649 九州王朝成立前夜の解明へ B “九州王朝を支えた多くの民族集団”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


九州王朝は博多に拠点を置いていた列島大率 姓を「姫氏」とする「君長」 呉の太伯の後裔だったようです。

ただ、それだけの実権を握り、個々の実力組織を動かしていたと言ったものではなく、血統の良い名望家といったものでしかったような印象を持ちます。

それは、中国ナンバー・ワン周王朝の後裔=“倭人は呉の太伯の末”であることからくるものなのでしょうが、元々、紀元前4世紀に滅んだ呉も、元々は周王朝の一族の一流が長江流域に南下し、一帯の越人というか後の倭人に相当する民族が担いだ国だったのであり、その実権はその倭人の頭目とも言うべき海人の首領が握っていたのではないかと考えています。

従って、この九州王朝の象徴とも言うべき君長を担いでいたのも志賀島の海人族であったはずなのです。

元より通説派の方々のご指摘など耳に入れる気持ちがない事は言うまでもありませんし、彼等によるどこにそんなことが書かれているとの御高説も、その根拠はと問えば「記」「紀」に求められておられるだけなのですから、「古事記」の95%は嘘だと言い切った百嶋翁の説を継承せんとする者からすれば、元より議論する価値などありはしないのです。勿論、これも百嶋由一郎氏の面受として聴いた話です。

“天照””神武“は、遠く離れた世代の様に描かれていますが、決してそうではありません。

同時代に糸島から福岡市南区の油山の裾野一帯に住んでいた”(直接このフレーズの表現ではありませんが、そういう趣旨で話されていました)“神武は、福岡市南区柏原(カシワラ)、天照は福岡市南区桧原(ヒバル)に居られた…”決して南九州だかの高千穂などではないのです。

そして、福岡市南区油山からは今も樋井川まで流れているのです。

また、“熊本から白族(天御中主命〜大幡主〜ヤタガラス)の一族を博多周辺に呼び寄せられ、彼らの移動によって「隈」という地名が福岡〜佐賀〜日田…の一帯に広がっている”とも言われていました。

さて話を戻しますが、この名望家的な性格を持った九州王朝のある意味で脆い体質は、決して連綿として続いていたと考えるべきではなく、それを支える実力集団の交替によって揺れ動き、最終的には支持勢力の一部であり後の藤原氏となる阿蘇氏(肥後に残留した阿蘇氏ではなく中央に進出した草部吉見系の阿蘇氏)や、橘一族(白族、大幡主〜ヤタガラス後裔)の中央への進出として終わったのです。

また、この九州王朝を支えた主要な勢力は、金山彦系→大国主系→神功皇后系→阿蘇系と変っているようです。その一端が、百嶋由一郎が60年の神社研究の末に残した最終神代系譜に最も良く残されているようです。ただし解読にもそれなりの努力を必要とします。実際苦労していますが。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 まず、私達は 故)百嶋由一郎が残した資料や発言をそのまま無批判に受け入れている訳ではなく、作成された多くの神代系譜の裏付けとなる神社の祭祀を九州全域から西日本から東日本にまで拡げ、日々、確認作業を日々行っています。

 これには、連携している多くのブロガーの方以外でも、移動手段を持たない方は日々ネット上で検索を繰り返し行い裏を取っておられる方もおられますし、家族を連れてテント暮らしで山奥まで神社の探訪を続けておられる方もおられます。

 それは、この神代系譜(これも数え方によりますが全体では5080枚を超える)を確認する作業であり、多くの神社でどのような祭祀が残されているかを確認する事によってようやく全貌が見えてくるのです。

 当然、古代からも、また、直近では大東亜戦以降の政情の変化が影響し、結果、祭神が入替えられているものもありますし、祭神そのものが隠されているものもあるのです。

 それらを幾つもの神社を巡り、由緒、縁起に、摂社、分社、末社の配置、配神、奉斎氏族、関係神社から読み解き、祭神がどのように変わって来たのかを推定できる目を養う必要があるのです。

 このためには多くの神社を見る必要がありますので、「記」「紀」の字面だけを覚えて結論を出される方々から郷土史や神社庁などの資料だけでの判断するような説に迂闊に乗る事などできないのです。

 勿論、掲載した神代系譜は百嶋由一郎氏が一生を掛けて復元されたものです。

 しかし、この基礎となる何がしかの系譜が多少はあったのではないかと思っています。

それは、今思えば相当前の事の様でしたが、生前、先生がおっしゃっていた研究熱心な宮司や賢い神官による研究会があり、そこで話された事は一切他言無用と言う形で密かに意見を交わす会合が行われていたと聴いていました。もしかしたらその内部でこの系譜の基礎となる部分的な系譜が存在していたのではないかと今は考えています。

ただ、前掲の系譜にも明らかに九州王朝そのものの時代が反映されており、この祭祀が残された神社の探訪によって九州王朝の盛衰、中心地の移動、支持勢力の交替…といったものがある程度は復元できるのです。

