2019年11月21日

648 九州王朝成立前夜の解明へ A “雲南省昆明にいた白族が日本列島を開拓した”

648 九州王朝成立前夜の解明へ A “雲南省昆明にいた白族が日本列島を開拓した”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 豊玉彦と言っても一般的にはなじみがないかも知れません。ヤタガラスと言えば知らない人はいないでしょう。この有名な神様のご先祖も雲南省の昆明〜大理から入っていると言えば驚かれるでしょう。

考えれば、当ブログも「阿蘇の神々は雲南省麗江からやって来た」と言う故百嶋由一郎氏の強烈なメッセジによって始まったようなものでした。

 勿論、「阿蘇の神々は雲南省麗江からやって来た」というメッセジは先生のほんの一分でしかありません。ただ、あまりにも明瞭に自らのルーツを描いて見せてくれたところに皆が等しく衝撃を受けたのでしょう。もう一派の白族の移動ルートと併せ、再度、そのコースについてお話しようと思います。

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雲南省麗江                 雲南省昆明 滇池


学会、通説派、教育委員会、それらの権威に繋がる郷土史会、史談会の方々は口を揃えて否定されることは火を見るよりも明らかですが、私達には始めから権威などないため自己保身に走り口ごもる事など一切ありません。

 百嶋先生は、草部吉見系(阿蘇氏=耳族=多氏=宇治族=黎族=支那族…)について話しておられましたが、もう一派、列島の民族を形成する重要な一族が同じく肥後に入っている(後に博多湾岸に移動)と考えておられた様です。皆さんも間違っても奈良の山の中で自生したなどとはお考えにならない様に…。

 草部吉見系はビルマ・タイ系とされる黎族ですが、同じく雲南省にいて漢族からの圧迫を受けていた百嶋説ヘブライ系の白族(ペイツー)が同時期(恐らく紀元前)に海南島に移動し、列島に新天地を求めて亡命していると考えられていたのです。

 当初、百嶋先生から聴いた話は僅かでしたが、徐々に受け取った資料などを解読してゆくに連れて、恐るべきことが分かって来たのです。

 始めは、皆、あまりにも荒唐無稽な話に圧倒されて反論することもできずに狐に抓まれたままでしたが、多くの神社に対する的確な話を聴くに従い、徐々に引き込まれていったのでした。

雲南省でも最奥部、ビルマ、ラオス、中国の国境が集中する一帯、玉龍雪山の麓に麗江という美しい都がありますが、ここに無題.png支那という地名を携え逃げ込んだ黎族は、非常時に逃げ込むためのもう一つの支那(密支那)を準備しており(インパール作戦の激戦地ビルマのミッチーナ=ミートキーナ)、その一帯から流れ出すメコン川(中国名瀾滄江)を利用すれば、南ベトナム(コーチシナ)のサイゴン(現ホーチミン)のデルタ地帯に労せずして流れ下ることができたのです。

一方、雲南省でも省都昆明(クンミン)の滇池(テンチ)周辺にいた白族(一時一部は麗江に近い大理に移動した)は紅河(ファンガ)を流れ下れば、労せずしてベトナムのハノイに流れ下る事ができるのでした。そして、目の前にはハロン湾の沖には海南島が目の前に浮かんでいるのです。


無題.png滇池




百嶋先生は、「示し合わせて…」と言われていましたが、漢族に追われて山上に追いたてられた両派でしたが、そこも決して安住の地とはならず、ある時期、海南島(ハノイのハロン湾沖)に各々集結し、列島を目指した…と言われていました。





無題.png白族




同じ雲南省であっても、山岳地帯の話であり、麗江から昆明に移動する方がはるかに障害が多く、共に漢族と戦っていた両族は、ある時期、これ以上この地に止まる事が不可能と判断したのでしょう。



