2019年11月07日

ビアヘロ106 古田史学の会の四国の組織の離脱に思う“古田武彦を失った九州王朝論者の未来とは”

ビアヘロ106 古田史学の会の四国の組織の離脱に思う“古田武彦を失った九州王朝論者の未来とは”

20190831

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古田史学の会でもかなり大きな組織力を持った愛媛の会が離脱を宣言しました。

私自身が同会の末席を汚す立場にある事から一応は考えを整理し公表しておこうと考えます。

思えば17歳の高校時代に宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」を読み、大学に入っても直ぐに古田武彦の「『邪馬台国』はなかった」以下の初期三部作を読み、かなり早い段階で九州王朝論に取り込まれていたようです。いまや半世紀近くが経ったことになります。

ただ、穴掘り考古学の連中の大嘘に気付き、どんなに精緻な報告書が出されようが結局は京都学派にとって都合の良い結論が出される構造が出来上がっていることから、早い段階で侮蔑の対象でしかなくなっていました。

その代わりに進出したのが照葉樹林文化論であり民俗学であり神社研究だったのですが、現在、主軸にしている神社研究はここ十数年程度のものでしかありません。

しかし、フィールド・ワークは数十年来のものであって、継続して来た地名調査と併せこれらが後の神社研究に大いに役立っている事は間違いないでしょう。

 最終的に百嶋由一郎氏の神社考古学に遭遇することにより九州王朝論に魅了されている者としても非常に特異な位置に立つことになったのでした。

 しかし、ここ数年で百嶋神社考古学の影響を受けた研究者、観察者のブログだけでも全国で2030を数えるに至り、最低でも神社研究に於いてはかなりの影響力を持つに至るところまで来たようです。

 当初は貴重この上ない百嶋由一郎氏の業績の主要部分だけでもなんとか残したいという使命感だけで始めた作業でしたが、この側面から九州王朝論を再構成して行くと、やはり百嶋由一郎氏が主張した“「古事記」の95%は嘘“という主張が正しいと理解できるようになっていったのでした。

 ここまでくると、「日本書紀」より「古事記」が原型を保っているとか、二倍暦年といったものに疑問を抱く様になってきました。

 もう何度も書いてきましたが、倍に伸ばしているのではなく、年数が誇張されているどころか年代も偽装され、天皇でなんでもない民族も全く異なる只の臣下などが天皇扱いされ挿入されている事に気付くに至るや、元々偽装された記紀を基礎に九州王朝論を組立てる事に意味が無い事に気付いたのでした。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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和風諡号から考えてみた


@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


一応、16代までの天皇の和風諡号を「日本書紀」に沿って並べて見ました。

 百嶋神社考古学では@、C、F、G、H、M の6代だけは呉の太伯の流れを汲む正統皇統の天皇と考えます。では、それ以外の10人の人物はとお考えになると思いますが、

2代贈)綏靖天皇とは、現在、阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている金凝彦(神沼河耳命)であり、第3代贈)安寧天皇が誰かは謎だったのですが、現在のところ博多の櫛田神社の大幡主(天理教の主神でもある)ではないかと考えています(研究会内部には他の人物への比定もあり、なお、検討中です)。

 第5代贈)孝昭天皇は、阿蘇高森の草部吉見神社の主神(ヒコヤイミミ)とされています。

 第6代贈)孝安天皇は、熊本県玉名市の疋野神社の「波比岐神」=大族日置氏の祖とされています。

 第10代贈)崇神天皇は、福岡県那珂川町の現人神社、博多の住吉神社の主神とされている年若の開化天皇の臣下とされていました。第11代贈)垂仁天皇は、宮崎市の生目神社の主神。

 第12代贈)景行天皇は、第6代贈)孝安天皇(玉名市の疋野神社)の子であり山鹿市の大宮神社の主神とされていますが、これについては疑いを持っています(景行伝承は存在していたと考えますが明治期に主神にされた可能性が高い)。

 俗に欠史8代とか9代とか通説では文字どおりの架空の神話扱いにされている部分を議論しているのであり、学会通説に阿ねて尾を振る教育委員会や学芸員といった利権まみれの方々からは、当然ながら狂人扱いにされる事は覚悟の上の話になります。