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系譜を少し大きくしましたが、今考えれば、百嶋先生が中央に書かれている白川伯王〜大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの一族こそが、実は列島を率いた最も有力な最重要氏族であったと考えられるのです。

だからこそ、多くの民族と姻戚関係を結ぼうとした(つまり多くの民族が自らの安泰と勢力の拡大を求めた)のです。

この神代系譜に登場する34世代ほどのほぼ百年間の神々の時代は、一般の古代史の世界では遥かに遠い神世の世界の様に描かれていますが、それは第10代とした神武僭称贈る崇神こそ神武天皇なのだとしたかったからであり、そのために、神武、天照(卑弥呼)、懿徳、孝霊、孝元、開化、仁徳という九州王朝正統皇統九州王朝の中にこっそりと、阿蘇氏やら大幡主やらが自らも古くから天皇家の一族だったのだのだと主張せんがために接ぎ木、挿入されているのです。

概略はひぼろぎ逍遥(跡宮)から

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和風諡号から考えてみた

をお読み頂きたいのですが、

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@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


一応、16代までの天皇の和風諡号を「日本書紀」に沿って並べて見ました。

 百嶋神社考古学では@、C、F、G、H、M の6代だけは呉の太伯の流れを汲む正統皇統の天皇と考えます。

では、それ以外の10人の人物はとお考えになると思いますが、

2代贈)綏靖天皇とは、現在、阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている金凝彦(神沼河耳命)であり、第3代贈)安寧天皇が誰かは謎だったのですが、現在のところ博多の櫛田神社の大幡主(天理教の主神でもある)ではないかと考えています(研究会内部には他の人物への比定もありましたが、ひとまずこれで決着したようです)。

 第5代贈)孝昭天皇は、阿蘇高森の草部吉見神社の主神(ヒコヤイミミ)とされています。

 第6代贈)孝安天皇は、熊本県玉名市の疋野神社の「波比岐神」=大族日置氏の祖とされています。

 第10代贈)崇神天皇は、福岡県那珂川町の現人神社、博多の住吉神社の主神とされている年若の開化天皇の臣下とされていました。第11代贈)垂仁天皇は、宮崎市の生目神社の主神。

 第12代贈)景行天皇は、第6代贈)孝安天皇(玉名市の疋野神社)の子であり山鹿市の大宮神社の主神とされていますが、これについては疑いを持っています(景行伝承は存在していたと考えますが明治期に主神にされた可能性が高い)。

 俗に欠史8代とか9代とか通説では文字どおりの架空の神話扱いにされている部分を議論しているのであり、学会通説に阿ねて尾を振る教育委員会や学芸員といった利権まみれの方々からは、当然ながら狂人扱いにされる事は覚悟の上の話になります。

 奈良から日本が始まったとか邪馬台国は奈良にあったとしか考えられない考古学協会が作成した嘘話に取り込まれた方々はどうでもよいとして、少しでもまともな思考ができる最低でも邪馬台国九州説、九州王朝論の立場に立たれる方々でも、二倍年暦(倭人は一年を二年とする「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」)といった考え方で納得されている方が多いと思います。

 ところが、実際には血統も民族さえも繋がらないただの臣下でしかない人物が後に贈る天皇扱いとされ、

全く整合性のない皇統譜が造られている事が見えて来ました。勿論、藤原氏が自らの側に取り込みたい有力氏族の祖を天皇に仕立てただけなのですが、これが、タラシ系とかイリ系などと言われる事と関係しているのです。これは、宮内庁、神社庁は十分理解されているはずなのです。

元々、「古事記」の95%が嘘、「日本書紀」は部分的に正しい事を書いていると言われた百嶋先生でしたが、「阿蘇ご一家神代系譜」などに、前述した初期の天皇、贈天皇、別王が実際には誰であったのかについてのメモ(ヒント)を残しておられました。まずは、その事についてご紹介しておきます。

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この第2代綏靖(阿蘇の神殿最奥部に祀られる)神沼河耳は確かに実力者だったのでしょう。

なにしろ蘇民将来伝承の一方の主人公である巨旦(蘇民将来古潭将来の巨旦)だったのですから。

一番酷い例が第10代崇神であり、確かに四道将軍を送り込むなど、近畿から東国への開拓を進めた業績はあるのですが、それは、あくまで開化+神功皇后の臣下としての功績であって、阿蘇氏に繋がる一族であった事から、ちゃっかりと息子まで挿入しているのです。

大幡主系は控えめに第3代安寧として申し訳程度ですが(これとて藤原が橘一族を懐柔するためにやった事なのです)、当然にも阿蘇氏はふんだんに挿入されているのです。

良くタラシ系として頭を悩まされておいでですが、これもスポンサーが阿蘇氏であって、神武僭称贈る崇神以降は旧阿蘇氏の藤原が藤原天皇制を敷き詰めている事が一目で分かるのです。

