2019年10月31日

ビアヘロ105 菊池一族とは大山祗系民族だった!“内倉武久氏らと宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”

ビアヘロ105 菊池一族とは大山祗系民族だった!“内倉武久氏らと宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”

20190831

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここ一年で ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下の三本をアップしてきました。


ひぼろぎ逍遥

723

菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(上)


 この神社が如何に価値あるものであるかは徐々にお分かり頂くとしても、ここでは、これまで三度ほど参拝し見えて来た認識を現段階での理解でお知らせしようと思うものです。

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狭上稲荷神社 カーナビ検索 宮崎県西米良村村所503


 この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地にあるのですが、村の中心部の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底へ降りるとようやく辿り着く正しく大変な場所の僅かな小平地に鎮座している荷神社です。しかも狭上稲荷神社の傍には伝大山祗の墓とする古墳があるのです。この古墳には石棺があるらしいのですが、後述の「石櫃」地名と関係があるのではないかと考えています。

 実は、同社への道は川沿いに上がる直行ルートが本来の参道の様で、川沿いに今も上がってはこられるようですが、現在、車で入る事が出来る道がないため、延々10キロの山道で迂回し入るしかないのです。


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。

この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。


宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会

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社務所+宮司宅(左) 参拝道を歩む在りし日の内倉武久氏(右)


 今回、新メンバーであり人吉盆地の一角でblog「ひろっぷ」を書き続けておられる50代の女性に、芦北町の郷土史会というか史談会と言うか野坂の浦で活動中の吉田先生、さらに大阪から来られた内倉武久先生の3人をお連れしました。結果、私としては三度目の訪問となりました。

 折しも、朝日系の人気番組(地上波)「ポツンと一軒家」に6月か7月に間違って収録され放映されたこともあって多少は参拝客が増えたとか、ついでにお嫁さんもみつかったということです。

無論、私達の目的がそこに在る訳ではありません。

 四人の思いは各々あったでしょうが、少なくとも私が最も関心を持っていたのは南北朝期に宮方として闘い続けて敗れ去った菊池氏が何者であるかを掴むことにありました。

 皆さんが九州の中近世史を考える上でも菊池氏は無視できませんが、実は九州の古代史を考える上でも決して無視できない存在なのです。簡単に言えば岩手県が顕著なのですが、東北地方に菊地、菊池姓を名乗る方が大量におられる事は知られています。

 中近世期に目だった移動が確認できないため、恐らく八世紀以前の九州王朝の時代に何らかの理由で移動しているのではないかとも考えて来ました。

 そのうち糸口は掴めると思っていますが、この菊池氏が何者であるかはこれまで闇に包まれてきました。

 普通はその氏族が奉斎する神社の祭神や家紋を見れば凡その見当が着くのですが、菊池氏については、それが効かなかったのです。

 例えば神社ですが、いくら多くの菊池系神社を踏もうが祭神は菊池武光、武時、始祖の則隆…ぐらいで一向に祭神が見えてこないのです。

 また、家紋についても、皆さん良くご存じの並び鷹羽が知られています。しかし元々は日足紋を使っている事は分かっています。

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 唯一、33番神楽でも知られ菊池氏の逃げ城と言われた現宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社だけに磐長(イワナガ)姫(通説で大山祗からコノハナノサクヤと共に送られるも返されたと言う酷い話に仕立てられた)が祀られ僅かにその痕跡を感じていましたが、ようやくその意味が見えて来たのです。

先に狭上稲荷神社の祭神を再度確認しましょう。〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 によれば 大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先 となりますし、同社の由緒に依れば、大山祇命 蒼稲魂命(恐らく倉稲魂命) 大己貴命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先となります。ただ鹿児島県にだけ分布する大宮姫伝承の大宮姫命は含まれてはいません。

 確認されたい方は以下をお読み下さい。いずれにせよ菊池一族が奉斎する神々の見当がある程度は着くのです。これに銀鏡神社の磐長姫を考えれば菊池氏が何者かの見当が大凡着くのではないでしょうか。

 同社由緒は以下で確認下さい。


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亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