 奈良から日本が始まったとか邪馬台国は奈良にあったとしか考えられない考古学協会が作成した嘘話に取り込まれた方々はどうでもよいとして、少しでもまともな思考ができる最低でも邪馬台国九州説、九州王朝論の立場に立たれる方々でも、二倍年暦(倭人は一年を二年とする「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」)といった考え方で納得されている方が多いと思います。

 ところが、実際には血統も民族さえも繋がらないただの臣下でしかない人物が後に贈る天皇扱いとされ、

全く整合性のない皇統譜が造られている事が見えて来ました。勿論、藤原氏が自らの側に取り込みたい有力氏族の祖を天皇に仕立てただけなのですが、これが、タラシ系とかイリ系などと言われる事と関係しているのです。これは、宮内庁、神社庁は十分理解されているはずなのです。

元々、「古事記」の95%が嘘、「日本書紀」は部分的に正しい事を書いていると言われた百嶋先生でしたが、「阿蘇ご一家神代系譜」などに、前述した初期の天皇、贈天皇、別王が実際には誰であったのかについてのメモ(ヒント)を残しておられました。まずは、その事についてご紹介しておきます。以下省略

 私達はこのような皇統を信じ込まされていたのです。しかしそのごまかしのベールを取り去れば真実の九州王朝の皇統が蘇ってくるのです。これが記紀を真に受けるか疑いつつ探索するかの違いなのです。

 後は、この裏取りの作業を続けるのみで、我々の任務はその延長上に存在しているのです。

 我々はいつしか九州王朝論でも非常に異なる立場に踏み込んでしまった事に気付くのですが、今さら後戻りしようとはとても思いませんし思えもしません。

 それほど百嶋由一郎氏が残した研究業績は素晴らしいものだったと思うばかりです。

 このため文献史学の中心の古田研究からどれだけ離れているか、逸脱しているかを基準に議論される事には情けなさを感じるのですが、一つの基準だけで正統性を競う事の危うさを感じるばかりです。

 勿論、通説派の畿内説論者とか記紀に摺合せをする考古学協会などの追従者の方々に対しては、尚も正統性を感じますし、その限りでそのような組織が存続を続けこの連中への攻撃を緩めない事には重要な意味を感じますが、真実の九州王朝の姿を描く作業ができないのならば、記紀を巡る部分的な改竄を暴く作業だけでは大衆を惹きつけ続ける事はできないと思うのです。

 勿論、今回の組織的対立、分裂について私達はどちらに組しようとは思いません。

 むしろそのような情念こそが研究を前進させるものと考えています。

当然にも組織の規模によって古代史の研究団体の価値など図れるはずなど全くないのです。

 現在、自前の研究者を失って久しい福岡市を中心とする九州○○史の会なるものを丸抱えで抱え込もうとしているようです。要は草刈り場と化しているのですが、九州に居ながら自前の研究を行わない只の邪馬台国九州説を語る会、良くて九州王朝説を楽しむ会のメンバーを抱え込んだとしてどれほど価値があるのかと思ってしまうのです。

しかし、会を強化すると言う事は、始めは突飛に思えても何がしかの真実が存在するのではないかと許容し、独自の研究を奨励し適当なアドバイスや支援を行わなければならないはずなのです。

 それこそが会を強化し前進を補償するものなのです。

 ましてや、この会が古田武彦の限界を超えると称し独自の研究体制を追求していた事を知る者としては、その姿勢や研究への情熱は一体どうなってしまったのかと問わずにはおられないのです。

 指導部が潰え去り何の情念もない調停者のようなどこにでもいる人物がトップになると堕落は進みます。

 要は、研究し論文発表するのは九州外の古参メンバーだけであって、九州は発表の舞台と印刷所と化して久しいのです。それとて会報が百部程度でしかなく、それでも会内の議論反論を認めないと言うのですから真面目な研究者が意欲を失い離脱を示し始めているのです。

 特にこの外部の古参研究者達は教条的な(彼らの言葉として)古田史学の会からの追放者であったことから、古田史学の会による会の実質的な吸収は許しがたい事であってかなり大きな軋轢をもたらすことになるでしょう。

 いずれにせよ、荒金、兼川とキラ星の如き意欲的な研究者を失った段階で解散しておけば恥を晒す事もなかったでしょうが、いまや通説派の教育委員会関係者と学芸員などの通説まがいの話を拝聴し平伏しているのですから、九州王朝論への侮りを受けないうちに態度をきめるべきではないかと思うものです。

