2019年07月09日

604 西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の逃亡ルート”

604 西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の逃亡ルート”

20180803

太宰府地名研究会 古川 清久


無題.png宇土の八兵衛の逃亡ルート

熊本地震でも最も大きな被害が出たのが熊本市の南部の益城町から西原村ですが、今回は400年ほど前にこの一帯で起こった悲しい事件をご紹介したいと思います。

本稿は7年ほど前に書いたものを一部再編集し公開するものです。


西原村鳥子三之宮神社熊本の大津から阿蘇に向かう大渋滞のバイパスをルート避け、白川沿いに立野を目指します。大津の森、吹田(フケダ)辺りに来ると、対岸に鳥子という変わった名の集落に遭遇します。ここにあるのが鳥子三之宮神社です。


時代は江戸初期の島原の乱(一六三七〜年)前後辺りまで降ります。

以前、口之津の歴史民俗資料館の館長であった原田健夫氏から“「島原の乱」直前に阿蘇山中で捕まった口之津の「八兵衛」について“という小論を知り”この小論に登場する「とりのこの様」が、私(古川)の手持ち資料に書いた鳥子神社と関係があるのではないか“というお尋ねを頂きました。

もちろん八兵衛の出身地が肥後の宇土であり、その逃亡ルートも熊本から阿蘇に向かうものであったことからでした。この話自体は、「世界遺産登録シンポジウム」(2011)の席上において、九州大学大学院の服部英雄教授(当時)が“口之津の八兵衛”についてふれられたことから、原田先生がその根拠、出典を尋ねられ、『史料で綴る天草島原の乱』(全文を後段に掲載)に辿りつかれたものです。

内容は極めて単純で、キリシタンとされたか、本当のキリシタンであったか、一応は真宗門徒に転んだとされる(する)宇土出身の元キリシタンであった八兵衛さんが、逃亡の末に阿蘇の入口で捕縛され、直ちに処刑されたというだけのものです。ただ、この逃亡ルートに登場する“とりのこの様”がどこの何者かというお尋ねが含まれていたのです。


原田館長(口之津歴史民俗資料館)による書下文


元々は鶴田倉造氏の編集による「原資料で綴る天草島原の乱」本渡市発行(平成六年イナガキ印刷)という資料があるのですが、ここでは原田館長による口語訳の略文をご紹介します。


八兵衛は肥後宇土の生まれで,40年前に口之津にいた。その後,度々口之津に商いのために行った。

尋問を受けたこの年の10月初旬には「口之津水籠事件」が起り,「島原の乱」の発端となるが,通行人の取締りも厳しくなり,謀反人の詮索が始まった。

各地に手が延び,八兵衛は肥後国内で野宿をせざるを得なくなった。彼は24年前まではキリシタンだったが,1614年に真宗門徒になった。

取調べの中で,どうやら懐中に「肥後惣中様」と書かれた書状の包み紙を所持していたらしく,そのことを詰問され弁明に務めていることがわかる。尋問の結果,どうなったか。以下の文書で確認してみる。


以下は地名研究に関係のある逃亡ルートについて取上げます。


三日の夜、とりのこの様ニ参候


三日の夜には“とりのこの様”に参じそうろう…原文は掲載のとおりですが、八兵衛は宇土郡の大田(?)の出身で島原と熊本の間で商売をしていたようです。それが口之津水籠事件に関係したものか、ただの濡れ衣だったのかは置くとして、なぜか逃亡する羽目になり、最後は阿蘇南郷谷の入口の久木野町辺りで捕縛され直ちに処刑されるのですが、ここで取上げるのはそのルートと地名です。

まず、八兵衛は宇土郡の大田の出身とされていますが、宇土半島の北岸にあり“オウダ”と読む宇土市の網田以外に思い付くものがありません。問題は“とりのこの様に参候”です。熊本空港の東に西原村鳥子(トリコ)があります。トルコと呼ぶとも聞きますが、ここでは、一応、「トリコ」としておきます。

“とりのこ”と“とりこ”と、多少、異なるようですが、これは、熊本の地名に明るい方ならば比較的簡単な話のように思います。


この資料に登場する地名を略載すれば下記のとおりです。

二九日  川尻          鉄道唱歌にも登場する熊本の次の駅がある町

熊庄          城南町 隅庄か?        

宇土の山々に野宿         宇土の意味は宇土郡と思われ岩古曽から豊野辺か

晦日   矢部に野宿       通潤橋の矢部の手前か?御船から入った辺りか

朔日   長六橋         焼餅を買う 国道三号線はこの橋で白川を渡る

その夜  木山 原に伏す     白川左岸 木山町

     戸島 原に伏す     白川左岸 戸島町

三日   山、西の原       阿蘇郡西原村

三日夜  とりのこの様に参候   阿蘇郡西原村鳥子

四日の朝 捕縛          阿蘇郡久木野村か?


