2019年11月18日

647 九州王朝成立前夜の解明へ @ “雲南省麗江にいた多大将軍の一族が日本列島を開拓した”

647 九州王朝成立前夜の解明へ @ “雲南省麗江にいた多大将軍の一族が日本列島を開拓した”

20181005

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これまで九州島を中心に十年余り年間500社を超える神社を調査してきました。

また、近年はその範囲を東北青森にまで広げそれらの重要なものを中心に随時ネット上に公開してきました。これらは研究会によるトレッキングと併せ、事実上の基礎調査と言ったもので、これらによって多くのブログを書いてきたのでした。勿論、随時と言っても未公開分のストックが250本近くあり、これらが全て公開される来年の今頃には、また新たなストックができるという訳です。

このため、実質、一年遅れの公開が常態化していることになっていますが、公開時点で校閲しますので、脱稿時点での先走りや思い込みは一年間の熟考によって多少は緩和される事から必ずしも悪い面ばかりであるとは言えないでしょう。

当然、緊急性のあるものについては、その都度、スポット版、ビアヘロ版として公開していますので、即応体制は採れているのではないかと思っています。

これらから紀元前後の九州を意識して後の九州王朝と列島民族の成立の形態のアウトラインを簡略化して描いて行こうと思いますので、“何でそんなことが言えるのか…”と言ったご批判が飛んでくるのは承知していますが、それについては、お読みになっていない過去の1,600本に近づくブログによってある程度は説明していますのでそちらをお読み頂く様にして頂きたいと考えています。

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要約して言えば、我々が「日本」と呼ぶものが一体どのようにして成立したのか…ということが所謂「九州王朝論」の根底を支える概念と理解しますが、ここでは、九州王朝の実在を前提にそれがどのように成立したかを探る作業を進めている事になると理解しています。

 その意味では、日本と倭国との関係を検証するのが九州王朝論とすれば、倭国以前を描き出そうとする作業とは、既に九州王朝論からも離れその古層を探る、いみじくも故)百嶋由一郎が放った「九州王朝前夜」こそが適切で、それらの解明が無ければ九州王朝の実像を描き出す事は凡そできない…と考えます。

 その意味で、自らを九州王朝論者であるということから自立し、既に神代史研究とでも呼ぶべきなのかも知れません。そこまでは前置きとしても、大和朝廷が奈良で自生したなどといったお伽話はもういい加減にして頂きたいと思います。戦後欠史8代を声高に叫び、全てを架空とすることが科学的でもあるかのように主張した学者がいましたが、そんなものが土田舎の奈良近辺にあるはずがないのです。

 さて、故)古田武彦が九州王朝の存在を世に問い既に50年が経ちましたが、今や、それを発展継承せんとする学者は一人としておらず、在野においても古田武彦の継承者は別として、九州王朝論の前進を支える研究者と言える人は、米田良三が亡くなった、今、佃 収 氏と内倉武久氏以外を知りません。

 もうしばらくすれば、それさえも失われる時が確実に到来する以上、現状の邪馬台国九州説を読む会、九州王朝論を楽しむ会が続く以上、いずれ「九州王朝論」消失に備えなければならないと考えています。


中国は支那だった


 「支那」の起源を「秦」とする…敬愛する宮脇淳子先生にこの一点だけで逆らいますが、中国が「支那」と呼ばれた理由を別の側面から取り上げます。

無題.png西日本新聞95.2.9夕刊


 これも故)百嶋由一郎氏の手書きメモに入っていたものですが、実際に雲南省麗江周辺に二ケ所、メコン川(瀾滄江)を渡った旧ビルマに「支那」地名(旧ビルマは密支那=ミッチーナ、ミートキーナ)があります。そこに拠点を置いていたのが、阿蘇氏の祖先である黎族の一派(耳族、多氏)であった事を現地に入り着きとめられていたのでした。

 少なくとも、現在でも「支那」地名「支那城」が存在しているのです。この自らの支配領域を親愛と誇りを込めて「支那」と呼んでいる人々がいる(後裔の残留者も居ることから)ことから推察できる事は、支那事変(彼らに言わせれば日中戦争)当時、支那人を蔑称としていたとの宣伝工作を行い中国共産党が喚いていることは、彼ら(鮮卑…)が自らを支那人とは認識していなかった事を意味しているのです。

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 ただ、日本人は、古来、今の中国大陸全域(古くは黎族が揚子江北岸までも広がっていた)を愛情を込めて「支那」と呼び続けていたのであって、後に藤原氏として列島の支配的氏族に成長することとなる阿蘇氏を中心に、大陸を支那と呼び続けていた事が現代にまで繋がっていた可能性があるのです。

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雲南省麗江周辺地図


 考えても分かる事ですが、凡そ日本人が蔑称とした「支那」の差別語(彼ら中国共産党の言い方によれば)を地域名とか城の名にする民族がいるとは考えられず、誇りを持って支那城と呼ぶ人々がいたのです。

 古くは、黄帝時代、蚩尤(シユウ)、三苗、九黎が広く中原にまで広がっていた時代、インド商人なりイスラム商人なりと接触し、“お前たちの国は何と言うのか?”と問われた時、当時、江南に広く展開していた黎族でも最後まで漢族、鮮卑族と最期まで闘い続けた人々の祖先が海岸部で彼らと接触した時、「支那」と言っていたからこそ、現在でもオリンピックでの表記が「チャイナ」となっているはずなのです。

そして、辺境の山岳地帯に追い落とされた阿蘇氏や白族が列島に移動し支配的氏族に成ったのです。

問題は、黎族が少数民族の山岳地帯に追い込まれる前に国名として使っていた可能性のある「支那」を何から継承したのかであり、それが、宮脇淳子先生が言われるような「支那」が嬴政(エイセイ)の秦帝国(紀元前3世紀)からのものであるか、百嶋先生が確認された雲南省に追い落とされた黎族の後裔によるものであるかはこれからの課題です。勿論、その後も秦がチャイナと考えられた可能性は否定しません。

百嶋先生は、麗江の多氏と昆明〜大里から海南島を経由し列島に避退した時期を前34世紀と考えられていたようですから阿蘇氏の方が少し古いように思うのですが、今のところこれ以上の決め手は持ちません。これだけではありませんが、主要には以下を中心に阿蘇氏を探って来ました。参考にして下さい。

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ひぼろぎ逍遥(跡宮)

360

阿蘇氏が天皇家の一族であると言う理由について

266

再び、再び、支那について

   

ひぼろぎ逍遥

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阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

41

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  H “阿蘇から筑後に移動した阿蘇氏”

40

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  G “阿蘇ご一家神代系図”

39

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? F  “八井さんを探して下さい”

38

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? E  国造神社と風宮神社

37

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  D  “草壁吉見神社の参拝客急増”

36

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  C  “龍田の神を立野に祀る!”

35

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  B   神代系譜

34

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? A  立田阿蘇三宮神社

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


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百嶋由一郎手書きスキャニング・データ 百嶋神社考古学初期08(不明)「多大将軍と百嶋先生」

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雲南省麗江の支那城には今も多大将軍像があり、百嶋先生はこれを阿蘇氏の祖先であると看破されていたのです。

勿論、奈良の多神社が阿蘇草部吉見神社の移動したものであり、彼らのルーツを発見されていたのです。

先生は、中国語は元より漢籍もスラスラ読める方でしたが、現地では多くの資料を読み解き探索されていたのだと思います。ただ、急逝されたため継承ができず、それを受け止める力を持った者もいなかった事から今後は残された自宅の資料を調べる作業に入らざるを得ないと考えるこの頃です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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