 ここでかく言う我々はと言えば、早い段階で百嶋神社考古学という極めて衝撃的な研究に接触し、その異色の九州王朝説に惹きつけられました。そしていつしかその衛星として取り込まれている事に気付いていたのでした。

 しかし、もし、九州王朝論を幾分でも身に付けていなければその重要性は全く理解できなかったはずです。その意味で改めて古田武彦氏の業績には敬意を表したいと考えています。

 ただ、四国の会の組織的離脱から見れば、我々壱百嶋神社考古学の者などは異端中の異端、しかも古田説とは大いに異なる立場にある訳で、四国の会と古田史学の会中枢部との対立など些細な感情的行き違いに過ぎないと思えるのです。その意味では、我々こそが真っ先に排除されるべき危険分子なのですが、いつでも切り捨てられる覚悟は当の昔にできているつもりです。

 それよりも、九州王朝の本拠地に於いて多くの現場を調査し探究を続けている者としては、少数であっても新たな研究スタイルに進出でき、全く新たな発見の連続に日々追われる状態にあり、それが可能なに改めて喜びを感じているところです。

 ともあれ、九州○○史の会の主要な研究者の一人であったU氏も、“自分では何も研究も調査もしていないくせに発表を封殺するとはつまらない連中だ…今後は原稿も送らない”と言われている始末なのです。

 このU氏とは頻繁に連絡し九州の山奥まで一緒に調査に入っているのですが、このような立派な研究者からさえ見放されるのですから彼らが如何に堕落しきった人々であるかが思い知らされると言うものです。

 ともあれ、我々は尚も未知の世界の探求に突き進みたいと考えています。

 卑しくも九州王朝説の立場に立つ研究会のメンバーであり他の人々と異なり、九州の現場に住んでいるのならば尚更、その優位性を生かして自ら調査し、記録を残し、尚且つ発信すべきはずなのです。

 それこそが、古田武彦が一生を掛けて守り抜き将来を託した九州王朝研究説の将来への展開であり未来のはずなのです。

 村興し町興しから果ては世界遺産登録まで多くの郷土史会、史談会といった連中と同様に、行政に接近し、地域興しに迎合し行政の芸人に成り下がる研究者、報告者さえも産み出す浅ましい状態にあることは何とも馬鹿げたことで、行政の提灯持ちとなる背徳者どもは早々に消えて欲しいものです。

現在、太宰府地名研究会は熊本、大分も含め、現地のフィールド・ワークを続けていますが、同会のHPには多くのblogがリンクされています。当方が運営するものは、古代史、地名研究、民俗学を対象とする「ひぼろぎ逍遥」と神社研究に特化した「ひ無題.pngぼろぎ逍遥」(跡宮)という二本立のblogによって月間2030本程度を配信し始めて5年目に入りましたが、既にネット上には1700本程度の記事が踊っています。勿論、主要なテーマは九州王朝の探究ですが、現在、三本立てのblogだけでも日量1,4001,500件(=年間50万〜60万件)程度のアクセスがあり、当面は年間70万件を目標としています。それ以上に連携するサイトの規模を考えてもグループ全体としては凡そ年間200250万件を軽く超えているものと考えています。この点、質が全く異なるハイ・レベルこの上ない格調高い古田史学の会の「新古代学の扉」が凡そ年間10万件=累計150万件程度であることを考える時、我々の下世話なサイトもそれなりに健闘している事がお分かり頂けるでしょう。当方の場合その背骨を支えてきたものは大学時代から読み始めた古田武彦3部作でしたが、後期三部作も含め、徐々に非古田、反古田系の九州王朝論にも目を向けるようになり、今や、佃収、内倉武久、米田良三…から神代史研究の第一人者であった百嶋由一郎神社考古学に焦点を絞った九州王朝論をも取り込み、blog連携を全国化しつつあります(次葉参照)。現在、当方のHP「太宰府地名研究会」「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)、新ひぼろぎ逍遥 には25に近づくblogHPがリンクされています。このほとんどが多少の差こそあれ、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)をベース無題.pngとした百嶋神代史研究の影響を受けており、今のところ中心は北部九州にありますが、北は青森〜東関東、北関東、愛知、南は四国の高知県に百嶋九州王朝研究の立場から神社、古墳…を調べる文献史学派も含めた研究者、記録者、伝承回収者、映像収集家…のネット・ワークが急速に広がりつつあります。最低でも25人の研究者(只のブロガーじゃねいか…と言われそうですが、それでも恥をかかないようにと皆さん頑張って書かれておられるのです)が集まっておられるのであって、自らは何も調べようともせずに、他人の話を右から聴いて左に貫けて行くような只の「邪馬台国本」読みの愛好者ではないのです。勿論、最近スタートしたばかりの方もおられますし、休眠中だったものを復活させた方もおられます。しかし、最低、日量300件のアクセスでも年間では10万件にはなるのです。当然、全体では楽に年間150万件になると申し上げたのも極めて控えめな推計です。当方の二本立てと「常陸の国探検隊」に連動する「宮古の縁側日記」が先行していますが、この4本だけでも軽く100万件のアクセスにはなるのですから、実際には年間300万件超えでも決しておかしくはないのです。ブロガーとは自分で調べ記録を残し後世に残そうとしているのですから、若者が目も向けない本を出したり、100部程度、多くて500部程の会報を出すよりも余程効率の良い媒体となっているのです。ところが、○○研究会とか○○地名研究会などと名乗っていても、所謂「邪馬台国本」を齧っているだけとか、研究会とか称する団体に入って仲間内の研究と称する講演でも学会通説派が作成したパンフレットをコメントなしで無批判に配り、インターネットから引っ張り出した資料の継ぎ接ぎによるコピーで熱弁を振るう仲間内の講演も右から聴いて左に貫け、貰った資料さえもいつしか置いた場所も分からなくなってしまうようなものを研究会と思うかどうかの問題でしかないのです。凡そこのような団体では10年を待たずして何の成果も残すことなく雲散霧消し潰え去る事になるでしょう。ましてや、会計報告はやっても編集会議はおろか会報も出さないような団体では研究会でもなければ、外部にしか研究者もいない事になるのです。つまりカラオケ・クラブ同様の仲良しクラブの親睦会でしかないのです。今時本も出さずblogHPも持たない者とは研究者としては存在していない事と同義であり、研究者亡き研究会でしかないのです。そもそも九州王朝論とは国家権力が封印した禁断の研究であって真実であるが故に隠されたものなのです。そんなものを行政が認めるはずはないのです。このような権力に対する確固とした独立姿勢が肝要なのです。