従って、『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います    (なお、行政名は旧来のもの)。


それは、宇土、熊本、植木近辺にはこの手の、間に”の“が入る地名が他の地域に比べて異常に多いのです。大字単位で見ても、まず、白川を渡る大津町には引水(ひきのみず)が、八兵衛の出身地である宇土市には、弧江(こものえ)、硴江(かきのえ)、西田尻(にしたのしり)、宮庄(みやのしょう)が、宇土市の南には旧町名でさえあった宮原(みやのはら)が、同じく北の富合町には田尻(たのしり)、南田尻(みなみたのしり)、廻江(まいのえ)、城南町の丹生宮(にゅうのみや)、隅庄(くまのしょう:文中の熊庄と関係があるかも知れません)、舞原(まいのはら)が、熊本市の水前寺の南に田井島(たいのしま)、金峰山の南に池上町(いけのうえまち)、北熊本の八景水谷(はけのみや)、が、菊池郡合志町に上庄(かみのしょう)、福本(ふくのもと)が、鹿本郡鹿央町の梅木谷(うめのきだに)、中浦(ちゅうのうら)、玉名市の東玉東町の木葉(このは)、上木葉(かみこのは)…もう、これぐらいにしておきましょう。


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残りの地名はご自分でご確認ください。

『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います。 (なお、行政名は旧来のもの)

話は変わりますが、この地名を考える時、何か言いようのない戦慄を抱くのは私だけでしょうか?

古代史に関する興味から対岸の大津町吹田、森の集落に入ったことがあります。

被差別部落成立の起源について論じるとなると全面展開になりますのでもちろんやりませんが、ここでは極めて簡略化したモデルを提出しておく事にします。

一般的には秀吉の太閤検地(刀狩)以来、主要には幕藩体制の下での士農工商という階級差別の維持固定化のために部落を温存し助長したことが今日まで残る未解放部落の起源とするものがあたかも正しい説のように語られます。しかし、これは明治の維新政府が幕藩体制(アンシャンレジーム)を悪しきものとして描きたかったがために、主として御用学者によって主張されたものであって、これもある種歴史の隠蔽偽造のために意図的に持ち込まれたまやかしであったはずなのです(秀吉が猿と蔑まれ貶められたのも、徳川が豊臣の復活を恐れたためなのですが、・・・)。

真の古代像を浮かび上がらせんとするには、さらに感性のアンテナを高く上げる必要があるような気がします。まず、沖縄、北海道は当然として、僅かな例外はあるものの基本的に北関東以北には被差別部落が存在しない事に気付かれると思います(早稲田大学作成地図参照)。

それは、戦争捕虜であったか奴隷であったかを問わず、均質な民族性に差別が生じ難いことは言うまでもありません。

俘囚が異なる民族の中に少数派として持ち込まれていたからこそ、言葉や生活習慣の違いから差別が生じ永続化したのであって、東国の奴隷を東国に置いていては差別どころか、叛乱が繰り返されることにしかならなかったのです。

無題.pngこの問題については、一九九三年に公刊された部落史研究者の高木 力氏による『部落の源流』(千二百年の悲愁)彩流社に詳しいのですが、大和朝廷(天皇家)の東国平定(侵略)によって発生した(直接に奴隷を獲得するためとする説もありますが)俘囚の移配にこそ、その起源を求めるべきであると考えます。

簡略化すれば、士農工商の上には公家(貴族)があり、最高位として天皇家が居たのであり(御用学者これに触れません)、逆にその下には、大和朝廷(もしかしたらそれに先行する古代王権によって)=天皇家によって貶められた被差別民があったのであり、極論すれば天皇家が被差別民を創りだしたとさえ言えるかも知れないのです。

その後、朝廷の下僕として積極的に奉仕した一部の俘囚は地方権力の一部となった者、金属精錬、金属加工などで財をなす者などがあったはずで、後代には徐々に様相が変わっていったものと想像できます。このため、単純に俘囚集落が直接的に今日の被差別部落であると主張するものではないということも併せて申し上げておきます。            鶴田倉造氏編集「原資料で綴る天草島原の乱」による

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簡略化すれば、鳥子とはヤタガラスの後裔氏族であり、神武天皇に協力した製鉄集団の関係者の集落を思わせるものでした。それ自体には問題はありませんので、私信ながらその一部をご紹介致します。


鳥子(鷲子)の詳細は、超極秘になって居りますが、是非知りたい…の方には、許せる範囲の事をお知らせして居ります。鳥子(トリノコ)はお二人居られますが、阿蘇家が大騒ぎ(列島をあげての大騒ぎでした)をした鳥子は、天日鷲・鳥子大神の方です。

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 お役に立つかもしれない資料を少しおおくり致します。モモシマ 拝 (昭2生)

戦前の皇紀年表の皇紀79年の所を、手研耳を誅す。と記されて居ります。出版は遠慮致して居ります。

810-0063 福岡市中央区唐人町3丁目315号 百嶋 由一郎 п@092-712-2856


恐らく、百嶋先生との接触のきっかけとなったのは、拙稿「鳥子」を八代の郷土史家にお渡したからだと思います。百嶋さんのお話の前に私の「鳥子」をご紹介いたします。以下同封メモより

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秘密を守るために外部との通婚も禁止されていた可能性もあるでしょう。城山鉱山跡もありますが…。

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平安時代に使われていた古代の製鉄所跡。写真のように原形をとどめているのは全国でも例が少なく大変珍しい。「熊本県指定文化財」熊本県内に50ヶ所程古代の製鉄所跡が確認されているが、その内の10ヶ所は玉東町で確認されている。

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百嶋由一郎鳥子神代系譜


百嶋神社由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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