では、我が百嶋由一郎最終神代系譜で確認して見ましょう。

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稲荷様とは伊勢の外宮の豊受大神こと辛国息長大姫大目姫(大山祗の長女神大市姫の娘)です。

狭上稲荷の祭神(当然にも稲荷を含む)も全て大山祗のファミリーであり、菊池氏が奉斎する神々がウマシアシカビヒコチ(トルコ系匈奴=大昭君系親漢派の南匈奴)と天御中主命(白族)の後裔であることが分かるのです。

 では、銀鏡神社の主神の磐長姫(通説でコノハナノサクヤの姉とされる)の方はどうなのでしょうか?

 その前に磐長姫が誰かが分かっておられない方が多いと思います。

 これについては、当方のバックナンバー ひぼろぎ逍遥(跡宮)020 細石神社とは何か?などを読んで頂くしかないのですが、分かり易いのは ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @ かも知れません。


487

安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @


 一応の説明を致しますが、率直言えばかなり分かり難いと思います。このため、先に分かり易い方の簡略化した説明をしておきます。

@  コノハナノサクヤは確かに高木大神の息子であるニニギのお妃になります(その子が糸島半島の桜谷神社の古計牟須姫命)。しかし、百嶋翁の話によると数年で別れ、豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入り事実上のお妃のお一人となります。

A  とすると、ヤタガラスの姉がアカルヒメ=磐長姫ですから、コノハナノサクヤにとってアカルヒメとは義理の姉になるのです。

 これが磐長姫がコノハナノサクヤの姉とされる仕組みなのです。しかし、東米良の銀鏡神社の祭神がイワナガヒメとされた理由は不明です。もしかしたら天御中主命の勢力(白族)の支援を期待しての事だったのかも知れません。これで菊池氏が大山祗系の氏族である事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

前述の如く通説では木花之佐久夜毘売は、ホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとしますが百嶋神社考古学ではそれを認めません。また、磐長姫と木花之佐久夜毘売とが実の姉妹である事も認めません。また、無関係でもないと言うより、むしろ関係性の強い従妹のような関係なのです。

B  南北朝期阿蘇氏と連携し戦い続けた菊池氏でしたが、彼らが自らの素性、つまり熊襲であった事を隠す必要が有り阿蘇氏と同様の鷹羽紋に変更し阿蘇氏一派つまり熊襲ではないと偽装した可能性が浮かび上がってきました。つまり朝敵と言われないための配慮だったのです。今後も探索します。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


まず、百嶋神社考古学で、イザナミはイザナギと別れた(神話では黄泉の国で喧嘩別れした事になっていますが)後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり豊玉彦=豊国主=ヤタガラスとアカルヒメを産みます(これには多くの傍証がありますがここでは省略します)。

磐長姫は博多の櫛田神社の大幡主(白族)を父神として金山彦(瀛氏)の妹神であるクマノフスミ(イザナミの後の神名)を母神として生まれたアカルヒメ(スサノウのお妃で姫島に戻ってきた)とします。

一方、コノハナノサクヤヒメ大山祇(越智族)を父神として、博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫母神として産れた大国主命の妹とします。

このため妙な表現になりますが、父神も母神も異なるものの、アカルヒメの父神とコノハナノサクヤヒメの母神が兄妹であることから、腹違いで種違いの従姉妹といった関係にはなるのです。

これは勿論伏せられていますが、百嶋先生がこの事実を把握された事により、問題が鮮明になってくるのです。

これを神話では姉妹としていますが、アカルヒメことが醜かったから返されたとする神話には、阿蘇氏の後裔としての藤原の作為が感じられ、金山彦系を貶める意図があるように思えるのです。

ただ、磐長姫の名誉のために申しあげておきますが、イワナガヒメ=アカルヒメは新羅の王子様であったスサノウから逃げて国東半島正面の姫島に上陸したとされているのであり、スサノウが但馬の出石に追いかけてきたほどの女神であったとすれば、到底醜かったなどとは思えないのです。

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百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:09| Comment(0) | ビアヘロ
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