このような方々は行政主導の村興し町興し果ては世界遺産登録などといった学会通説派の尻押し団体に堕落するか、教育委員会や学芸員との連携を取り組むどこにでもある通説派の団体に成り下がり、その一部が“私にも講演させてください”とばかりに卑しくもさもしい擦り寄りを見せることになるでしょう。

しかしそれでも研究者とはいるものです。ただ、彼らは群れないからこそ研究者なのであって、孤立しているからこそ独自の研究や発見ができるのです。このように研究者とは、親睦会紛いの何々研究会の傘の中の裾野に産まれ成長するのではなくあたかも電信柱の様に散らばっているのです。してみると、その電信柱のネット・ワークにこそ価値があるのです。ましてや、私達は百嶋由一郎という稀代の神社研究者の存在を知ったのですから、それを何とか後世に引き継ぎ、嘘で固められた「古事記」「日本書紀」、それを批判するとしてその延長上に組み立てられ登場した九州王朝論も通説の臍の緒を引き摺っている事に警鐘を鳴らすものです。

その意味で百嶋研究は本当の意味での九州王朝論に近接する強力なレーザー・メスなのかも知れません。

このため、どのような障害も抵抗も排除し後世に引き継ぐ任務まさにミッションを帯びているのです。

古田武彦を失い何の情念も持たない既存の九州王朝論では、いずれ、他愛もないただの「邪馬台国九州説」に後退し、ほどなく通説派に取り込まれていくことになってしまうでしょう。

あくまでも、研究会とは研究者とそれをサポートする人々による団体なのであって、ただの「邪馬台国本読み」の愛好会では一生を賭して切り開いた古田武彦九州王朝論を継承する事は決してできないのです。

不正なアクセス制限を行うことから新規のブログの掲載を中止したひぼろぎ逍遥に対し新たに開始した新ひぼろぎ逍遥の三本立ての掲載は神社専門の ひぼろぎ逍遥(跡宮)が日量1100件程度、一月から開始した新ひぼろぎ逍遥が日量200件程度、閉鎖した旧ひぼろぎ逍遥が250件程度(昨日は何故か900件)と望外な成功を得ています。今後5年ぐらいで年間100万件まで成長するかも知れません。

今後とも宜しくご支援をお願いいたします。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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