最期に申し訳なさそうに実権を奪われた表現となっている仁徳が祀り上げられていますが、ここで九州州王朝は影を隠し中級以下の貴族から追い落とされていったように見えるのです。

これ以降、橘一族の没落と連動し事実上の藤原天皇制がスタートしたのでした。

まあ、中国大陸で横暴な漢族、鮮卑族…と最期まで闘い続けた阿蘇(多)氏の事ですから、彼らの専横は多少は許されても良いかも知れませんが、これに対して、共に列島に避退した白族(天御中主〜大幡主〜ヤタガラス)=熊野系=橘一族は、大幡主、以来、やはり、あまり表に出ようとはされていません(故 百嶋翁の言)。

正しく、日本の根幹を造ったのが、この二つの大族だった事は間違いありません。

つまり、呉太伯王の後裔という血統の良い周王朝の後裔を担いだ二族による連合政権が九州王朝であったように見えるのです。

ただ、列島の開拓史にはこれ以外にも重要な民族が絡んでいます。

百嶋先生によってトルコ系匈奴と看破された大山祗系とイスラエル系の金山彦系の二つ民族です。

勿論、これ以外にも高木大神系(イスラエル系)やスサノウ系、イザナギの系統も関与しているのですから、正しく九州島も多くの民族の坩堝だった事が分かります。

ここで改めて百嶋由一郎最終神代系譜(みたらし団子)をご覧頂きたいのですが、これらの民族が入り乱れる中でも、それなりに姻戚関係によって同族関係を築こうとした民族と、そうでなかった民族とが見えてくるのです。

天御中主命〜大幡主〜ヤタガラスという白族の系統は大山祗(トルコ系匈奴)とも金山彦(イスラエル系)とも相互に通婚を進めて(始めは民衆レベルではなかったでしょうが)いますが、これに対して阿蘇氏の系統も大幡主の系統とは通婚を進めるものの、何故か大山祗(トルコ系匈奴)系との間にはそれが認められないのです。阿蘇氏が連携していたのは高木大神系でした。

これこそが最終的に熊襲が朝敵とされた遠因であって、簡略化したモデルを造れば、阿蘇氏+高木大神連合 VS 大幡主+熊襲(金山彦+大山祗)が古代の構造であり、それが後の近畿大和朝廷=阿蘇氏による藤原天皇制が熊襲を朝敵としたことに繋がっているのではないかと考えています。

しかし歴史とは面白いもので、藤原天皇制も後醍醐天皇=南北朝の時期を除けば、鎌倉政権、室町政権、戦国期、徳川政権期と長期に亘って、藤原を徹底的に締め上げるニギハヤヒ、トルコ系匈奴系が列島を領導する時代が千年は続いたのでした。現在はまた武家政権がひっくり返され藤原の世に…しかも売国に。

これはある意味で阿蘇氏=藤原氏が封じ込められた時代であって、阿蘇氏が何故あれほど南朝側として闘い続けたのかも見えてくるのです。

ともあれ神話の世界に戻れば、海幸彦、山幸彦の齟齬の片鱗が見て取れます。

久留米の高良大社は、本来、列島最高の神宮以上の存在だったようです。この九州王朝の宗廟に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)には冒頭から海幸山幸神話が出てきます。

内容に多少の違いが認められる事から、グループの「宮原誠一の神社見聞諜」でも「古事記」はこれを元に造られたのではないかと言われています。

何故ならば、もしも海幸山幸神話を冒頭に掲げるならば、何も「記」「紀」と異なる話を伝える必要などないのであって、敢て違う形で伝えられている事は、原型だった以外にはありえないのです。

 いずれにせよ、九州王朝の黎明期を支えた最大の支持勢力であったのは、海幸彦に象徴される阿蘇氏の草部吉見+高木大神系と、山幸彦に象徴される大幡主+熊襲(金山彦+大山祗)だったと考えられるのです。しかし、列島にはその後も新たな勢力が何派となく入ってきます。

 皆様良くご存じの秦氏、百済、新羅、高句麗…であり、恐らく漢王室の敗残による綾人=漢人も、モンゴルも大陸から半島にかけての敗残者が流入し続けているのです。

 この問題が新たな不安定要因となって列島は大きく振動することになるのです。

 初期は、ナガスネヒコの乱によって九州王朝の有力な支持勢力であった金山彦系がサラミソーセージの様に切り取られます。彼らはスサノウ系でもあったのですが(天照とスサノウの対立も天照の母が高木王神系であることから腑に落ちますが)、以前も書いていますのでこの説明は省略します。それ以上に大きかったのは秦氏の流入です。彼らは敗残した金山彦(瀛)の一族と姻戚関係を結んだ始皇帝=嬴(エイ)諱は政(セイ)の一族でもあったのです。サブタイトルを“九州王朝を支えた多くの民族集団”という納まりの悪いものにしましたが、如何なる古代史家もそういった観点では議論されていないでしょう。などと書いているうちに予定の紙面が終わりました。これは終わりとして、また、書くことにしましょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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