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謎の青銅器文明滇王国


麗江からメコン河を下り、サイゴン沖から黒潮を利用して北上し、海南島を目指す黎族と、昆明からファン河を下り、ハノイ沖から海南島を目指す白族の二族が海南島で合流し、大量の木材資源を元に、船を建造し列島を目指したと考えておられたのです。

紅河ハニ族イ族自治州は雲南省東南部に位置します。 昆明市の真南に位置する州で、 南部をベトナムと接しています。紅河を下りさえすれば、目の前は海南島だったのです。

当然、海南島には巨木が生い茂っていたはずです。また、呉橋、鼓楼を造る技術は現在でも雲南省、貴州省を中心に少数民族のトン族などに残されています。                          

また、滇池周辺に存在した滇王国の青銅冶金の技術の精度の高さ素晴らしさは良く知られています。

その二つの技術をもってすれば、造船用の青銅製の斧などを準備する事は十分に可能だったはずであり、列島渡海への船や筏の建造は、今なお非常に現実味を帯びて見せてくれています。

彼らは、青銅冶金、釘なしで高楼閣を建てる技術、水田稲作の技術を持って列島に移動したのです。

実は平坦地よりも水を得やすい山岳地帯の農耕技術の方が早く発達したと考えられます。

真平らな中原では水を引く事はむしろ難しく陸稲栽培になりがちですが、山岳地帯では、石垣を組み、水路を巡らし(大半は階段状に落とすだけですが)、水稲稲作に移行しやすくなります。

対して、平坦な関東平野の台地では、水は川底深く流れ、畑作、雑穀栽培に停滞しやすくなるのです。

事実、関東平野が水田稲作を展開するのが遅れたのは、大規模な堰堤が建設できるようになり鉄の大規模生産を待たなければならなかったからです。

農業土木はアジア・モンスーン地帯特有の技術ですが、それを最初に手に入れた彼らこそ、列島に水田稲作を持ちこんだ人々だったのです。

新大陸を目指したピルグリム・ファザースにも似た異なる両民族が移動し列島の開拓が始ったのですが、

黎族は出発地の麗江と天草下島の苓北町に地名の痕跡を残し、列島の重要氏族に成長します。

一方、白族は妙見宮に象徴される球磨川河口の八代辺りから氷川流域の不知火海北部東岸から宇土半島の付け根辺りに拠点を築き、熊本から博多湾岸に移動したと考えています。

この白族は、当時糸島半島に拠点を置いていた大率家の要請によって、肥後から佐賀の東半分、小郡、朝倉、日田方面に移動し、福岡市周辺に展開することになります。

その際、熊本(市の中心部千葉城町付近に隈本地名があった)から隈地名を持って移動したと考えておられました。その一族こそ、博多の櫛田神社の主神である白族の神様、大幡主なのです。

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古代にはダムなど無い事から川を下ればたちどころに海に至るのでした


 百嶋先生は熊本県のご出身で、神社には精通されておられた上に、中国で800回(8000万円)飛行機に乗ったと言われるほど現地を見ておられましたので、この黎族と白族の一部が列島に入って来ており、阿蘇氏とヤタガラスの一族に成長した事を理解されたのだろうと思います。

 そして、この両派からは二人の有名な神様が生み出されるのです。

海幸彦(阿蘇高森の草部吉見)と山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)です。この有名な二人の神様は列島に移動した人々からすれば数世代の後裔と考えられますが、同時代に活躍されているのです。


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黎族は麗江からメコン川を降り旧サイゴンから黒潮で北上し、白族は直接紅河を下り海南島へ


 現在でも海南島の南東部には、保亭黎族苗族自治県があり、加茂という地名が存在します。

 白族でもヤタガラスの一族の本流を祀るのが下賀茂神社であり、阿蘇系と白族系の両派の流れを汲むのが上賀茂神社と考えれば分かり易いかも知れません。

 白族も統計上は黎族の一派と考えられているようですが、恐らく、この一帯に展開し、数世代かけて新天地としての九州を目指したのだと思います。



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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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